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使徒の働き

私たちじゃない

ペテロとヨハネに癒された乞食が歩き始め、跳びはね、大きな声で神様を賛美すると、周りの人々は驚きました。なぜなら、その人は約40年間、歩くことができなかったからです。ところがすぐに、人々はペテロとヨハネをぽかんと見つめ始めました。

すると、ペテロは彼らにこう言いました。

イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や、敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。。。

このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。

イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。(使徒の働き3:12,16)

ペテロの言葉の中に、私たちは本当に大切なことを見いだします。

私たち自身は、自分の人生の中心ではありません。大切なのは私たちではなく、私たちができることでもありません。

大切なのは、イエス様です。大切なのは、イエス様が十字架で成し遂げられた御業です。そして、大切なのは、今イエス様が行っておられることです。

ペテロが高慢な態度で、「私たちを見てみなさい。すごいでしょう?神様は私たちに素晴らしい力を与えてくださった。私たちは本当に恵まれているでしょう?」と自慢するのは、簡単だったでしょう。

しかし、ペテロはそうせず、イエス様を示しました。ペテロとヨハネではなく、イエス様がその人を癒されたと指摘しました。

また、ペテロが強調したのは、その奇跡を見た人々がペテロとヨハネを信じて褒めるのではなく、イエス様を信じ、イエス様を褒めたたえるべきだということです。なぜなら、イエス様は彼らのために死なれたからです。

さらに、モーセと他の預言者たちは、イエス様を指して「イエス様に聞きなさい」と語りました。

けれども、多くのクリスチャンはイエス様に焦点を当てず、自分自身に目を向けてしまいます。自分の霊的な賜物に注目し、自分ができることに意識を向け、自分が得た誉れに心を奪われてしまうのです。

その結果、自分のいのちの目的を見失ってしまいます。

それは、イエス様を知り、周りの人々にイエス様を指し示すことです。

もし自分自身にばかり焦点を当てるなら、私たちは神様が私たちに与えようとしているいのちや喜びを理解することができません。

あなたはどうでしょうか。何に焦点を当てていますか。何のために生きていますか。誰のために生きていますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ19章

自分の苦しみを脇へ置くことができる?

私たちがどれほど自己中心的であるかを知りたいなら、悲しんでいるときの自分の反応を見るべきです。試練に直面し、苦しんでいるとき、私たちは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。

自己憐憫に浸るのは、ごく自然な反応かもしれません。

「どうして私はこんな試練に向き合わなければならないのか。いつまで苦しみ続けるのか。」——そう考えるのは普通のことです。

けれども、私たちが十字架を見るとき、イエス様は自分自身よりも、周りの人々に焦点を当てておられたことに気づきます。イエス様は一人の犯罪人を憐れみ、敵のために祈り、そしてこの場面では、母マリアへの深い愛を示されました。

マリアは十字架のもとで涙を流していました。彼女の長男は、ひどい罰を受け、死のふちに立たされていました。しかし、マリアの他の子どもたちは十字架の近くにはいなかったようです。

もしかすると、彼らはイエス様が狂っている(マルコ3:21)と思い、彼が家族に恥をかかせたと感じたのかもしれません。

だからこそ、他の息子や娘の姿はなく、マリアは十字架のもとで一人涙を流していました。家族からの慰めはありませんでした。

そのとき、イエス様は愛する弟子(おそらくヨハネ)を見て、マリアにこう言われました。

女の方、御覧なさい。あなたの息子です。(ヨハネの福音書19:26)

(当時、「女の方」という表現は、非常に丁寧で敬意を込めた言葉でした。)

そして、イエス様はヨハネにこう言われました。

御覧なさい。あなたの母です。(27)

その後、ヨハネはマリアを自分のもとへ引き取りました。

イエス様は、ご自身の苦しみだけを考える権利があったでしょう。彼は無実でした。この苦しみを受ける理由は何もありませんでした。

それでもイエス様は、自らの苦しみを脇へ置き、周りの人々を見て、愛を示されました。

あなたはどうでしょうか。

かつて、私の牧師の奥様は本当に素晴らしい方でした。私が知り合った人の中でも、彼女は最も愛を示す人の一人でした。彼女は亡くなるその日まで、変わることなく愛を示し続けました。

彼女はがんにかかり、少しずつ健康を失っていきました。最終的には、自分のベッドにずっといる状態となり、周りの人々が彼女を介護する必要がありました。それでも、彼女は自己憐憫に浸ることはありませんでした。

最後まで、彼女は介護してくれる人々にイエス様の愛で触れようとしていました。

もちろん、彼女は完全な人ではありませんでした。きっと、気が沈むこともあったでしょう。それでも、イエス様のように、彼女は自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々に愛を示しました。

あなたはどんな苦しみを経験しているでしょうか。どんな試練に直面しているでしょうか。

あなたは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。それとも、あなたは自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々のニーズを見ることができるでしょうか。

苦しみの中で自分自身に焦点を当てる心は、その苦しみに留まり続けます。しかし、自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々のニーズを見る心は、苦しみを越えて、もう一度喜びを見いだすのです。