私たちの多くは、苦しみの中にあるとき、その苦しみに向き合わず、ただ埋めてしまいます。苦しみを無視しようとします。
もしかしたら、仕事や食べ物、楽しみで気を紛らわせようとするかもしれません。けれども、その苦しみは私たちの魂を蝕み、やがて広がり、私たちを飲み込んでしまいます。
では、どうすればよいのでしょうか。
マリアとマルタもこの苦しみを経験しました。彼女たちの兄は亡くなりました。そして、もしイエス様がもっと早く来ていれば、ラザロは死ななかったことを知っていました。ところが、イエス様はすぐには来られませんでした。
そのため、彼女たちはラザロの死に苦しみ、もしかすると、イエス様に裏切られたと感じたかもしれません。
だから、イエス様がようやく来られたとき、彼女たちはほぼ同じ言葉を口にしました。
主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(ヨハネの福音書11:32)
私は前にも言いましたが、もしかしたら、マルタはその言葉を口にしたとき、イエス様を責めるのではなく、「私はあなたをまだ信じています」という意味を込めていたのかもしれません。
けれでも、マリヤの場合はどうでしょうか。おそらく、彼女は苦しみに満ちた声でその言葉を発したのでしょう。だから、ヨハネはイエス様の反応を描写するとき、次のように書きました。
そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ[ました]。(33)
どうしてイエス様はそのように反応されたのでしょうか。おそらく、イエス様はマリヤに深く同情されたのでしょう。しかし、もしかすると、マリヤの不信仰を見て、心を痛められたのかもしれません。
38節では、ほかの人々が「なぜイエス様はもっと早く来られなかったのか」と問いかけたとき、イエス様は同じ反応を示されました。
だから、イエス様はラザロの墓に向かったとき、マルタにこう言われました。
その石を取りのけなさい。(39a)
私はマルタの答えをよく理解できます。
主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。(39b)
けれでも、イエス様はこのように答えられました。
もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)
最初、マルタはイエス様の言葉に従うことに気が進みませんでした。すでに手遅れだったからです。ラザロはすでに亡くなっていました。
しかし、最終的に彼女がイエス様の言葉に従ったことで、イエス様はラザロを復活させられました。
私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。
あなたは、どんな苦しみを心の中に埋めてしまったでしょうか。
その苦しみのせいで、どんな苦々しい思いを抱いているでしょうか。たとえば、ほかの人々に対する苦々しい思い、あるいは神様に対する苦々しい思いです。
イエス様はあなたにこう語られます。
「その石を取り除きなさい。あなたの苦しみと苦々しい思いを私に打ち明けなさい。それらはあなたの心の中で腐っているからだ。だからこそ、その苦しみを打ち明けなさい。もし私を信じるなら、あなたは神様の栄光を見ることになる。」
あなたはどう応じるでしょうか。
