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ヘブル人への手紙

義の王、平和の王、とこしえに祭司

キリストを考えると、どんなイメージが思い浮かぶでしょうか。

クリスマスの時、赤ちゃんのイメージが思い浮かぶでしょう。ほかの時、もしかしたら、良い羊飼いのイメージが思い浮かぶでしょう。

でもこの手紙の著者にとって、イエス様は「メルキゼデクの例に倣い、王と祭司」です。

メルキゼデクは、やや謎めいた存在です。旧約聖書の多くの人物とは異なり、彼の先祖についての記録はありません。また、彼の子孫についても一切知られていません。彼がいつ生まれ、いつ死んだのかも分かっていません。

創世記14章で、彼は突然登場しますが、その後についての記述はほとんどありません。

詩篇ではダビデが一度だけ彼について語りますが、ヘブル人への手紙が書かれるまで、それ以外には何も記されていません。

けれども、メルキゼデクの姿にこの手紙の著者は、イエス様の姿を重ね合わせて見ているのです。

メルキゼデクという名前は「義の王」を意味します。そして彼はサレムという都市の王でしたが、その都市の名は「平和」を意味します。後にサレムはエルサレムとなりました。

このように、イエス様は真の「義の王」であり、「平和の王」でもあるのです。

また、メルキゼデクの系図が明らかでないように、イエス様の系図もまた人間的には存在しますが、実際には永遠の方です。すなわち、神としてのイエス様には、始まりも終わりもなく、本当の意味での系図は存在しないのです。

また、メルキゼデクの死について、私たちは何も知りません。だから、もしかすると彼は今も生きているかもしれません(もちろん、そうではない可能性が高いですが)。

そのように、イエス様は復活され、もはや死ぬことなく永遠に生きておられます。

なぜ、それが重要なのでしょうか。それは、イエス様が永遠に私たちの大祭司でおられるからです。

旧約聖書の時代、モーセの律法に基づいて、レビ人の祭司たちが数多く立てられました。

神様はイスラエルの民と契約を結ばれました。すなわち、民が律法に従うなら、神様は彼らの神となり、彼らは神様の民とされるという契約です。その契約に基づいて、多くのレビ人たちが祭司として仕えました。

けれども、もしその契約が十分であったならば、なぜ神様はわざわざイエス様を送られたのでしょうか。

それは、その契約が完全なものではなかったからです。というのも、イスラエルの民は律法を完全に守ることができず、結果として律法によって裁かれてしまったからです。

祭司たち自身も不完全な人々でした。彼らは毎日、まず自分自身の罪のためにいけにえをささげ、その後でイスラエルの民の罪のためにいけにえをささげなければなりませんでした。

けれども、そのいけにえも十分ではありませんでした。この手紙の著者は後に詳しく説明しますが、もしそのいけにえが完全なものであったなら、一度だけで十分だったはずです。

しかし、そのいけにえは罪の代価を完全に支払うことができなかったため、祭司たちは毎日、繰り返しいけにえをささげなければならなかったのです。

ゆえに、神様との真の関係を持つためには、より優れた契約と、より優れた祭司が必要でした。

イエス様にあって、私たちはその「より優れた契約」と「より優れた祭司」を持っているのです。

イエス様の「系図」について考えてみてください。彼はメルキゼデクの霊的な系譜に属しておられます。

メルキゼデクはアブラハムを祝福しました。この手紙の著者によれば、「劣った者が、優れた者から祝福を受ける」のです。

つまり、メルキゼデクの霊的な系譜は、アブラハムの霊的な系譜(レビ人の祭司たちはアブラハムの子孫です)よりも優れているということです(ヘブル人への手紙7:4ー10)。

しかし、それだけではありません。神様はイエス様に対して、特別な誓いを立てられました。こう仰せられたのです。

主は誓われた。思い直されることはない。「あなたはとこしえに祭司である。」(ヘブル人への手紙7:21)

神様は他のどの祭司たちに対しても、このように誓われたことはありませんでした。

そして、律法によれば、レビ人たちはその系譜に基づいて祭司とされました。けれどもイエス様は、律法によらず、朽ちることのないいのちの力によって祭司となられたのです(7:16)。

だから、著者はこう語ります。

。。。もっとすぐれた希望が導き入れられました。これによって私たちは神に近づくのです。(19)

では、なぜ私たちは、より優れた希望を持つことができるのでしょうか。

それは、神様の誓いによって、イエス様がより優れた契約の保証となられたからです(22)。

この点について、著者はさらに具体的に説明していきます。

また、レビの子らの場合は、死ということがあるために、務めにいつまでもとどまることができず、大勢の者が祭司となっていますが、イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。

したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。(23-26)

イエス様が十字架で私たちの罪のために死なれたとき、その犠牲によって罪の代価は完全に支払われました。ですから、イエス様はもう二度とご自身をいけにえとしてささげる必要はありません。

私たちがすべきことは、ただイエス様に信頼することだけです(27)。

それこそが、私たちの希望なのです。だから、私たちの王であるイエス様を賛美しましょう。

イエス様のいけにえによって、私たちは神様の目に義とされ、神様との平和を得ているのです。そしてイエス様は、今も永遠に、私たちの大祭司でおられます。

ハレルヤ!

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詩篇

私たちの王と祭司

これは、本当に有名なメシアについての詩篇です。イエス様はその詩篇を引用して、パリサイ人が答えられない謎をかけられました。(マタイ22:41-45)

詩篇110篇では、主(つまり、天の父)は、ダビデの主(つまり、メシヤ)にこう言います。

わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。(詩篇110:1)

昔は、戦勝した王は敗戦した王の首を踏みました。

この箇所では、天の父がイエス様に敵を打ち勝たせることを約束しておられます。また、イエス様がご自身に逆らう者さえも支配されることを約束しておられます。

しかし第4節によれば、イエス様はただの王ではありません。イエス様は私たちの祭司でもあります。

ただし、イエス様はアロンの系統に属する祭司ではありません。むしろ、天の父はこう言われました。

主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」(4)

アブラハムの時代、メルキゼデクは祭司であり、王でした。

ダビデとその息子ソロモンは王でしたが、時に祭司のように、いけにえをささげたり、主の名によって人々を祝福したりしました。それでも、彼らは祭司ではありませんでした。

しかし、イエス様は私たちの王であり、祭司でもあります。

ただし、アロンの系統に属する祭司の職と、イエス様の祭司の職には大きな違いがあります。アロンとその子孫は、一時的に祭司として神様に仕えました。

その一方、イエス様は永遠の祭司です。なぜなら、イエス様は永遠の方だからです。(へブル人への手紙7:24)

そして、6節によれば、最後の日にイエス様はすべての国々を裁かれます。その日、すべての人々はイエス様の王座の前に立って、裁かれます。

良い知らせは、イエス様は私たちの大祭司なので、天の父の前で私たちのためにとりなしてくださることです。だから、私たちは神様を恐れる必要はありません。

むしろ、へブル人への手紙の著者はこう言います。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

イエス様、あなたは私の王と神と裁判官です。けれども、一番感謝しているのは、あなたは私の大祭司であることです。

あなたは私のためにとりなし、私の罪をあなたの血によって取り去ってくださり、感謝します。

けれども、それよりも、あなたが本当に素晴らしい神であることを感謝します。あなたの名前によって祈ります。アーメン。