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サムエル記第一のデボーション

やめよ。知れ。わたしこそ神。

サムエル記第一19章を読んだとき、私は詩篇第46篇との関係に気付きました。

サウルから逃げたとき、ダビデは詩篇46篇の詩人の言葉の真実さを、身をもって学びました。

神はわれらの避け所また力。
苦しむときそこにある強き助け。(詩篇46:1)

その一方で、神様はサウルに何を思い知らせようとされたのでしょうか。もしかすると、神様はこう語ろうとされたのかもしれません。

[わたしと戦うことを]やめよ。知れ。
わたしこそ神。

わたしは国々の間であがめられ
地の上であがめられる。(詩篇46:10)

その日、神様はサウルを低くされました。それでも、サウルは神様と戦い続けていました。

もしサウルがその戦いをやめていたなら、神様の平和を知っていたでしょう。神様がまことに私たちの避け所また力であることを、彼も知るようになっていたでしょう。

けれでも、彼は、神様と戦い続け、恐れに囚われたまま生きていました。そのため、彼は酷い罪を犯し、最終的に滅びてしまったのです。

サウルの話を読んだとき、私はヤコブの話を思い出しました。ヤコブも、神様と戦ったことがありました。(創世記32:24~31)

しかし、サウルとは異なり、ヤコブはその戦いをやめ、神様に従おうとしました。その結果、彼は平安を見出しました。

あなたはどうですか。あなたはまだ神様と戦い、自分の道を歩んでいるでしょうか。

それとも、神様を見上げて、こう言いますか。「あなたは私の神です。私の良い王です。あなたを信頼します。」

そうすれば、あなたはダビデと詩人とともに学びます。

万軍の【主】はわれらとともにおられる。
ヤコブの神はわれらの砦である。(詩篇46:11)

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使徒の働きのデボーション

熱心に祈り続けている?

こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。(使徒の働き12:5)

今日の箇所を読んだとき、私はクリスチャンたちの姿について考えました。彼らはヤコブのために熱心に祈りましたが、彼はヘロデによって殺されました。

それでも、ヘロデがペテロを拘束したとき、教会はペテロのために祈りました。そしてただ祈っただけでなく、熱心に祈りました。

そのことを考えながら、私は自問しました。 「神様の答えが遅く感じられるとき、私はどれほど熱心に祈り続けているだろうか。

そして、神様が『ノー』と答えられたことを思い出しながらも、それでも私は同じ熱心さで祈り続けているだろうか。」

今、私は二人の友人のことを考えています。彼らのためにずっと祈っていますが、今のところ神様の答えはまだ来ていません。

熱心に祈るときもあれば、あまり熱心に祈らないときもあります。

もちろん、熱心に祈ったからといって、必ず神様がその祈りを聞き届けてくださるとは限りません。

また、祈りの熱心さが、私の信仰の深さを証明するものとは限りません。(15-16節を読んでみてください。)

しかし、祈りの熱心さは、このような態度を表します。

「天のお父さん、私にとってこの問題は非常に重要です。あなたが私の願いを聞いてくださることを信じます。 あなたが私を愛してくださることを信じます。 だからこそ、私はあなたを信じて、すべてをあなたに委ねます。」

今日、そのような態度を持って、私は友人のために祈りたいと思います。

あなたはどうでしょうか。熱心に祈り続けていますか。

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創世記のデボーション

私たちを決して見捨てない方

見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。

わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。創世記28:15)

ヤコブがどれほど失敗したかを考えれば、神様の約束は本当に驚くべきものです。

でも、神様は私たちに関して、同じようなことを言っておられます。私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。

むしろ、神様は私たちとともに歩み、守り続けてくださいます。

さらに、御霊は毎日、私たちの心の中に働き、私たちをイエス様のようにしてくださいます。

そして、ご自分が約束してくださったことを成し遂げ、私たちが完成されて、顔と顔を合わせて神様を見るまで、神様は私たちを決して捨てません。

パウロのことばを借りれば、

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(ピリピ1:6)

それは、私たちの希望です。その希望を持って、歩みましょう。

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創世記のデボーション

誰の計画?

今日の箇所を読んだとき、私は考えました。

「イサクは誰の計画に従っていただろうか。神様がヤコブとエサウに関してリベカに何と言われたか知っていただろうか(創世記25:23)。」

きっと、イサクはエサウがヤコブに長子の権利を売っていたことを知っていたでしょう。それでも、イサクはヤコブではなく、エサウの方を祝福しようとしました。

そして、私はもう一つのことを考えました。「ヤコブは誰の計画に従っていただろうか。」

ヤコブは「もちろん、神様の計画に従っているよ。だって、神様はエサウが私に仕えると約束してくださった」と主張することができたでしょう。

でも、私はダビデ王のことを思い出しました。

ダビデも同じようなことを言うことができました。神様はダビデがイスラエルの王になると約束してくださいました。しかし、サウルを殺す機会が二度あったのに、ダビデはそうしませんでした。

むしろ、ダビデは神様とそのタイミングを待ちました。

今日、私はたまたま詩篇25篇を祈っていて、ダビデの態度を見ました。

主よ、あなたをわがたましいは仰ぎ求めます。。。

まことに、あなたを待ち望む者がだれも恥を見ず、ゆえなく裏切る者が恥を見ますように。(詩篇25:1、3)

ヤコブは、神様とそのタイミングを待つのではなく、むしろ、ゆえなくイサクとエサウを裏切りました。その結果、ヤコブは恥を見ました。

エサウがヤコブを殺そうと思っていたので、ヤコブは逃げなくてはなりませんでした。彼は母リベカの顔を見ることは、二度とありませんでした。

エサウは最終的にヤコブを許してくれましたが、ヤコブは何年もの間、恐れと苦しみをもって生きていました。

それでも、神様はヤコブに恵みを与えてくださいました。

ダビデと同じように、ヤコブがこのようなことばを祈る姿を想像できます。

私の若いころの罪や背きを思い起こさないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ、あなたのいつくしみのゆえに。(詩篇25:7)

神様は、そのような恵みをヤコブに与えてくださいました。

とにかく、私が考えていたのは、「私は誰の計画に従っているだろうか。神の計画だろうか。私の計画だろうか」ということです。

だから、今日、私はダビデのことばを祈りました。

主よ、あなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください。

あなたの真理に私を導き、教えてください。

あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望みます。(詩篇25:4ー5)

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創世記のデボーション

わずかで、いろいろなわざわいがある

 ファラオはヤコブに尋ねた。「あなたの生きてきた年月は、どれほどになりますか。」

ヤコブはファラオに答えた。「私がたどってきた年月は百三十年です。

私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。」(創世記47:8ー9)

ヤコブの言葉を読んで、私はモーセの詩篇を思い浮かべました。

もしかしたら、モーセが詩篇90篇を書いたとき、このヤコブの話を考えていたのかもしれません。

ヤコブは、辛い時も経験しました。ある問題はヤコブ自身のせいで起こりました。例えば、ヤコブが父と兄を騙したことで、さまざまなトラブルがヤコブに降りかかりました。

そのあと、神様はヤコブに騙される痛みを教えられました。ヤコブの息子たちの嘘によって、ヤコブは20年間ヨセフが亡くなったものと思っていました。

ヤコブの人生は、アブラハムやイサクと比べると短いものでした。(創世記25:7、35:28)

しかし、その短い人生の中で、ヤコブはいろいろな試練に臨みました。

モーセの時代には、人間の寿命はさらに短くなっていました。それでも、ヤコブはモーセの言葉に同意したことでしょう。

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。(詩篇90:10)

しかし、人生の終わりに、ヤコブは神の忠実な愛と恵みを見ました。(詩篇90:14)

神様は、ヤコブが苦しみとわざわいを経験することをお許しになりましたが、ヤコブは自分の人生に神様の御業と威光を見出しました。(詩篇90:16)

また、ヤコブは自分に対する神様の素晴らしい慈愛を見ました。(詩篇90:17)

私たちも旅の途中です。

この世は、私たちの住まいではありません。

この旅は短く、私たちは悲しみや苦労に臨むことがよくあります。

それでも、神様から目を離さず、私たちに対する神の忠実な愛と恵みを覚えていましょう。

そして、毎日、モーセとともに祈りましょう。

どうか教えてください。自分の日を数えることを。 そうして私たちに 知恵の心を得させてください。(詩篇90:12)

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創世記のデボーション

神様の訓練

ここは実に興味深い箇所です。

今日の箇所では、ヨセフは過去の傷に直面します。

20年ぶりに、彼は「正直な」兄たちに会います。(創世記42:11)

(「正直者?あなたたちは私に何をしたか、正直にお父さんに伝えたの?」)

兄たちと話したとき、ヨセフは奴隷として売られたことを思い出します。

もう一人の弟はいなくなりました。(13)

そして、私たちはヨセフの兄たちを見ます。神様は、彼らがずっと埋めようとしていた罪悪感を掘り起こされました。

まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。(21)

最後にヤコブがいます。

ヨセフがいなくなってから、ヤコブはずっとその憂いに明け暮れていました。たぶん彼は、「神様はどこにいらっしゃるのだろうか」と思っていたでしょう。

ヨセフはいなくなり、シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンまで取ろうとしている。こんなことがみな、私に降りかかってきたのだ。(36)

私たちはよく苦しみに遭います。人に傷つけられることもあります。罪悪感に苦しむこともあります。だから、「神様はそんなに私を憎んでおられるのか」と疑問に思うことがあります。

でも、神様の目的は私たちを苦しませることではありません。むしろ、神様は私たちに癒しと救いをもたらしてくださっています。

ヨセフが初めて知ったのは、ルベンがヨセフを売ることに反対していたということです。むしろ、ルベンはヨセフをかばってくれていました。

また、ヨセフは兄たちがそれほど薄情ではなかったことも分かりました。つまり、彼らはずっと罪悪感に苦しんでいたのです。(21〜22)

それを理解したことで、ヨセフは彼らを許すことができたのでしょう。

ヨセフの兄たちは、自分たちは神様の裁きを受けていると思いました。(21、28)

でも実際には、彼らは神様の救いを見ていたのです。

そして、ヨセフがいなくなってから、ヤコブは神様から何も語られていませんでしたが、最終的にヤコブが知ったのは、神様がヤコブの益のために働いてくださっていたということです。

だから、へブル人への手紙の著者が語る励ましの言葉を心に留めておきましょう。

私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。(へブル12:9ー13)

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創世記のデボーション

神様の御顔を見るとき

ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。

エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。。。

ヤコブは答えた。「。。。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。」(創世記33:3ー4、10)

時々、私たちは、神様が私たちのことをどのように考えておられるか疑問に思います。

ヤコブがエサウに対して罪を犯したように、私たちは神様に対して罪を犯しました。だから、神様が私たちを本当に受け入れてくださるかどうか疑います。

でも、驚くべきことは、私たちがうつむき、神様の罰を恐れるのに、エサウのように神様は迎えに走って来て、私たちを抱きしめ、口づけしてくださるということです。言い換えれば、神様は私たちを受け入れてくださいます。

ヤコブに対するエサウの反応は、イエス様の有名なたとえ話に登場する父親の反応によく似ています。

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。(ルカ15:20)

私たちが天の父なる神様の御顔を見るとき、同じような反応が見られます。

あわれみ。

赦し。

受け入れること。

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創世記のデボーション

神は戦う

その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)

ヤコブを祝福するとき、神様は彼に新しい名前を与えました:イスラエル。その名前には、二つの意味があります。イスラエルとは、「神と戦う」と「神は戦う」を意味します。

今まで、私は一つ目の意味が分かっていました。ヤコブは神の祝福と好意を得るため、ずっと神様と戦わなくてはならないと思っていました。

例えば、神様のタイミングを待たずに、ヤコブはエサウの長子の権利と祝福を奪い取りました。

また、神様を信頼せずに、ヤコブとその家族はラバンからひっそりと逃げました。

でも、今日、私は二つ目の意味が分かるようになりました。

ヤコブが学ばなくてはならなかったのは、神の祝福や好意を得るために戦わなくていいということです。なぜなら、神様はもうヤコブの味方でしたから。神様はヤコブのために戦っておられたのです。

ヤコブがラバンと戦うとき、神様はヤコブのために戦っておられました。(創世記31:6ー13、24、42)

また、エサウとの和解のため、神様はヤコブのために戦っておられました。(創世記33章)

神様の祝福と好意を得るために、私たちの多くは頑張って努力しなくてはならないと思います。でも、そうすることで、私たちは神と戦うことになってしまいます。

また、ヤコブがエサウの許しと好意を買おうとしたように、私たちは、神様の赦しと好意を買わなくてはならないと考えます。

でも、神様は私たちに言われます。「私はもうあなたの味方です。私はあなたのために戦っています。」

イエス様は十字架でそれをはっきりと証明してくださいました。(コロサイ2:13ー15)

だからパウロの言葉を心に留めておきましょう。

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。。。

しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:31ー35、37ー39)

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創世記のデボーション

私たちのはしご、門、神殿、神

すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。

そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。」。。。

 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」

 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」(創世記28:12ー13、16ー17)

このシーンを想像してみてください。

ヤコブは自分の罪のために、兄エサウから逃げていました。それでも、恵みによって、神様はヤコブに現れてくださいました。それだけではなく、神様はヤコブを祝福してくださいました。

約二千年後、ナタナエルという人がイエス様の前に立ちました。

ヤコブのように、ナタナエルは少し怖がりました。なぜなら、イエス様はナタナエルについて、神様だけが知っておられることを語られたからです。だから、ナタナエルはイエス様をメシアとして認めました。

しかし、ナタナエルはイエス様がただのメシアではないことをまだ理解していませんでした。

イエス様は彼にこう言われました。

それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。。。

まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。(ヨハネ1:50ー51)

ヤコブの話では、神の使いたちは、はしごを上り下りしていました。

でも、ヨハネの福音書では、イエス様は「私ははしごだ」と言われました。

けれども、「頑張ってはしごを登りなさい」と言われたのではなく、イエス様は私たちのところに来てくださいました。

さらに、イエス様は新しい神の家です。つまり、イエス様は新しい神殿です。

イエス様によって、神様の栄光が現れ、イエス様の十字架の働きによって、私たちは神様に近づくことができます。(ヨハネ2:20;12:32)

それだけではなく、イエス様は天国の門です。イエス様によって、私たちは救われます。(ヨハネ10:9)

それがクリスマスの意味です。イエス様は、私たちのはしごや神殿や門です。でも、最も大切なのは、イエス様が私たちの主と神であることです。

そして、私たちが気づいていなくても、イエス様はここにおられます。イエス様はインマヌエルです。「神は私たちと共におられます。」

だから、ヤコブとナタナエルと一緒に、神様のみ前に立ち、畏敬の念を抱きましょう。

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創世記のデボーション

わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する

あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。。。

わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し。。。(創世記26:3、24)

アブラハム、イサク、ヤコブはこの世に属しませんでした。彼らは神とその御国に属していました。でも、彼らは寄留者としてこの世に生きるように召されました。(へブル11:13–16)

彼らは周りの人々の生活様式や価値観を取り入れてはいけませんでした。むしろ、彼らはこの世の人々と違い、天の御国の市民として生きるべきでした。

そして、神様が約束されたのは、彼らが外国で寄留者のように生きていても、神様が彼らと共におられ、彼らを祝福してくださるということです。

その約束を心に留めている限り、彼らは神様を喜ばせる人生を送りました。でも、それを忘れたとき、彼らはいろいろなトラブルに巻き込まれました。

アブラハムとイサクはその約束を忘れたとき、隣人を恐れ、自分の妻を妹と呼びました。

ヤコブの場合、神様の約束が自分のためかどうか分からなかったので、神様の祝福を得るために、彼は父と兄を騙しました。

アブラハム、イサク、ヤコブのように、私たちも外国で暮らしている寄留者のようです。(第一ペテロ2:11、ヨハネ17:14–16)

神様が私たちと共におられ、私たちを祝福してくださることを信じていますか。その真理によって、私たちは生活しているでしょうか。

以下のパウロの言葉を少し考えてみましょう。その言葉の意味を噛み締めましょう。

私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。 。。

しかし、このことは、 「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった」 と書いてあるとおりでした。(第一コリント2:7、9)

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詩篇のデボーション

 神の恵みとまこと

最近、ヤコブの人生の後半に関するメッセージをしました。ヤコブにとって、そのときは本当に辛いものでした。彼の妻と父が亡くなり、彼の一番愛していた息子であるヨセフも死んだと思いました。

そのとき、苦々しい思いをもって、皮肉っぽくこう言えたかもしれません。

私たちの神は 天におられ、その望むところをことごとく行われる。(詩篇115:3)

でも、ヤコブの晩年、彼が分かってきたのは「神様は気まぐれな方ではありません。神様は、いつも計画を持っておられます。そして、その計画は良いものです。神様は良い方です。」ということです。

この詩篇は、ヤコブが亡くなってから数百年後に書かれたけど、私は、ヤコブがこの歌を歌うのを想像できます。

イスラエルよ、主に信頼せよ。主こそ助け、また盾。(9節)

たぶん、長い間ヤコブは、自分が神様に見捨てられたと思っていました。でも、人生の終わりに、彼はこう歌うことができました。

主は私たちをみこころに留め 祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し。。。

主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。(12ー13節)

だから、あなたの人生が辛くて、神様に見捨てられたと思うなら、ヤコブの話を覚えていてください。そして信仰をもって、こう歌いましょう。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、ただあなたの御名に、栄光を帰してください。 あなたの恵みとまことのゆえに。(1節)

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ヘブル人への手紙

神様の良さを信じる信仰

「神様は良い方です。」

「いつもです。」

「いつもです。」

「神様は良い方です。」

ある教会では、それが合言葉のように繰り返されています。

でも、私たちはその言葉を本当に信じているでしょうか。もちろん、物事が順調なときには、それを信じて熱心に語るのは簡単です。

でも、苦しいときはどうでしょうか。神様が何をなさっているのか、私たちに理解できないときはどうでしょうか。また、将来に不安を感じるときはどうでしょうか。

そのような時、私たちはなお、神様が良い方であることを信じることができるでしょうか。

私たちが自分の信仰を見つめ直すと、これは最も根本的な問いの一つと言えるかもしれません。

だからこそ、この手紙の著者は、こう語っています。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル人への手紙11:6)

「神は、ご自分を求める者には報いてくださる方である。」

言い換えるならば、神様は、ご自身の良さを信じる者に報いてくださいます。その人は、神様がご自身の約束を守ると信じます。その人は、自分の苦労が無駄ではないと信じます。その人は、自分の苦しみが意味あるものだと信じます。

神様は、そのような信仰者に報いてくださるのです。

どんなに私たちの境遇が厳しくても、神様を求めるほどに、その真理を信じ続けることができるでしょうか。そう信じない限り、私たちは神様を喜ばせることができません。

アブラハムは、そう信じました。

神様は、アブラハムの子孫がイサクの系統によって多くなると約束されました。しかし、ある日、神様はアブラハムに命じられました。「あなたの息子イサクを、生贄として捧げなさい。」

それは、イサクを神様の奉仕のために捧げるという意味ではありませんでした。アブラハムは、文字通り、イサクを殺し、生贄として捧げなくてはなりませんでした。

アブラハムは、本当に混乱していたことでしょう。その生贄を捧げる山に到着するまでには、三日間かかりました。その間、アブラハムは何を考えていたのでしょうか。

「どうして神様は、そんな命令をされたのだろうか。イサクの系統を通して、神様は私に多くの子孫を与えると約束された。でも、もしイサクが死んでしまったら、その約束はどのように成就するのだろうか。」

それでも、最終的にアブラハムはこう考えるに至りました。

「神様は良い方だ。神様は、ご自身の約束を守られる。だからこそ、もし私にイサクを殺すよう命じるなら、神様は必ずイサクを復活させてくださるだろう。神様は、いのちと死を支配される神だ。そして、やはり神様は良い方だ。」

そして、アブラハムがイサクを殺すために刀を振りかざしたとき、天使は彼に告げました。「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れていることを、よく理解した。」(創世記22:10–12)

神様は、確かに良い方でした。

イサクは、そのような経験をしたので、将来がまだ不明だったにもかかわらず、息子たちヤコブとエサウを祝福することができました。

彼は、神様が約束された地をまだ受け取ってはいませんでした。所有していたのは、父アブラハムが買った小さな土地だけでした。それでも、イサクは神様が良い方であることを信じ、息子たちを祝福しました。

ヤコブは、さまざまな試練に直面しました。ある試練はヤコブ自身のせいでしたが、ある試練は彼の責任ではありませんでした。それでもヤコブは、自分に対する神様のいつくしみと忠実さを見たのです。

だから、死ぬ直前に、その確信を持って、息子たちを祝福しました。

あなたはどうでしょうか。どんなことを経験しているのでしょうか。心から「神様は良い方だ」と言えるでしょうか。神様が忠実な方だと信じられるでしょうか。神様があなたへの約束を守られると信じているでしょうか。

それらを信じなければ、あなたは神様を喜ばせることができません。

あなたは、どんな信仰を持っているのでしょうか。