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列王記第二 歴代誌第二

私たちの罪過を大きくする

少しだけ列王記と歴代誌に戻りましょう。

アモン王の話は短いものの、全く幸せな話ではありません。

その父であるマナセ王と同様に、アモンは偶像礼拝を行い、さまざまな酷い罪を犯しました。

アモンが父の試練を見たにもかかわらず、その同じ道を選んだのは信じがたいことです。

とはいえ、マナセとアモンには大きな違いがありました。

彼はその父マナセがへりくだったようには、主の前にへりくだらず、かえって、彼アモンは罪過を大きくした。(歴代誌第二33:23)

結果として、アモンの民は彼を裏切り、殺害しました。

おそらく預言者たちがマナセを警告したのと同様に、アモンも警告を受けたのだと思われます。

けれども、アモンは預言者たちの言葉を退けました。ところが、「彼の罪過を大きくしました」と記されており、それはどういう意味なのでしょうか。

おそらく、彼は全く悔い改めなかったのでしょう。

私たちが罪を告白し、悔い改めるならば、神様はその罪を赦してくださり、私たちの心を清めてくださいます。

しかし、私たちが悔い改めない場合、私たちの罪はゴミのように重なっていきます。

ゴミ捨て場に行ったことがあるでしょうか。それは本当に酷い場所です。

それだけではなく、おそらくアモンの罪は時間とともにさらに酷くなっていたのでしょう。

もし私たちが小さな罪を悔い改めるなら、私たちの良心の敏感さを保つことがでけれども、

けれども、神様の声を無視すると、私たちの心は堅くなってしまいます。

その結果、神様の声が聞こえなくなり、罪を犯しても罪悪感を抱かなくなります。そのため、私たちの罪はだんだんと大きくなります。

最後に、彼は自分が罪を犯していることを十分承知していながら、その罪を続けたため、その意味で彼の罪過はさらに大きくなったのです。

時々、私たちは思わず罪を犯してしまうことがあります。それでも、私たちの行動は罪であり、悔い改める必要があります。

けれども、わざと罪を犯すと、私たちの罪過はもっと大きくなります。

イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:47-48)

あなたはどうでしょうか。罪を犯したとき、すぐに悔い改めているでしょうか。

それとも、罪が積み重なってしまっているでしょうか。

アモンのように罪過を大きくしないでください。そうでなければ、アモンのように代価を払うことになるでしょう。

むしろ、マナセのように悔い改めましょう。そうすることで、神の憐れみを知ることができるのです。

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決して遅すぎない

「私にはもう遅すぎるでしょう。」

ジョージ・ルーカスは『スター・ウォーズ』がダース・ベイダーの贖いについての物語だと語っています。つまり、ベイダーは悪によって腐敗しましたが、息子の愛によって救われたのです。

『ジェダイの帰還』で、ルーク・スカイウォーカーは父ベイダーにこう願いました。

「あなたの憎しみを捨ててください。皇帝を拒絶して、私と一緒に逃げましょう。」

けれども、ベイダーは悲しく答えました。「私にはもう遅すぎるのです。私は主人に従わなければなりません。」

その後、皇帝はルークを殺そうとしました。ルークはベイダーの助けをもう一度求めました。

ベイダーはその光景を見て心を悩ませましたが、最終的に皇帝を攻撃して倒したのです。こうして、彼はルークだけでなく、自分自身も救ったのです。

この箇所の話も似たような内容です。

マナセはヒゼキヤ王の息子でした。ヒゼキヤは本当に良い王でしたが、マナセは別の道を歩みました。

彼は偶像を礼拝し始め、偶像とその祭壇を主の宮に築きました。さらに霊媒や口寄せに相談し、占いも行いました。

それだけではなく、彼は自分の息子を火の中に通しました。列王記によると、

罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。(列王記第二21:16)

何度も預言者たちはマナセに警告しましたが、マナセは全く耳を貸しませんでした。むしろ、彼はその預言者たちを殺してしまいました。

ユダヤ人の伝承によれば、マナセが預言者イザヤを殺害したとされています。へブル人への手紙11章37節にある「[他の人たちは]のこぎりで引かれ[た]」という表現は、イザヤを指している可能性があります。

そのため、神様はこう言われました。

見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。

わたしは、サマリヤに使った測りなわと、アハブの家に使ったおもりとをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去ろう。

わたしは、わたしのものである民の残りの者を捨て去り、彼らを敵の手に渡す。

彼らはそのすべての敵のえじきとなり、奪い取られる。

それは、彼らの先祖がエジプトを出た日から今日まで、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの怒りを引き起こしたからである。(列王記第二21:12-15)

そして、アッシリヤ人たちはマナセを鉤で捕らえ、青銅の足かせにつないでバビロンへ引いて行きました。

列王記ではそれ以上の記録はありませんが、歴代誌の記述はもう少し続きます。

バビロンで、マナセはへりくだり、悔い改め、神様を求め始めました。そこで、神様はマナセを赦してくださいました。

そして、マナセはエルサレムに戻り、再びユダの王として立つことができました。

彼は偶像とその祭壇を取り除き、主の祭壇をもう一度築き、その上で和解のいけにえと感謝のいけにえをささげました。

マナセは数々の悪事を行っていました。ユダの王の中でも、彼は本当に酷い王でした。それでもマナセが悔い改めるのは遅すぎることはありませんでした。

神様はマナセのように人々を裁かれますが、多くの場合、神様は長く待った後で裁かれます。神様はマナセを何度も警告し、ついに裁かれたのです。

しかし、私たちが悔い改めると、神様はすぐに赦してくださいます。

悔い改めるのが遅すぎると思うでしょうか。失敗しすぎたから、神様がもうあなたを赦せないと思うでしょうか。

遅すぎることは決してありません。

悔い改めると、神様はあなたのために待つだけでなく、あなたのもとに走り、喜んで歓迎してくださいます。