旧約聖書のこの箇所は、本当に心に残る箇所です。なぜなら、クリスチャンにとっても深い意味を持つからです。
ここでは、大祭司ヨシュア(ヨシュア記のヨシュアとは別人)が主の前に立っていました。
けれども、サタンは彼を激しく責め立てていました。おそらく、サタンの批判は正当なものであったかもしれません。なぜなら、ヨシュアの服は罪によって汚れていたからです。
しかし、主はこう言われました。
サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。(ゼカリヤ書3:2)
2節は本当に興味深いです。「主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。」」
もしかすると、ヨシュアの前に立っている御使いはイエス様その方かもしれません。
いずれにしても、主はサタンをとがめられました。「私はこの人を救いました。どうして、あなたはこの人を責めるのか。」
その後、御使いは自分の前に立っている者たちにこう命じました。
彼のよごれた服を脱がせよ。(ゼカリヤ書3:4)
そのあと、彼はヨシュアにこう言いました。
見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。(ゼカリヤ書3:4)
そして、その御使いはヨシュアをさとして言いました。
万軍の主はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。
わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。(ゼカリヤ書3:7)
神様はヨシュアに「先に自分自身をきれいにしなさい。それができれば、私に仕えなさい」とは言われませんでした。
むしろ、神様はこう言われました。
「私はもうあなたをきれいにしました。だから、私に仕えなさい。そうすれば、私の祭司として仕え続けることができ、あなたは私の宮に自由に入って、私のもとに近づくことができます。」
最後に、少し興味深い皮肉があります。神様はヨシュアに将来の「ヨシュア」について話されました。
つまり、イエス様について語られたのです。(「ヨシュア」という名前は、ギリシャ語で「イエス」と訳されます。)
次のヨシュアは神様の知恵を備えています(「一つの石の上に七つの目」という表現がそれを指します)。そして、イスラエルの罪を一日のうちに取り除かれるのです。
イエス様が再びこの世に戻るとき、彼はすべてを治め、ついに私たちは平和を知るのです。(ゼカリヤ書3:8-10)
私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちは、かつてヨシュアのように罪によって汚れた者として神様の前に立ちました。しかし、私たちがイエス様を信じたとき、イエス様は私たちの弁護士となり、私たちを擁護してサタンをとがめられるのです。
さらに、イエス様は私たちの汚れた服を取り除き、彼の義の衣を私たちに着せてくださいました。
なぜでしょうか。それは私たちが良い行動をしたからでしょうか。いいえ、違います。それはイエス様の十字架での働きによってのみ可能になったのです。
今や、きれいにされた者として、私たちは神様に従い、神様の祭司として仕えるべきです。そして、私たちは他の聖徒たちと共に、自由に神様のもとに近づけるという素晴らしい恵みを知るのです。
パウロはこう書きました。
あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。
それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。
ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。
この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。(コロサイ1:21-23)