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詩篇のデボーション

神様を神様として認める

知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。(詩篇100:3)

最近、私はヨブ記についての説教を準備していました。

多分、そのせいで私は神様と時間を過ごしていて、詩篇100篇を読んだとき、ヨブのことを連想しました。ヨブの試練の後、彼が詩篇100篇のような歌を歌うことを想像できました。

なぜなら、ヨブは上の真理を学んだからです。

神様は神様です。私たちは神様ではありません。

神様は私たちを造られました。私たちは神の民です。私たちは神の羊です。

そして、それは幸いなことです。

なぜでしょうか。

なぜなら、最終的に、神様は良い方で、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至るからです。(5節)

この世には、私たちが理解できないことがたくさんあります。ですから、私たちが神様を疑い始めることは簡単なことです。

私たちは、神様が良い方であるかどうか疑い始めます。私たちへの神様の愛も疑い始めます。

でも、試練の中で喜びを知ることができる鍵は、主を神様として認めることです。つまり、神様は賢明な方であり、全能の方であるということです。でも、最も大切なことは、神様は私たちを深く愛してくださっているということです。

だから、確信をもってその真理を信じ、主に向かって喜びの声をあげましょう。(1節)

喜びをもって主に仕え、喜び歌いつつ、御前に行きましょう。(2節)

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入りましょう。主に感謝し、御名をほめたたえましょう。(4節)

なぜなら、主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至るからです。(5節)

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伝道者の書のデボーション

どうしてこれが私に起こっているの?

正直に言うと、今日の個所には分かりにくい言葉があります。

私はいろいろな聖書学者の解説を読みましたが、彼らの意見はあまり一致していません。

例えば、

あなたは正しすぎてはならない。

自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。

あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。

一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。(伝道者の書7:16-18)

「あなたは正しすぎてはならない」とはどういう意味でしょうか。

また、「あなたは悪すぎてはいけない」とは、どういう意味でしょうか。

ソロモンは、「やりすぎないなら、ちょっと罪を犯しても良い」と言っているのでしょうか。

多分そうではありません。なぜなら、ソロモンは「神を恐れる者は、この両方(の真理)を持って出て行く。」と言っているからです。

では、ソロモンは何を言いたいのでしょうか。

12節では、ソロモンは、知恵が私たちを守ると言っています。

でも、ソロモンは私たちに警告します。私たちは知恵を持っているかもしれませんが、何も悪いことが起こらないとは限りません。

もちろん、神様が私たちを祝福してくださるときもありますが、神様が私たちが試練に直面することを許されるときもあります。

良い人が滅びることもあるし、悪い人が栄えることもあります。(13-15)

とは言え、20節で、ソロモンは、本当に正しい人が誰もいないことを指摘しています。

私たち皆は罪人です。

だから、「どうして、これは私に起こっているの?私は何も悪いことを全然していないのに。」と正直に言える人は誰もいません。

どれだけ、私たちは、相手の罪に気づくのに、自分が同じ罪を犯していることに気づかないでしょうか。(21-22)

だから、たぶんソロモンが意味したのはこうです。「自分が正しいほどに、試練や苦しみを経験することに値しないと考えてはいけません。」

そんなに正しい人は誰もいません。

その反面、「良い人が滅びることもあるし、悪い人が栄えることもあるので、やたらと罪を犯してもいい」と考えてはいけません。なぜなら、その道は必ず死に導くからです。(ローマ6:23)

では、「自分を知恵のありすぎる者としてはならない」とはどういう意味でしょうか。

多分、ソロモンが意味したのは、「自分が十分な知恵を持って、悪の理由のすべてを悟ることができると考えてはいけない」ということです。

イエス様以外では、ソロモンは最も知恵のある人でした。

それでも、ソロモンは悪の理由を説明することができませんでした。

彼は男性も女性もよく観察しました。

彼は、完全に理解できる女性を誰も見つけられませんでした。理解できる男性もあまりいませんでした。

彼が分かったのは、一つのことです。それは、すべての人々が罪に染まっているということです。(23-29)

悪の理由のすべてを理解しようとすると、私たちの脳は爆発してしまい、私たちは自分の信仰を壊してしまうかもしれません。

ヨブの友人たちは、すべての理由を理解していると思っていましたが、最終的に、神様は彼らの知恵を批判し、彼らを責められました。

だから、その二つの間違った考え方を避けましょう。

むしろ、神様の御前にへりくだり、神様が良い方であることを信じ、何が起こっても、神様に従いましょう。

そうすれば、ヨブのように、私たちは神様がやっぱり良い方であることを知るようになります。

 

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箴言のデボーション

神の前にへりくだる

皮肉なことですが、箴言の終わりに私たちがたくさんの知恵を聞いたのに、アグルという人はこう言います。

まことに、私は粗野で、人ではない。私には人間としての分別がない。私はまだ知恵も学ばず、 聖なる方の知識も持っていない。(箴言30:2ー3)

でももしかしたら、私たちはそんな謙遜な態度を取るべきかもしれません。なぜなら、私たちがどんなに知恵を持っても、私たちの知恵は神様の知恵と比べられないものです。

それでも、苦しむときに、私たちは神様を疑います。

「どうして、神様は、コロナを許しただろうか。」

「どうして、神様は、天災を許すだろうか。」

「どうして、神様は、この世の悪を許すだろうか。」

ヨブのように、私たちは神様から答えを迫ろうとすることができます。ヨブの友達のように、私たちはもうその答えを知っているふりをすることができます。

でも、最終的に、私たちが認めなくてはならないのは、「私は何も知らない」ということです。

すべてのことを知っている方は一人しかおられません。でも、その人は私たちではありません。(4)

だから、私たちは選択があります。私たちは無知なままで、神様を罵ることができます。

もしくは、私たちはヨブのようにへりくだって、神様にこう認めることができます。

あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。

あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。

確かに私は、 自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。(ヨブ記42:2ー3)

箴言の冒頭で、私たちはこの言葉を読みました。

主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。(箴言1:7)

また、

主を恐れることは知恵の初め、 聖なる方を知ることは悟ることである。(箴言9:10)

私たちはすべてのことを理解することはできません。でも理解し始めたいと思うなら、私たちは二つのことをしなくてはなりません。

神様を恐れなくてはいけません。

神様を信頼しなくてはなりません。

あなたはどうするでしょうか。

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箴言のデボーション

知恵をもって箴言に向き合う

愚かな者が口にする箴言は、 足の萎えた者の垂れ下がった足。(箴言26:7)

愚かな者が口にする箴言は、 酔った人が手に取り上げる茨。(9節)

箴言を読むときに、多くの人々はどのように箴言を解釈するべきか分かりません。

でも上記の箴言が指摘するように、もし箴言の使い方が分からなければ、最善の場合でも箴言は役に立たないものになります。最悪な場合、箴言によって人は傷ついてしまいます。

ヨブの友達をちょっと考えてみてください。彼らはいつも箴言を語りました。さらに、パウロはその友達のひとつの箴言を引用しました。

だから、その言葉自体は間違っていませんでした。(ヨブ5:13;第一コリント3:19)

でも、その友達は愚か者で、その箴言によってヨブを傷つけてしまいました。

だから、箴言を読むときには、二つの大切なことを心に留めておきましょう。

1. 箴言は神様の約束ではありません。むしろ、箴言は、神様が造られた世界に関する一般的な原則を表現しています。でも、心に留めておいてください。一般的な原則にはいつも例外があります。

例えば、ヨブの友達がいつもヨブに語った一般的な原則は何でしょうか。それは、神様が良い人々を祝福され、悪い人々を呪われるということです。

でも、すべての金持ちが神様に祝福されているとは限りません。また、すべての苦しんでいる人々が神様に呪われているとは限りません。

この壊れた世界では、良い人も苦しむし、悪い人も栄えます。でも最終的に、神様が正義をもたらされて、良い人は栄え、悪い人は苦しみます。

また、箴言22:6をちょっと考えてみてください。

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。 そうすれば、年老いても、それから離れない。

それは神様の約束でしょうか。

それは約束ではありません。それは一般的な原則です。

でも、自分の子供が悪い道を行ってしまう時、どれだけ良い両親が自責の念に苦しむでしょうか。

だから、箴言を読むときには、相手を責めること、また自分を責めることに注意しましょう。

2. 箴言には、適切な時も、不適切な時もあります。

例えば、箴言26:4〜5をちょっと読んでみましょう。

愚かな者には、その愚かさに合わせて答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。

愚かな者には、その愚かさに合わせて答えよ。そうすれば彼は、 自分を知恵のある者と思わないだろう。

では、どうすれば良いのでしょうか。愚かなものにはその愚かさに合わせて答えるべきか、答えるべきではないでしょうか。

事情によって違います。あるとき、議論に巻き込まれたら、たくさんの熱は出てくるけど、光はあまり出ません。だから、何も言わない方が良いです。

でも、ある場合には、もしあなたが何も言わなければ、相手が自分の意見に固執し、自分や回りの人々を傷つけてしまいます。

だから、どうすれば良いか考えるときに、神様の知恵が必要です。

5節にも、6節にも知恵のある言葉があります。。。適切な時に使えば。

とにかく、箴言を読むときには、知恵を持って、その箴言を私たちの人生に当てはめましょう。

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ローマ人への手紙

火を通過するとき

時々、聖書を読むと、私は少し首をひねることがあります。この箇所もその一例です。

パウロはこう書きました。

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:3-5)

この箇所はよく知られた部分で、私も何度も読んだことがあります。けれども、今回改めて読んでみると、ある疑問が浮かびました。

「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」ということは理解できますが、どうして練られた品性が希望を生み出すのでしょうか。その関係は何でしょうか。

実は、新改訳は英訳よりも明確です。英訳では単に「忍耐が品性を生み出す」と書かれています。

しかし、原語では「品性」という言葉には、試された人というニュアンスがあります。彼らは試練に直面し、それを乗り越えたことで、神様に認められています。

彼らの信仰は単なる知識ではなく、実際に神様の忠実さや愛を経験したものです。

だからこそ、彼らの信仰は強まり、品性も強められました。どんなに困難な試練に直面しても、神様の愛と忠実さに対する確信を持つことで、希望を抱くのです。

だからパウロは、「この希望は失望に終わることがありません」と言えたのです。私たちの希望は、自分自身の身分や品性に基づくものではありません。

むしろ、私たちの希望は二つの確固たる事実によるものです。それらは、神様が私たちを愛し、私たちのうちに住んでおられる聖霊を通して私たちと共におられるということです。

旧約聖書のヨブの話を考えてみましょう。彼は大きな試練に直面しました。彼の財産や子供たちは奪われ、さらに友人たちにも責められました。

それでも、彼は忍耐を持ち続けました。そして、火を通過した後、神様の愛と忠実さをより深く理解し、希望を知ったのです。

あなたはどうでしょうか。どんな試練に直面していますか。その試練のゆえに、神様から逃げないようにしましょう。むしろ、神様に近づきましょう。

そうすれば、あなたは神様の愛と忠実さを経験し、希望を知ることができます。

そして、パウロが言ったように、「この希望は失望に終わることがありません。」