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詩篇のデボーション

感謝する理由

詩篇100篇のタイトルは「感謝する賛歌」です。

この詩篇を反芻しているとき、私が思ったのは、旧約聖書の時代の詩人がこの詩篇を書いたけれど、新約聖書の時代の詩人の言葉のように聞こえるということです。

どうして私はそう思うのでしょうか。

なぜなら、その詩人は、ユダヤ人だけではなく、すべての人々に神様を礼拝するように促しているからです。

イエス様が十字架で死なれる前に、神様を礼拝する理由を持っていた人々は、ユダヤ人たちでした。

神様に近づく特権を持っていた人々は、ユダヤ人たちでした。なぜなら、神様は特に彼らを御自分の民、また、御自分の羊として選ばれたからです。

でも、十字架の後、イエス様を信じるすべての人々は、ユダヤ人でもユダヤ人でなくても、神様に近づくことができます。私たち皆は、「私は神の民です。私は神の羊です」と言う権利を持っています。

だから、喜びをもって主に仕えましょう。喜び歌いつつ神様の御前に進みましょう。

大胆に神様に近づいて、主に感謝し、ほめたたえましょう。そして、詩人と一緒に歌いましょう。

主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(詩篇100:5)

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エペソ人への手紙

神に受け入れられた

キリスト教が始まった当初、異邦人に対するクリスチャンのユダヤ人たちの考え方がどれほど変わったかは、驚くべきことです。

それ以前、ユダヤ人は神様との関係が自分たちだけに属するものだと考えていました。もし異邦人が神様との関係を望むならば、ユダヤ教の規律に従わなければなりませんでした。

そのため、神殿の中庭には「隔ての壁」が設けられていました。異邦人は異邦人の庭まで入って礼拝することはできましたが、その壁には次のような警告が記されていたのです。

「これより中に入る異邦人は、死刑に処す。」

パウロは、エペソの信徒たちにこの問題を思い起こさせました。

そのころ(異邦人たちがクリスチャン人なる前)は、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。(エペソ人への手紙2:12)

神様はアブラハムとの契約やモーセとの契約を通して、ユダヤ人と特別な関係を結ばれました。そして、神様はユダヤ人に対し、「メシアが来て、あなたを救う」と約束してくださったのです。

その一方、異邦人は部外者でした。彼らは神様との関係を持っておらず、その約束も彼らには当てはまりませんでした。そのため、彼らは神様から遠く離れ、救いの希望を持つことができませんでした。

言い換えれば、神の国の門は異邦人に対して閉ざされ、鍵がかけられていました。さらに、そこには「部外者立ち入り禁止」と記された看板が掲げられていたのです。実のところ、私たちもかつては同じ状態にありました。

ところが、パウロはここで続けて語ります。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。

キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。

こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。(13-17)

パウロによれば、十字架の御業によって、イエス様は隔ての壁である敵意を打ち壊されました。

けれども、パウロが「隔ての壁」と言うとき、それは物理的な壁のことではありません。むしろ、パウロはモーセの律法について語っていました。

イエス様が十字架で死なれる前、その律法はユダヤ人と異邦人の間にそびえる大きな壁でした。ユダヤ人は律法を守る者でしたが、異邦人は律法の外にある者でした。

ところが、実際には、ユダヤ人も律法を完全に守ることができませんでした。そのため、律法はユダヤ人に対しても、異邦人に対しても、大きな壁となり、誰一人として神様に近づくことができなかったのです。

しかし、キリストが来られたとき、彼は律法を完全に成就し、私たちの罪の罰を十字架において支払ってくださいました。それゆえ、神様と私たちの間の壁だけでなく、ユダヤ人と異邦人の間の壁も取り除かれたのです。

クリスチャンにとって、「内」と「外」という区別はもはや存在しません。むしろ、イエス様を信じるユダヤ人も異邦人も、皆が一つとなったのです。

イエス様を信じるユダヤ人も異邦人も、すべての人には天の父に近づく道が開かれています。

私たちは別々の方法で天の父に近づくのではなく、同じ御霊を受け、その御霊を通して天の父に近づくのです。

神の国には、市民と外国人の区別はありません。むしろ、イエス様を信じるすべての人が神の国の市民となります。そして、私たちは皆、神様の相続人としての権利をすべて持っているのです。

だから今、私たちは皆、神様が住んでおられる一つの宮となります。私たちを通して、神様はご自身をこの世に現してくださいます。イエス様は私たちの要の石であり、使徒と預言者の言葉は私たちの土台です。

それなら、教会の兄弟姉妹を見るとき、私たちは彼らをどのように見ているでしょうか。もしかすると、彼らの人種や性別のゆえに、私たちは彼らを二流市民と見なしてしまうでしょうか。また、別の理由で彼らを見下してしまうことがあるでしょうか。

私たちは皆、イエス様への信仰によって、神様に受け入れられた者です。だから、敵意と隔ての壁を捨て去りましょう。

むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(ローマ15:7)

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ローマ人への手紙

プライドの余裕がない

ほとんどのクリスチャンは、今では反ユダヤ主義的な態度を持っていません。けれども、過去にはそのようなクリスチャンもいました。

私には、そのような態度が決して理解できませんでした。なぜなら、今日の聖書の箇所で、パウロはそのような考え方を完全に否定したからです。

おそらく、反ユダヤ主義的な態度の根本にはプライドがあるのでしょう。この箇所で、パウロは私たちのプライドの根拠さえも打ち砕きます。

実は、イスラエルに対して不満を述べたとき、預言者エリヤもそのようなプライドを持っていました。エリヤはこう言いました。

私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエル子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。

ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。(列王記第一19:10)

要するに、「神様、私を見てください。私はあなたのために熱心を持っています。私の行為を見てください。けれども、ほかのイスラエル人はもう救いようのないのです。」ということです。

ところが、神様はエリヤにこう言われました。

わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。(列王記第一19:18)

だから、パウロはこう言いました。

「エリヤの時代と同じように、この時代にも、ユダヤ人の中には、神様に忠実であり、メシアであるイエス様に仕える残された信じる者たちがいます。

そして、私たちと同じように、そのユダヤ人たちも恵みによって選ばれました。」(ローマ人への手紙11:5)

そして、パウロは私たちに思い出させます。

恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。(6)

エリヤのように、多くのクリスチャンは、自分の行為によって救われると思っています。つまり、頭では恵みによって救われたことを理解しているかもしれませんが、心の奥では、他の人よりも優れているから救われたのだと思ってしまうのです。

けれども、パウロによれば、そのような考え方は間違っています。救いは恵みに値しない者に与えられるものです。

エリヤもまた、神様の恵みに値しませんでした。それでも、その恵みを受けました。

イゼベルに脅かされたとき、エリヤは神様に怒り、苦々しい思いを抱き、最終的に落ち込んでしまいました。それにもかかわらず、神様は手を伸ばしてエリヤを励まし、強めてくださいました。

私たちも、神様の恵みに値しません。けれども、神様は私たちに手を伸ばし、救ってくださいました。

だから、私たちはユダヤ人を見下すことはできません。私たち全員が、恵みによって救われたのです。

それで、パウロはユダヤ人を折られたオリーブの木の枝に例え、私たちを接ぎ木された枝に例えました。

けれども、パウロはこう言います。

あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。

そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。

思い上がることなく、むしろ恐れなさい。もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。

ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。

倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。

ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。(18-22)

もう一度、パウロのポイントは、私たち全員が恵みによって救われたことを述べています。私たちの行いによって救われたのではなく、イエス様の十字架の御業によって救われたのです。私たちにできたことは、その御業を信じることだけです。

だからこそ、私たちにはプライドの余裕などありません。

だから、イエス様を信じないユダヤ人を批判する人は、自分自身を振り返るべきです。彼らは自らにこう問うべきです。

「私は信仰と恵みによって立っているのか。それとも、自分の行いに頼っているのか。もし自分の行いによって立っているなら、私は破滅へと向かっている。しかし、恵みによって立つなら、そこにプライドの余裕はまったくない。」

あなたはユダヤ人を見下さないかもしれません。けれども、ほかの人々を見下してはいないでしょうか。自分は彼らよりも優れていると思ってはいないでしょうか。

そのような考え方は誤っています。もしあなたが他の人よりも優れているなら、恵みはもはや恵みではなく、あなたの救いは当然の報酬になってしまうでしょう。

だから、謙遜な態度を持ち、神様に感謝してください。神様の国では、私たちにはプライドの余裕などないのです。

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ローマ人への手紙

神様の取り消されることのない召命

救いの神秘の一つは、救いが神様の召命を通して与えられるものであり、その召命は決して取り消されることのないものだということです。

パウロはイスラエルの例を用いて、この真理を描写しています。神様がさまざまな奇跡を行い、恵みを与えられたにもかかわらず、イスラエル人は心を頑なにし、神様に背を向けました。

そして、パウロはこう言いました。

それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。(ローマ人への手紙10:1a)

パウロの答えは何でしょうか。

決してそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。(2b)

要するに、「私はユダヤ人ですが、救われました。だから、神様がすべてのユダヤ人を退けたとは言えません。」

そして、パウロは非常に興味深いことを語ります。

神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。(2)

では、パウロのポイントは何でしょうか。

神様はあらかじめユダヤ人がご自身に対して心を頑なにすることを知っていたにもかかわらず、彼らを選ばれました。ユダヤ人が神様を拒絶し、イエス様を十字架につけたとき、神様は決して驚かれませんでした。

したがって、ユダヤ人の行為によって、神様が突然彼らを退けることを決めたわけではありません。

むしろ、神様はあるユダヤ人がイエス様を拒絶することを知っておられましたが、他のユダヤ人がイエス様を信じることも知っておられました。

どうしてそう知っていたのでしょうか。それは、神様が世界を創造される前から、彼らを救いのために選ばれていたからです。

だから、預言者エリヤが神様に「私だけがあなたに従っている」と訴えたとき、神様はこう答えられました。

「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」(4)

だから、パウロは自分の時代のユダヤ人について、こう語りました。

ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。(5)

そして、パウロは神様の救いの計画を明らかにします。神様はこの世が造られる前から、その計画を立てられました。その計画とは何でしょうか。

ユダヤ人が自分のメシアを拒絶したことによって、福音は全世界に広がり、多くの異邦人(ユダヤ人ではない人々)が救われ、神様の子供となりました。

そして、ユダヤ人はその神様との関係に憧れ、神様が彼らをその関係へと召されたことを思い出します。だから、彼らは自らの愚かさを認識し、悔い改めて救われます。

最終的に、すべてのユダヤ人がイエス様を認め、救われるようです(26ー27)。

そして、パウロはこう語りました。

彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。(28)

要するに、ユダヤ人はクリスチャンを迫害していました。それでも、神様はなおもユダヤ人を愛し、彼らを救おうとされました。

なぜでしょうか。彼らが善良な人々だったからでしょうか。違います。神様はアブラハム、イサク、ヤコブのゆえに彼らを愛されているのです。

さらに、神様はこの三人に約束をされ、その約束を決して取り消されません。

だから、パウロはこう語りました。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。(29)

その言葉は私たちにも当てはめられます。神様の賜物と召命は決して取り消されることがありません。

私たちが生まれる前から、神様はすでに私たちを知っておられました。神様は私たちの疑いをも、失敗をも知っておられました。それでもなお、神様は私たちを選ばれたのです。

だからこそ、私たちが疑うときや失敗するときに、神様が私たちを見捨てるのではないかと恐れる必要はありません。なぜなら、神様の賜物と召命は決して取り消されないからです。

そして、パウロが言ったように、神様が始められたことを必ず完成されます。(ピリピ人への手紙1:6)

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ローマ人への手紙

神様の真実な性格

ユダヤ人たちが2章だけを読むと、パウロはユダヤ人であることや割礼を受けることに価値がないと教えているように思われるかもしれません。

しかし、3章では、パウロはユダヤ人であることや割礼を受けることに価値があるとはっきりと教えています。彼はこう語りました。

それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。

あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。(ローマ人への手紙3:1-2)

要するに、ユダヤ人であることの一つの利点は、神様が彼らに直接ご自身を現されたことです。そのため、彼らは神様の御名を知り、神様がどのような方であるかを理解しました。

他の国々の人々も、被造物を通して神様の存在を知ることができました。けれども、それ以上のことは分かりませんでした。

しかし、以前も述べたように、そのような知識を持つことにはマイナス面もあります。つまり、より多くの知識を持っている人は、神様からより厳しい裁きを受けることになるのです。

そして、残念なことに、ユダヤ人たちの歴史を振り返ると、彼らは神様を知っていながらも背を向け、異なる神々に従っていました。

では、神様はユダヤ人たちを見捨てられたのでしょうか。一部の聖書学者たちは、そのように考えています。彼らの主張によれば、クリスチャンこそが「新しいイスラエル」です。

ある意味では、それは正しいとも言えます。後の箇所で見るように、私たちは神様の家族の一員とされたのです。

とはいえ、「神様はユダヤ人たちを完全に見放された」と断言するのは行き過ぎた解釈かもしれません。パウロは、ユダヤ人について次のように語っています。

では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。決してそんなことはありません。

たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。

「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます」と書いてあるとおりです。(3-4)

あるユダヤ人たちは神様に背を向けたかもしれません。それでも、神様はユダヤ人たちを決して見捨てることはありませんでした。彼らの不真実は、ユダヤ人たちに対する神様の真実を無にすることはなかったのです。

人は自分の約束を破ることがあるかもしれませんが、神様は常にご自身の約束を守られます。だから、神様の裁きが不公平だと言える人は誰もいません。

このような理由から、いつかすべてのユダヤ人がイエス様こそメシアであると信じるようになるでしょう。

しかし、ユダヤ人ではない人も、この箇所から励ましを受けることができるでしょう。なぜなら、私たちもユダヤ人たちと同じように、しばしば不真実であるからです。

私たちは、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じず、時には神様が私たちの最善を知らないかのように思うことすらあります。そのため、私たちは神様とその言葉を捨てて、自分の道を歩もうとします。

それでも、神様は決して私たちをあきらめることはありません。神様は私たちを追い求め続けてくださいます。

だから、時に神様は私たちを懲らしめられます。けれども、その懲らしめの中にも、神様の愛と最善を望む御心があるのです。そして、たとえ何度失敗しても、神様が私たちを見放されたのではないかと心配する必要はありません。

パウロは別の手紙の中で、次のように語っています。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

だから、私たちが失敗するときも、つまずくときも、神様の真実な御性格を心に留めておきましょう。そして、神様の約束を心に刻み続けましょう。

わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(へブル13:5)