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ヨシュア記のデボーション

自分自身に気を付けなさい

だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。(ヨシュア記23:11)

今朝、私はそのことばに心を打たれました。

「自分自身に気を付けなさい。」

それだけでなく、「自分自身を十分に気を付けなさい」とも語られています。

何のためでしょうか。

それは、私のすべての思い、言葉、そして行動が、神への愛を映し出すものとなるためです。

今朝の私の心はやや騒がしく、態度も正しくありませんでした。

期末テストがあるのに、娘はかぜを引いて、私はそのことをすこし心配しています。また、職場でもいくつかイライラすることがあり、心が乱れました。

けれども、今日の聖書箇所を読んで、心をもう一度正しい方向へ向け、 何が本当に大切なのかを思い起こそうとしています。

それは、神を愛すること。 そして、周囲の人々を愛することです。

私たちは、自分の状況や感情に簡単に引きずられてしまいます。

だからこそ、ヨシュアの言葉を心に刻んでおきましょう。

「自分自身に気を付けなさい。」

そして――「あなたがたの神、主を愛しなさい。」

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ヨシュア記のデボーション

神のことばを一言も省かずに

主がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。(ヨシュア記11:15)

ヨシュア記には、いくつかの有名な箇所があります。 第1章5〜9節と第24章15節は、特に有名です。

けれども、私はこの箇所も気に入ります。「主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。」

私も、そのような人になりたいのです。 特に、罪に向き合うときにこそ、そうありたいと願います。

私は、言い訳をしたくありません。 自分の罪を軽く見たくもありません。 むしろ、ヨシュアとイスラエルの民がカナン人とその悪を根絶やしにしたように、 私も自分の罪を根絶やしにしたいのです。(レビ記18章、特に24〜25節)

天のお父さん、どうか私の罪を根絶やしにするよう助けてください。 あなたが命じられたすべてのことばを、私は一言も省かない者となることができますように。

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ヨシュア記のデボーション

裁きの日

ヨシュアはその全地、すなわち、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地、そのすべての王たちを討ち、一人も残さなかった。息のある者はみな聖絶した。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。(ヨシュア10:40)

正直に言えば、上の言葉には腑に落ちない思いを覚えるかもしれません。なぜ神様はそのような命令を出されたのでしょうか。

一言で言えば、それは「さばき」です。

人が聖絶されるとは、その人が神のさばきの下にあり、滅びるべきものとして神の前に定められたことを意味します。

したがって、イスラエルの民がアモリ人の命を奪ったのは、自分たちの都合によるものではなく、神様ご自身のさばきを執行したということなのです。

アモリ人たちは、何のためにさばかれたのでしょうか。

それは、自分たちの罪のゆえです。

レビ記18章で、神様はその罪を具体的に示され、「その地は、そこに住む者を吐き出す」と語られました(レビ記18:24〜25)。

とはいえ、神様は忍耐深く、アモリ人の悔い改めを約400年の間、待っておられました(創世記15:13〜16)。

それでも、彼らは決して悔い改めようとはしませんでした。

そして、その罪が満ちたとき、さばきが下されました。神様は、アモリ人たちをことごとく討つように、ヨシュアとイスラエルの民に命じられました。

前回の記事では、私は述べました。聖書のことばの全体が、神の愛とあわれみについての心強いメッセージだけではないということです。さばきについての厳しいことばもあるのです。

もちろん、神様は忍耐深いお方です。神様はだれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)。

しかし、アモリ人たちのように、人々が悔い改めようとしないなら、最終的にさばきは訪れます。

だからこそ、私たちは自分の罪を決して軽く見ないようにしましょう。

さばきの日が来ることを心に留めておきましょう。

そして、ペテロのことばをしっかりと心に刻みましょう。

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。

このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。(第二ぺテロ3:10ー12)

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ヨシュア記のデボーション

御言葉が厳しくても、心強くても

その後、ヨシュアは、みおしえの書に記されているとおりに、律法のすべてのことばを、祝福ものろいも読み上げた。

モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアが。。。読み上げなかったことばは、一つもなかった。(ヨシュア記8:34ー35)

そのことばは、私の心に響きました。

ヨシュアは、自分が気に入った聖書の箇所だけでなく、 厳しい内容の箇所も、すべて読んでいました。

聖書のすべての箇所が、神の愛とあわれみだけを語っているわけではありません。心強いことばばかりで満ちているわけでもないのです。

神のさばきと正義についての、厳しいことばも含まれています。

そして、その真理を忘れてしまうと、アカンのように、私たちは自分の罪や、神様ご自身を軽く見てしまうかもしれません。(ヨシュア記7章)

しかし、より大切なのは、厳しくても励ましに満ちていても、 神のことばのすべては、私たちの益のためであるということです。

だからこそ、気に入った心強いみことばだけでなく、ヨシュアのように、そのすべてを読みましょう。

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ヨシュア記のデボーション

自分の冠をイエス様の前に投げ出す

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」

彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」

ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」(ヨシュア記5:13ー14)

ヨシュア記5章には、さまざまな素晴らしい真理が記されています。

神様が恥辱を私たちから取り除かれるという概念が、私は大好きです(9節)。

また、神様を信頼し、従わなければ、私たちは霊的な荒野をさまよい、神様が用意してくださった良い計画を知らずに終わってしまう、という真理についても考えさせられます。(6節)

でも、この章を読むたびに、私はなぜか13〜14節に目が引かれます。このブログでも、その節について5度も書いたことがあるのです。

ヨシュアは神の民の指導者でした。しかし、主の軍の将(多くの聖書学者は、彼こそイエス様であると信じています)が現れると、ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、こう尋ねました。 「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」

今日、この場面を読んだとき、私は黙示録4章を思い出しました。

また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。

また、自分たちの冠を御座の前に投げ出し(ました)。。。(黙示録4:9ー10)

二十四人の長老たちが神の御座の前にひれ伏し、自分たちの冠を御座の前に投げ出したように、ヨシュアもまた、自分の冠を主の軍の将の前に投げ出し、神のご支配に従いました。

今日、私もそのように応答しました。

イエス様、私の冠をあなたの前に投げ出します。あなたは私の王です。私はあなたのご支配に従います。何をこのしもべに告げられるのですか。

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申命記のデボーション

誰について行っているの?

私は今日、百二十歳だ。もう出入りすることができない。。。

あなたの神、主ご自身があなたに先立って渡って行き、この方があなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領する。(申命記31:2-3)

あなたの信仰は誰に基づいているのでしょうか。あなたの牧師ですか。お友達ですか。それとも他の教会のリーダーでしょうか。

いつか、その人たちがもはやあなたを支えることができなくなるでしょう。そのとき、あなたの信仰はどうなるのでしょうか。

私は、あなたが神様に完全に目を留め、従うことを願っています。

また、あなたが強くあり、雄々しくあり、神様が導かれる所にはどこでもついて行けるように祈っています。

神様ご自身も、それを望んでおられます。だから、今、そのような信仰を持つことを学びましょう。

自分自身を霊的に養うために、聖書を読み、祈り、神の御声に耳を傾け、神を恐れ、そして神に従うことを身につけていきましょう。

あなたはどうでしょうか。

そのようなことを学び、実践しているでしょうか。

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民数記のデボーション

信仰の目、恐怖に満ちた目

モーセは、カナンの地の偵察のために彼らを遣わして言った。。。

「勇気を出して。。。」 (民数記13:17、20)

上の言葉で、私の心に打たれました。

モーセは12人の斥候を遣わす前に、「勇気を出しなさい」と言いました。

でも、彼らが戻って来た時に、まだ勇気を失っていなかったのはカレブとヨシュアだけでした。

なぜでしょうか。なぜなら、彼らは信仰の目を持っていたからです。彼らは神様の偉大さを見たのです。

でも、残りの10人の斥候は、恐怖に満ちた目をしていました。

なぜでしょうか。彼らはカナン人の大きさしか見ることができなかったからです。

どれだけ、私たちは神様の偉大さを忘れ、未来や神様が私たちをどこに導いてくださるのかを恐れるでしょうか。

また、神様がどれほど良い方であるのかを、私たちはどれほど忘れているでしょうか。

今日、私はたまたま詩篇16篇を祈っていました。5~8節は、特に今日の話に適していたと思いました。

主は私への割り当て分、また杯。あなたは、私の受ける分を堅く保たれます。

割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい、私へのゆずりの地です。

私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に、夜ごとに内なる思いが私を教えます。

私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。(詩篇16:5ー8)詩篇16:5ー8)

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ゼカリヤ書

非難されるところのない者

旧約聖書のこの箇所は、本当に心に残る箇所です。なぜなら、クリスチャンにとっても深い意味を持つからです。

ここでは、大祭司ヨシュア(ヨシュア記のヨシュアとは別人)が主の前に立っていました。

けれども、サタンは彼を激しく責め立てていました。おそらく、サタンの批判は正当なものであったかもしれません。なぜなら、ヨシュアの服は罪によって汚れていたからです。

しかし、主はこう言われました。

サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。(ゼカリヤ書3:2)

2節は本当に興味深いです。「主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。」」

もしかすると、ヨシュアの前に立っている御使いはイエス様その方かもしれません。

いずれにしても、主はサタンをとがめられました。「私はこの人を救いました。どうして、あなたはこの人を責めるのか。」

その後、御使いは自分の前に立っている者たちにこう命じました。

彼のよごれた服を脱がせよ。(ゼカリヤ書3:4)

そのあと、彼はヨシュアにこう言いました。

見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。(ゼカリヤ書3:4)

そして、その御使いはヨシュアをさとして言いました。

万軍の主はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。

わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。(ゼカリヤ書3:7)

神様はヨシュアに「先に自分自身をきれいにしなさい。それができれば、私に仕えなさい」とは言われませんでした。

むしろ、神様はこう言われました。

「私はもうあなたをきれいにしました。だから、私に仕えなさい。そうすれば、私の祭司として仕え続けることができ、あなたは私の宮に自由に入って、私のもとに近づくことができます。」

最後に、少し興味深い皮肉があります。神様はヨシュアに将来の「ヨシュア」について話されました。

つまり、イエス様について語られたのです。(「ヨシュア」という名前は、ギリシャ語で「イエス」と訳されます。)

次のヨシュアは神様の知恵を備えています(「一つの石の上に七つの目」という表現がそれを指します)。そして、イスラエルの罪を一日のうちに取り除かれるのです。

イエス様が再びこの世に戻るとき、彼はすべてを治め、ついに私たちは平和を知るのです。(ゼカリヤ書3:8-10)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちは、かつてヨシュアのように罪によって汚れた者として神様の前に立ちました。しかし、私たちがイエス様を信じたとき、イエス様は私たちの弁護士となり、私たちを擁護してサタンをとがめられるのです。

さらに、イエス様は私たちの汚れた服を取り除き、彼の義の衣を私たちに着せてくださいました。

なぜでしょうか。それは私たちが良い行動をしたからでしょうか。いいえ、違います。それはイエス様の十字架での働きによってのみ可能になったのです。

今や、きれいにされた者として、私たちは神様に従い、神様の祭司として仕えるべきです。そして、私たちは他の聖徒たちと共に、自由に神様のもとに近づけるという素晴らしい恵みを知るのです。

パウロはこう書きました。

あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。

それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。

この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。(コロサイ1:21-23)