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クリスマスの12日

クリスマス12日目

彼女はさらに身ごもって男の子を産み、「今度は、私は主をほめたたえます」と言った。

それゆえ、彼女はその子をユダと名づけた。その後、彼女は子を産まなくなった。(創世記29:35)

ヘブライ語では、「ユダ」は「ほめたたえる」を意味する言葉に聞こえます。

ユダはヤコブの四男でしたが、イエス様はユダの系図に属しておられるので、ユダの話でこのシリーズを終えるのがふさわしいと思いました。

ユダが生まれたあと、レアはしばらくの間、自分の苦しみから目を離し、ヤコブの愛で心の穴を埋めようとするのをやめました。むしろ、レアは神様に向かって賛美しました。

今年、レアの模範に従いましょう。ただ一日だけでもなく、一週間だけでもなく、一ヶ月だけでもなく、むしろ、毎日、毎朝、自分の心を導き、自分の問題や苦しみから目を離し、イエス様を仰ぎ、こう言いましょう。

「今日、今日、私は主をほめたたえることを選びます。」

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マタイの福音書のデボーション

神様がなさらなかった応答

「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」

しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」(マタイの福音書27:4)

私が驚いたのは、祭司たちがユダに対して反応したように、神様が私たちに対してはそのように反応されなかったことです。

私たちが咎と恥を負い、神様の御前に出て、「私は罪を犯しました」と告白したとき、神様は「私には関係ない。自分で始末しなさい」とは言われませんでした。

もし神様がそうされていたなら、私たちはユダのように絶望と死に陥っていたことでしょう。

しかし、神様はそうされず、むしろ、御子を送ってくださいました。

彼は私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、 それぞれ自分勝手な道に向かって行った。 しかし、主は私たちすべての者の咎を 彼に負わせた。(イザヤ53:5ー6)

I’ll never know why you did what you did.
私には、なぜあなたがあんなことをされたのか理解できません。

You didn’t have to die, but you did.
あなたは死なないことを選ぶことができたのに、私のために死んでくださいました。

You hung on the cross so that I wouldn’t be lost.
私が滅びないように、あなたは十字架にかけられました。

You took my place, now you’re pleading my case.
私の代わりに死んでくださっただけでなく、今も私のためにとりなしてくださっています。

You didn’t have to do it, but I’m glad you did.
あなたはそうする必要はなかったのに、私のためにそうしてくださって、私は心から感謝しています。

You didn’t have to do it, but I’m glad you did.
あなたはそうする必要はなかったのに、私のためにそうしてくださって、私は心から感謝しています。

-クリスタル・ルイス

 

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マタイの福音書のデボーション

福音の物語における私たちの役割

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」

すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。(マタイの福音書26:13-15)

その言葉を読んだとき、私が気付いたのは、人々がラザロとマルタの妹マリアとその行為だけではなく(ヨハネ12:1-8)、ユダとその行為をもよく覚えているということです。

マリアはイエス様への愛のために覚えられています。ユダは、イエス様を裏切ることのために覚えられています。

そして、私はこう考えました。神様はエデンの時代から今まで、福音の物語を書き続けておられます。その物語の中で、私はどんな役を演じているのでしょうか。人々は私のことについて何を思い出すでしょうか。彼らは、どんな物語を語るでしょうか。

そして、ペテロのことを考えました。人々は彼のことも覚えています。彼らはペテロの大きな失敗をよく覚えています。ペテロは三度、「イエスを知らない」と言い張りました。けれども、ペテロは神の恵みを受けた者としても覚えられています。

それが福音の中心です。福音は神の恵みについての物語です。福音は、私たちの罪の赦しのために十字架で砕かれたキリストのからだと、流された血潮についての物語です。

自分の罪や壊れた人生を見るとき、私たちはよく落ち込んでしまいます。しかし、マリアとペテロのように、私たちは神の素晴らしい愛と恵みを受けた者です。それが、神様が書き続けておられる福音の物語における、私たちの役割です。

それを喜びましょう。

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創世記のデボーション

何の申し開きもできないでしょう

ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。」(創世記44:16)

ユダの言葉は、私たちすべてに当てはまるでしょう。

私たちは天の御座の前に立ち、神様が私たちの人生の記録を開かれたとき、何も言うことができません。弁解することもできません。

ユダが自分の父ヤコブに語った言葉も、本当に印象に残ります。

もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。(32節)

ヤコブは知らなかったかもしれませんが、ユダの言葉には、二つの意味があったと思われます。

ヨセフを奴隷として売るように勧めたのは、ユダでした。(創世記37:26ー27)

しかし、44章では、ユダが自分の罪の重さをどれほど感じていたかがわかります。

ヨセフを奴隷として売ったことで、もちろんヨセフに罪を犯しましたが、自分の父にも罪を犯しました。

ユダは過去を変えることはできませんでした。でも、ベニヤミンの命を保証することによって、自分の罪の償いをしようとしたのだと思います。

ユダの隠されたメッセージは、こうだったのかもしれません。

「もし、ベニヤミンを父のもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前で、ヨセフに関して罪ある者となります。」

でも実際には、ユダがベニヤミンを父のもとに連れ帰ったとしても、その罪の償いをしたことにはなりません。

私たちは、どれほどユダのように、自分の罪の償いをしようとするでしょうか。でも、どんなに良いことをしても、私たちはその罪の償いをすることはできません。

神様が私たちの咎を暴かれるとき、私たちは弁解することができません。

しかし、良い知らせがあります。イエス様は十字架で、私たちの罪を背負われ、その代価を支払ってくださいました。私たちがしなければならないのは、ただイエス様の働きを信じて、休むことです。

だから、パウロはこう言いました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。

そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ5:1ー2)

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創世記のデボーション

聖書にはどうしてこんなに酷い話があるの?

「どうして、聖書には、こんなに酷い話が書いてあるのだろうか」と疑問に思ったことがありますか。

ユダとタマルの話は、本当に酷いと思いませんか。でも、聖書には他にも酷い話がたくさん書かれています。

簡単に答えると、それが人間の歴史なのです。人間の歴史は、酷い話に満ちています。

聖書は、理想的な人間の歴史を描いているのではありません。聖書は、罪深い人間の歴史を描いています。

でも、それだけではなく、聖書は、罪に歪んだ人間をあがなうことができる神を描いています。

ユダとタマルの話は本当に酷いですが、最終的に私たちの救い主は、その血筋から来られました。(マタイの福音書1章を調べてください。)

あなたは、この世界や自分の生活の中で、多くのひどい罪やひどい状況を目にするかもしれません。

けれども、私たちが神様に信頼を寄せるなら、神様があがなうことができない人や状況はありません。

だからこそ、パウロはこう書きました。

私は福音を恥としません。福音は。。。信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)

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使徒の働き

私たちの心を知っておられる神

この箇所では、マッティアが使徒として選ばれ、ユダの務めを引き継ぎました。

ある人々は、ペテロや他の弟子たちが勝手にマッティアを任命したと考えています。つまり、神様はマッティアではなくパウロを選びたかったのだ、と主張するのです。

その人々によれば、イエス様がパウロに現れて彼を使者として任命したとき、実はパウロがユダの務めを引き継いだのだそうです。

私もかつてはそう考えていましたが、今はそう思いません。なぜなら、第一コリント15:5で、パウロはマッティアを12人の使徒の一人として認めていたからです。

イエス様が復活された後、ユダに現れることはなかったため、この文脈ではパウロがマッティアについて言及していたのでしょう。

それに、パウロが使徒として任命されたにもかかわらず、彼はこう言いました。「私は使徒の中で最も小さい者です。私は使徒と呼ばれるに値しない者です。」(第一コリント15:9)

もう一つ注意すべき点があります。それはユダの死です。マタイの福音書27章によれば、祭司長はユダが返した銀貨を受け取り、畑を購入しました。そしてユダは出て行って首を吊りました。

しかし、使徒の働きによれば、ユダ自身が地所を購入し、真っ逆さまに落ちて、体が真っ二つに裂けたと記されています。どうやって、その2つの話を調和できるでしょうか。

アケルダマ(その畑の名前)はベン・ヒノムの谷にあります。たぶん、ユダは崖の上で首を吊ったでしょう。そして、ユダの死体が腐敗し始めている間に、その綱は切れたかもしれません。だから、その死体は谷に落ちて、その畑に着地しました。

それを聞いて、祭司長たちはユダの代わりに、その畑を買ったでしょう。なぜなら、彼らは「そのお金は血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない」と言ったからです。(マタイ27:6)

でも、それは今日の要点ではありません。

興味深いのは、使徒たちがユダに彼らと同じ務めを割り当てられていたと認めたことです。つまり、ユダは他の弟子たちと共に二度の宣教旅行に行き、福音を述べ伝えたり、悪霊を追い出したり、病人を癒したりしました。(ルカ9-10章)

とはいえ、イエス様はユダの心をよくご存じでした。ユダがさまざまな素晴らしい働きをしても、彼の心は真にイエス様のものではありませんでした。そのため、彼は最終的に暴露され、追い出されました。

その後、神様に属する心を持つ者がユダの務めを受け継ぎました。

私は何を言いたいのでしょうか。

私たちがミニストリーに携わっているなら、毎日自分の心を探らなければなりません。私たちの動機を吟味しなければなりません。私たちの心が本当に神様のものかどうか、試さなければなりません。

私たちはイエス様の御名によってさまざまな良いことを行うことができます。私たちのミニストリーを通して人々が救われるかもしれません。

しかし、神様は私たちの心を見抜かれます。もし私たちの心が神様の目にかなわないなら、最終的に神様は私たちの務めを取り去り、別の人に与えます。

そして、もっと恐ろしい可能性もあります。

もしかしたら、私たちはイエス様にこう言うことになるかもしれません。

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡をおこなったではありませんか。(マタイ7:22)

ところが、イエス様は私たちにこのように答えられます。

わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。(マタイ7:23)

あなたの心はどうですか。あなたは本当に自分の心をイエス様に捧げたでしょうか。

もしかしたら、良いクリスチャンのふりをしているかもしれません。もしそうなら、結局あなたの務めは取り去られ、ほかの人に与えられるでしょう。

あなたの心は、誰のものでしょうか。

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裏切り

福音書を統合すると、一つの疑問が浮かびます。それは、ユダが最初の聖餐式に参加していたかどうか、ということです。

ルカは、ユダが参加したことを暗示しているようですが、他の著者の記述を見ると、ユダは参加しなかったように思われます。

私の考えでは、ユダは恐らく聖餐式に参加していたのではないでしょうか。おそらく、他の著者は最後の晩餐の出来事を年代順には記録していなかったのだと思います。

いずれにせよ、この箇所では、イエス様が裏切り者であるユダをどのように扱われたのかが描かれています。この話には、興味深い点がいくつかあります。

ヨハネは(「イエス様が愛しておられた弟子」はヨハネのことだと考えられます)、イエス様の隣に座っていたようです。けれども、ユダもイエス様の隣に座っていた可能性があります。

私がそう考えるのは、弟子たちがユダに対するイエス様の言葉をすべて聞いていたわけではないからです。もし彼らが、イエス様がユダを裏切り者としてはっきり指摘されるのを聞いていたなら、きっとユダを責めていたことでしょう。

多くの最後の晩餐の絵画とは異なり、この場面では誰も椅子に座っていなかったと考えられます。彼らは低いカウチに座り、横になって左肘で体を支えていました。そのため、彼らの頭は隣の人の胸の近くにあるような状態でした。

したがって、おそらくイエス様の右側にはヨハネが座り、左側にはユダが座っていたのでしょう。

以前述べたように、イエス様の隣に座ることは大変光栄なことと考えられていました。そのため、イエス様はユダを左側に座らせることで、ユダに特別な光栄を与えられたのです。

それでも、イエス様はユダの心をよくご存じでした。

そして、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。(ヨハネ13:21)

弟子たちはそれを聞いて、衝撃を受けました。そして、一人一人がイエス様に尋ねました。「まさか私ではないでしょうか。」

ユダ自身もイエス様に同じように尋ねました。

もしかすると、ユダはイエス様を完全に欺いたと思っていたのかもしれません。しかし、イエス様は答えられました。「はい。あなたですよ。」

ユダのショックを想像してください。彼の秘密は明るみに出ました。もしかすると、彼はイエス様が皆の前で彼を暴露し、その結果、自分が殺されるのではないかと恐れたかもしれません。

おそらくその頃、ペテロはヨハネに尋ねたでしょう。「イエス様が誰について話しているのか、聞いてみてくれ。」(ヨハネ13:24)

イエス様はヨハネに答えられました。

わたしがパン切れを浸して与える者が、そのひとです。(ヨハネ13:26)

実は、その時代において、パン切れを浸して与えることは、もう一つの光栄を示す方法でした。

そのため、イエス様がパンを浸してユダに与えたとき、おそらくヨハネ以外の弟子たちは「すごいな。私たちが思っていたより、ユダは偉いのかもしれない。」と思ったでしょう。

ユダ自身も驚いたことでしょう。一瞬、彼はイエス様の言葉の意味を誤解したかもしれません。

けれども、イエス様は彼に言われました。

あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。(ヨハネ13:27)

ユダはそれを聞いて、イエス様が彼の心をよく知っておられたことを悟りました。そして、彼はその家を出て、イエス様を裏切るためにイエス様の敵のもとへ向かいました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちを裏切る人もいるということです。彼らは意図的に私たちを傷つけることがあります。そのようなとき、私たちが苦々しい思いを抱き、彼らを軽蔑するのは簡単です。

しかし、イエス様がユダを神によって造られた人間として尊重されたように、私たちも裏切り者を神によって造られた人間として尊重すべきです。

それでも、私たちは彼らの性格をよく理解している必要があります。彼らの本質について、私たちは自分自身を欺いてはいけません。そして、可能な限り、私たちは自分を守るべきです。

イエス様の生涯を見ると、イエス様もそのような姿勢を取られました。人々がイエス様を殺そうとしたとき、イエス様はすぐに身を避けられました。

ユダの場合だけは、イエス様は逃げませんでした。なぜなら、ついにイエス様の時が来たからです。イエス様がこの世に来られた目的は、私たちの罪のために死ぬことでした。

とはいえ、神様は一般的に、私たちが虐待を甘んじて受けることを求めているわけではありません。そのため、できる限り、その人から距離を取りましょう。

もし、どうしてもその人を避けられないのであれば、あなたの盾を常に持っていてください。つまり、彼らがいるときには、警戒しなければなりません。

もし相手の性格をよく理解し、彼らの言動によって自分の心の備えができていれば、自己防衛することができます。

それでも、私たちは相手を許すべきです。そしてさらに、彼らを神によって造られた人間として尊重すべきです。

ペテロはこう記しました。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(第一ペテロ3:9)

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真の愛。偽りの愛。

この話では、私たちはイエス様に対する二人の人物の愛を見ることができます。けれども、彼らの愛は全く異なるものでした。

マリアの愛は心から生まれたものでした。一方で、ユダの「愛」は自分勝手で利己的なものでした。

イエス様はベタニアという町に行かれました。その時、イエス様はシモンという人の家を訪れました。弟子たち、ラザロ、そしてその姉妹マリアとマルタも来て、一緒に食事をしました。

食事の後、マリアは非常に高価な香油を持ってきて、イエス様の頭に注ぎ、さらにその足にも塗りました。そして、自分の髪でその足を拭いました。

ユダはそれを見て、こう言いました。

どうして、子の香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。(ヨハネ12:5)

他の弟子たちも同意し、同じようなことを言ったようです。

けれども、ヨハネはユダの動機を説明しています。

彼がこの言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。(12:6)

だから、イエス様はこのように答えられました。

彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。私のために、良いことをしてくれたのです。

貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。

彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。(マルコ14:6-9)

この言葉に対するユダの反応は何だったのでしょうか。彼はイエス様を引き渡すために、祭司長たちのところへ行き、彼らから銀貨30枚を受け取りました。

私たちはユダの動機を完全には知りません。けれども、それが単にイエス様の叱責に対する反発ではないと思います。おそらく、もっと深い理由があったのでしょう。

もしかしたら、彼の愛は、相手から何を得られるかに基づく利己的なものだったのかもしれません。だから、自分の利益のためにお金を盗める限り、彼は貧しい者にお金を渡すことに満足していたのでしょう。

また、イエス様が王になりそうだと期待する限り、ユダはイエス様に従うことを選んでいたのかもしれません。

しかし、何度もイエス様は、王になることではなく、自分の死について語られました。もしかしたら、ユダはその話にうんざりし、「もし死にたいと思うなら、死ねばいい」と考えた可能性もあります。

だからこそ、彼はイエス様を裏切ったのではないでしょうか。

一方で、マリアは心からイエス様を愛しました。ユダとは異なり、マリアはイエス様から何かを得ようとはせず、純粋な心でイエス様に貴いものをささげたいと願いました。

私はヨハネの生々しい描写がとても好きです。

家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ12:3)

イエス様に対する私たちの愛は、そのようであるべきです。この世は、イエス様に対する私たちの愛の香りで満たされるべきです。私たちの愛が明らかになれば、周りの人々はその愛を見過ごすことはないでしょう。

ユダがマリアを責めたように、私たちを責める人もいるかもしれません。けれども、イエス様にとって、私たちの愛は香油のようなものです。

あなたはどうでしょうか。あなたの愛は自分勝手なものでしょうか。イエス様から何を得られるかだけを考えているでしょうか。

あるいはあなたの愛は、イエス様にとっても、この世界にとっても、素晴らしい香りを放つものでしょうか。

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畑になる毒草

この箇所を読むと、なぜかユダに目が向きます。

この箇所では、イエス様は弟子たちを呼び、イスラエル人に奉仕するために送り出されました。イエス様は彼らに、悪霊を追い出し、あらゆる病気と患いを癒す力を与えられました。けれども、彼らの最も重要な使命は福音を伝えることでした。

マタイは弟子たちの名前を挙げる際、最後にこう記します。「そして、イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」(マタイ10:4)

考えてみてください。ユダも悪霊を追い出しました。ユダも病人を癒しました。ユダも福音を伝えました。それなのに、最終的に彼はイエス様を裏切ったのです。

なぜユダは、これほど多くの素晴らしい働きをしながらも、イエス様を裏切ることになったのでしょうか。その理由を完全に理解するのは難しいです。

けれども、ユダはイエス様が語られた「畑にある毒麦」のたとえ話を象徴しているように思えます。(マタイ13:24-30; 36-42)

実際、毒麦と麦は見た目が非常によく似ています。そのため、農夫が毒麦を引き抜こうとすれば、誤って麦も引き抜いてしまう可能性がありました。そこで、農夫は収穫の時まで待つことにしました。その時になって初めて、麦と毒麦を分けました。

同じように、ユダは信者のように見えました。彼は他の弟子たちと共に学び、また他の弟子たちと同じように、悪霊を追い出し、人々を癒し、福音を伝えました。

それでも、彼は決して自分の心をイエス様に捧げることはありませんでした。

私のただの推測にすぎませんが、もしかすると、ユダは自分の利益のためにイエス様を利用しようと考えていたのかもしれません。

しかし、彼の目的とイエス様のビジョンが全く異なっていることに気づき、イエス様を利用できないと悟ったとき、彼はイエス様を裏切る道を選んだのです。

現代においても、教会の中にはそのような人々がいます。彼らはクリスチャンのように見え、クリスチャンのように聞こえます。中には奉仕をする人もいます。それでも、彼らの心は本当にイエス様に捧げられてはいません。

あなた自身はどうでしょうか。あなたの心はイエス様に捧げられていますか。あなたの人生は本当にイエス様のものでしょうか。それとも、ユダのように、あなたは畑の毒麦でしょうか。

表面的に信者のふりをすることはしないでください。牧師や教会の他のメンバーを欺くことはできるかもしれませんが、神様を欺くことはできません。そして、裁きの日には、あなたの本当の姿が明らかにされるでしょう。

その毒麦とならないように。あなたの心をイエス様に捧げましょう。信者のふりをして生きても、あなたの人生は虚しくなり、最終的には裁きを受けることになるのです。