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サムエル記第二のデボーション

私たちのリーダーたちのために祈る

私たちは、リーダーたちからしばしばがっかりさせられることがあります。

政治家も教会のリーダーたちも、私たちを失望させる時が多いです。

なぜなら、彼らはただの人間だからです。そういうわけで、彼らには欠点も失敗も多くあります。

ダビデはイシュ・ボシェテよりも強い王だったかもしれませんが、イシュ・ボシェテがアブネルのことをうまく扱えなかったように、ダビデもヨアブのことをうまく扱うことができませんでした。

さらに、王に関する神様の戒めを無視して、ダビデは多くの妻を持っていました。(申命記17:17)

ダビデは、少なくとも一人の妻と政治的な理由で結婚しました。(第二サムエル記3:3)

また、たぶん愛のためではなく、むしろ政治的な理由のために、ダビデはサウルの娘ミカルを自分に返してくれるように要求しました。ミカルの夫は彼女を愛していたのに、ダビデはその要求をしました。

ミカルはどう感じたでしょうか。もちろん、彼女はかつてダビデを愛していました。(第一サムエル記18:28)

しかし、父サウルに悪く扱われ(第一サムエル記25:44)、ミカルは新しい夫と歩んでいくことを選んだようです。

ところが今、彼女はダビデの愛のために他の妻たちと競争しなければなりませんでした。

もしかすると、そういうわけで、彼女はダビデを軽蔑するようになったのかもしれません。(第二サムエル記6:20)

それでも、神様はご自分の目的をダビデを通してもたらしました。

今なお、私たちが神様の目的を理解できなくても、神様は政治家や教会のリーダーたちを通してその目的をもたらされます。

だから、そのリーダーたちのために祈りましょう。彼らの欠点や弱さにもかかわらず、彼らを通して神様がご自分の目的をもたらされるように祈りましょう。

もし、そのリーダーたちが神様をまだ知らないなら、彼らの救いのために祈りましょう。

もし、彼らが神様を知っているなら、神様が彼らを導かれるように祈りましょう。

そしてその導きによって、彼らがリーダーとして、また人間として成長し、彼らに与えられた神様の召しを果たすことができるように祈りましょう。

神様は彼らに恵みを与えてくださっているのです。

その恵みの心をもって、彼らのために祈りましょう。

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テモテへの手紙第ー

リーダーになりたいと願うなら

前回の記事では、私は牧師や教会の長老について語りました。 けれども、多くのクリスチャンにとって、牧師や長老になることはあまり関心のあるテーマではないかもしれません。

とはいえ、あるクリスチャンはミニストリーのリーダーになりたいと願っているかもしれません。たとえば、教会の財政を管理したり、ホームレスの方々への奉仕を担ったり、スモールグループや教会行事の運営を任されたりするような働きです。

多くの教会では「執事」という言葉をあまり用いませんが、聖書の観点からすれば、こうした奉仕を担うリーダーたちは、まさに執事と呼ぶべき存在です。

彼らは牧師や長老ではないにしても、教会が健全に働きを進めていくために、重要な責任を担っています。彼らの働きによって、牧師や長老たちは自分たちの務めに集中することができるのです。

多くのクリスチャンは、自分の賜物があるから執事にふさわしいと考えがちですが、そのような見方は正確ではありません。

パウロが執事の資格について語るとき、彼はその人の賜物や能力についてまず触れることはしません。むしろ、牧師の場合と同じように、執事に求められる最も重要な資格は「良い性格」なのです。

そのことを踏まえて、パウロはこう語りました。

(教会の監督と)同じように執事たちも、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利を求めず。。。(テモテへの手紙第一3:8)

牧師と同じように、執事も自分の妻に対して忠実であり、自らの家庭をよく治めなければなりません(11)。

ただし、牧師とは異なり、執事には聖書を教える賜物が必須ではありません。それでも、キリスト教信仰に堅く立ち、御言葉に従って歩むことが求められます(9)。

私たちは、誰かをすぐにリーダーに任命すべきではありません。 その前に、まず審査を経るべきです。もし非難される点がなければ、そのとき初めてリーダーに任命してもよいのです。この手順を省くなら、その結果は非常に重いものとなるでしょう。

そしてパウロは、女性の執事についても語っています。

この奉仕に就く女の人も同じように、品位があり、人を中傷する者でなく、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。(11)

最後のポイントは、どのような役割を担っていたとしても、執事は「しもべ」であるべきだということです。実際、「執事」という言葉そのものが、「しもべ」という意味を持っています。そして、神のしもべとして、また教会のしもべとして、彼らは誠実に仕えることが求められるのです。

パウロは、この教えを次のように締めくくっています。

執事として立派に仕えた人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について、強い確信を持つことができるのです。(13)

忠実に仕えるなら、当然、教会の中で良い評判を得ることができます。しかし、それ以上に大きな報いは、神があなたを通して働かれ、周囲の人々がその祝福に触れるのを見ることです。そのとき、あなた自身の信仰もいっそう深められていくでしょう。

あなたはリーダーになりたいと願っていますか。そのとき、あなたはどのような性格を持っているでしょうか。

すでにリーダーとして仕えているなら、あなたは忠実に仕えていると言えるでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

女性たちと教会のリーダーシップ(3)

この箇所をまとめる前に、もうひとつ触れておくべき点があります。

15節で、パウロはこう語っています。

女は、慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら、子を産むことによって救われます。(テモテへの手紙第一2:15)

ある聖書の解釈者はこう述べています。「この節は、聖書学者にとっても極めて解釈の難しい箇所です。」

私もその意見に深く同意します。では、パウロがここで語ろうとしたことは一体何だったのでしょうか。

もちろん、パウロが「女性は救われるために子どもを産まなければならない」と言ったとは考えられません。なぜなら、彼は他の手紙の中で、救いは信仰によって与えられると一貫して語っているからです。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

では、パウロが意味したこととは何でしょうか。

14節では、彼はこう語っています。

そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。

この言葉は、非常に厳しく響くかもしれません。「女性たち、すべての罪はエバのせいです。彼女のせいで、この世界は混乱に満ちているのです」――そんな印象を与えるかもしれません。

だからこそ、もしかするとパウロは、その厳しさを少し和らげようとしたのかもしれません。つまり彼は、女性たちに神様がエバに与えられた刑罰を思い起こさせているのです。それは、女性が苦しみを伴って子を産まなければならないという現実です。

パウロは女性たちにこう伝えています。出産の苦しみは、この世がエバの罪によってもたらされた痛みと呪いにあることを思い出させるものです。出産の痛みを通して、私たちはエバの罪と世界の嘆きを思い起こすのです。

けれども――あなたたちがイエス様とその十字架の御業を信じ、 神様に対する信仰、周囲の人々への愛、そして聖霊の力による聖い歩みに生きるならば、あなたたちは必ず救われるのです。

この解釈が正しいとすれば、「子を産むことによって」という日本語訳――特に「によって」という表現――は、あまり適切ではないかもしれません。別の訳し方として、「〜をくぐって」あるいは「〜を通って」という表現が考えられます。

たとえば、第一コリント3章15節で、パウロは同じギリシャ語の語を用いてこう記しています。

その人自身は火の中をくぐるようにして、助かります。

ですから、もしかするとパウロは、女性たちにこのように語っていたのかもしれません。「たとえあなたたちが、エバに与えられた呪いを受け、出産の苦しみをくぐり抜けるとしても、イエス様を信じて歩むなら、あなたたちは救われるのです。」

この希望について、パウロはローマ書の中でも語っています。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。

私たちは、この望みとともに救われたのです。(ローマ書8:22-24)

とにかく、他にもさまざまな解釈はありますが、これが私の理解です。

さて、女性と教会のリーダーシップの話題に立ち返り、この内容をまとめたいと思います。

この問題について、私たちは慎重に思いを巡らせる必要があります。このテーマを議論している人々がそうしているように、このブログを読んでいる皆さんにも、ぜひ考えていただきたいのです。

仮にパウロの指示がエペソの教会に限定されたものであると考えるならば、次の点を考えてみてください。

1.文法的にやや解釈の幅がありますが、おそらくパウロは女性が誰に対しても教えてはいけないと言っているわけではありません。(このシリーズのパート1で、私がそう考える理由を説明しました。)

むしろ、パウロは女性が男性に対して教えることを禁じているのです。ですから、あの箇所を言い換えるならこうなります。「女が男を教えたり、男を支配したりすることを許しません。」

しかしもし、エペソ教会の問題が「女性たちが十分に教えられていなかったこと」だったとするなら、なぜパウロは「女性が誰に対しても教えたり、支配したりすることを禁じます」とは語らなかったのでしょうか。

なぜその指示は「男性に教えたり、支配したりすること」に限定されているのでしょうか。その女性の偽教師たちは、他の女性や子どもに対してなら教えたり支配したりしても構わない、ということでしょうか。

2.エペソの教会に女性の偽教師がいたという証拠は、どこにあるのでしょうか。パウロはどこで「女性の偽教師」について言及したのでしょうか。彼女たちの名前を挙げていたでしょうか。

一方で、エペソには男性の偽教師がいたことは確かです。なぜなら、パウロは彼らの名前を挙げているからです(第一テモテ1:19–20;第二テモテ2:16–17)。

もし女性の偽教師が重大な問題だったのなら、なぜパウロは彼女たちの名前を挙げなかったのでしょうか。

3.もしパウロが「十分に教えられていない者たちが教えたり、支配したりすること」を禁じたかったのだとすれば、なぜ彼は「女性の偽教師」だけに限定して語ったのでしょうか。

なぜ「偽教師たちが教えたり、支配したりすることを許しません」と言わなかったのでしょうか。

一方で、女性が主任牧師や長老になってはならないと考える人は、次の問いにも向き合うべきです。

1.なぜプリスカという女性は、夫と共にアポロを教えることが許されたのでしょうか(使徒の働き18:26)。

2.もし教会のリーダーは男性であるべきであり、かつ使徒が特別に偉大なリーダーであるとするなら、ユニアとはいったい誰だったのでしょうか(ローマ16:7)。

では、その箇所をどのように解釈すればよいのでしょうか。

「使徒たちはユニアをよく知っています。」

あるいは、「ユニアは使徒として知られています」と訳すべきかもしれません。

その原語の表現には、やや解釈の余地があります。しかし、もしユニアが使徒であったのなら、パウロの指示はエペソ教会に限定されると考えるのが自然でしょう。

ともかく、以前にも述べたとおり、聖書学者たちの間にはより詳細な議論があります。ですから、可能であれば、両方の立場に耳を傾けてみてください。そして、それぞれの議論を聖書と照らし合わせながら、自らの結論を導いてください。

ただし、私はもう一度強調したいのです。この問題によって、自分の教会を分裂させてはなりません。もしあなたが教会のリーダーたちの方針に納得できないのであれば、静かに別の教会に移ることを検討してください。

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テモテへの手紙第ー

女性たちと教会のリーダーシップ

この箇所は、聖書を信じるクリスチャンのあいだでも、最も議論を呼ぶ部分のひとつです。議論の焦点は、教会において女性が男性をリードしてもよいのか、特に、女性が主任牧師として仕えてもよいのか、という点です。

私の教会では、女性が主任牧師として仕えることを認めています。しかし一方で、今日の箇所に基づいて、女性は主任牧師として仕えてはならないと教えている教会もあります。

では、パウロが「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません」と語ったとき、彼が意図していたのは、どのようなことだったのでしょうか。

もちろん、パウロが女性は絶対に教えてはならないと言っているのではないことは明らかです。なぜなら、彼はテモテの祖母ロイスと母ユニケが、テモテに聖書を教えたことを称賛しているからです(第二テモテ1:5、3:14〜15)。

さらにパウロは、年配の女性たちが若い女性たちに教えることを望んでいました(テトス2:3〜4)。

さらに、パウロの言葉が「女性は男性に対して絶対に教えてはならない」という意味ではないこともわかります。なぜなら、使徒の働き18章26節では、ある夫婦がアポロという人物に対して、より正確な神の道を教えたと記されているからです。

このことから、パウロが“何を意味していないか”は明確です。

では、“何を意味していたのか”についてはどうでしょうか。ここが、非常に議論を呼ぶ点です。

そこで、今回と次回の記事では、2つの主要な解釈を見ていきます。それぞれの立場の良い点も、課題となる点も公平に見ていきたいと思います。ですから、私は皆さんに挑戦します。この問いをよく調べて、ご自身の結論を導き出してください。

まず1つ目の立場は、パウロの指示がテモテの教会、すなわちエペソの状況に限定されているという考え方です。

この立場によれば、当時エペソの教会では女性たちが偽教師に騙されており、その結果、彼女たちは公の場で教えたり、男性たちを導いたりすべきではなかったというのです。

では、この立場の根拠は何でしょうか。

第一に、エペソには偽教師が確かに存在していたことが、はっきりと記されています(1:3〜7)。

第二に、この立場は新約聖書の記述に基づいています。パウロ自身が女性たちと共に頻繁に奉仕していたことが示されており、ローマ書16章をはじめ、他の複数の箇所にその様子が記されています。

そして最後に、この立場を支持する人々による14節の解釈を見てみましょう。

パウロはこう語っています。

そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。(テモテへの手紙第一2:14)

ある解釈によれば、パウロが語った意図はこうです。エバがアダムから十分に教えられていなかったために、サタンに騙され、罪を犯してしまった。それと同じように、エペソの女性たちもまだ十分に教えられていなかったため、まずは静かに学ぶべきだった、というのです。

しかし、正しい教えを受けたあとは、彼女たちも教えることができたのだ、というのがこの立場の理解です。

もちろん、他にもさまざまな議論がありますが、これがこの見解における中心的な論点です。

明日、もうひとつの立場を取り上げて、この箇所についてさらに考えていきましょう。

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コリント人への手紙第一

人々をイエス様の立場まで引き上げる?

クリスチャンがリーダーに感心し、模範として見上げるのは自然なことです。なぜなら、彼らは長年イエス様に従い、豊かな知恵と知識を持っているはずだからです。さらに、私たちは彼らと直接会い、話すこともできます。

もちろん、人を模範として見上げること自体は悪いことではありません。

ところが、もし私たちが彼らをイエス様の立場にまで引き上げるなら、それは危険です。なぜなら、私たちはイエス様ではなく、そのリーダーに従い始めてしまうからです。そして、そのリーダーがイエス様よりも私たちの模範となってしまいます。

こうなると、教会の分裂が生じやすくなります。コリントのクリスチャンたちはまさにこの問題を抱えていました。

ある人々は「私はパウロにつく」と言い、ほかの人々は「私はアポロにつく」と言い、さらに別の人々は「私はケファ(つまり、ペテロ)につく」と言いました。

そこで、パウロは皮肉を込めて語ったのです。

キリストが分割されたのですか。

パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(コリント人への手紙1:13)

要するに、「いったい誰に従っているのか。」

第3章で、パウロは次のように語りました。

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられた通りのことをしたのです。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です。(3:5-7)

簡単に言えば、「人を神様の立場にまで引き上げるのはやめなさい。その人々はただ神様のしもべなのです。主人よりもしもべを大切にする人はいません。

だからこそ、教会のリーダーたちがしもべにすぎないのなら、どうして彼らを神様の立場にまで引き上げるのでしょうか。」ということです。

それでも、多くのクリスチャンはそうしてしまいます。そのため、多くの教会にはさまざまな分裂が生じています。

さらに、人を神様の立場に上げることには、もう一つの問題があります。それは、彼らがただの人間であるがゆえに、最終的には私たちを失望させてしまうということです。

もし、私たちの信仰が神様ではなく人に基づいているなら、その人が失敗したり、私たちを落胆させたりすると、私たちの信仰そのものが揺らいでしまうかもしれません。

だから、人がどれほど敬虔であろうとも、私たちのために死んで復活されたイエス様の立場に引き上げることはしてはなりません。

牧師を比較しないでください。どの牧師がより偉大かを議論することも避けましょう。

神様は彼らそれぞれに働きを与えておられます。私たちには彼らを裁く権利はなく、また他の牧師と比較する権利もありません。その判断は彼らの主であるイエス様に委ねましょう。

そして、自分の信仰を他の人の信仰に基づけるべきではありません。むしろ、自分の信仰と希望は神様にこそ基づくべきです。

もし私たちの信仰を人に基づけてしまうなら、最終的に失望することになります。しかし、イエス様に信頼するなら、決して失望させられることはありません。(ローマ書10:11)

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使徒の働き

牧師たちやリーダーたちができないこと

最初の教会は、成長の過程で多くの困難に直面しました。この箇所では、その一例を見ることができます。

教会の重要な役割の一つは、貧しいメンバーのニーズに応えることでした。けれども、教会が次第に大きくなるにつれて、その働きの責任も大幅に増えていきました。

初めのころ、使徒たちは寄付を集め、食糧を配給していました。そのため、バルナバとアナニアは自分の畑を売り、その代金を使徒たちに渡しました。

しかし、クリスチャンの数が急増し、使徒たちはこの働きを適切に管理できなくなっていきました。

さらに、ヘブル語を話すユダヤ人のやもめたちは食糧を受け取れていましたが、ギリシア語を話すユダヤ人のやもめたちは十分な配給を受けていませんでした。

なぜでしょうか。使徒たちが意図的にギリシア語を話すやもめを差別したとは考えにくいですが、おそらく彼らは忙しすぎて、その働きを十分に行うことができなかったのでしょう。

では、彼らが取った解決策とは何だったのでしょうか。

私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。

そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。

その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専門します。(使徒の働き6:2-4)

彼らがそのように行動したことで、神様の言葉はさらに広まり、教会は急速に成長し続けました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。一つの重要な教訓があります。

牧師やリーダーだけでは、教会のすべての役割を果たすことはできません。

多くの場合、私たちはミニストリーの働きをすべて専門の人々に任せてしまいます。けれども、私たちは皆キリストの体です。私たち一人ひとりが自分の役割を果たすべきです。

その役割を果たすために、私たちは聖霊に満たされなくてはなりません。

教会の働きが十分に機能していないと、多くの人が不満を抱き、リーダーを批判することがあります。しかし、私たちが日々聖霊に満たされ、自分の役割を忠実に果たすなら、リーダーの負担を軽減することができます。

その結果、彼らは神様から与えられた使命に集中し、より良くその働きを進めることができるのです。

私たち自身は、自分に与えられた役割を果たしているでしょうか。

もう一つ大切なポイントがあります。牧師たちは自分自身に問いかけるべきです。「神様は、私に何を求めておられるのだろうか?」と。

そして、その使命を果たすために、どの役割を手放さなくてはならないかを考えなくてはなりません。

さらに、彼らは聖霊に満たされた人々を育てる必要があります。そうすれば、そのメンバーたちは、牧師やリーダーが果たしきれない役割を担うことができるのです。

牧師やリーダーだけでは、すべてのミニストリーの役割を担うことはできません。

私たち一人ひとりが(牧師であれ、一番新しいクリスチャンであれ)そのことを学ぶなら、神様の教会は成長していきます。ところが、それを学ばなければ、神の国の広がりは止まってしまいます。

あなたはどうでしょうか。自分に与えられた役割を果たしていますか。

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マタイの福音書 マタイ23章 マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ20章

リーダーシップに関する間違った考え方

リーダーシップとは何でしょうか。

イエス様は、パリサイ人たちと律法の専門家を厳しく批判された時、本当のリーダーシップを定義されました。

まず、イエス様は弟子たちと群衆に警告されました。

律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。

しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで事項しないからです。(マタイ23:1-2)

この箇所で、イエス様が彼らに教えられたのは、そのリーダーたちの権威ある立場を尊重する必要があるけれど、彼らの行動を模倣してはならないということです。なぜなら、彼らの言葉と行動が一致していなかったからです。

もちろん、彼らは律法の細かなルールや、さまざまな宗教的な伝統を守っていました。けれども、最も重要なこと、つまり正義、憐れみ、そして誠実を忘れていたのです。

その態度は、神様や周囲の人々に対する彼らの姿勢に悪影響を与えてしまいました。

さらに、その態度は彼らのリーダーシップに関する考え方にも影響を与えました。彼らは人々に仕えるのではなく、命令したいという考えを持っていました。

イエス様は彼らについてこう言われました。

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイ23:4)

彼らは多くの律法やルールを人々に課しました。けれども、その人々がそのルールを守れず、罪悪感の重さで苦しみ始めると、パリサイ人たちや律法学者たちは彼らを励ますことも、彼らのために祈ることもせず、助けるどころかむしろ彼らを責めました。

さらに、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の立場を誇示していました。

彼らの聖句を入れる小箱は大きく、衣の房(その房にも神様の言葉が書かれていました)は長く、周りの人々は彼らを見た時に本当に感心しました。「その人は本当に霊的な人だ」と思ったのです。

また、彼らはお金を儲けるために自分の立場を利用しました。イエス様は「彼らはやもめたちの家を食い尽くします」と言われました。おそらくそれは、パリサイ人たちがやもめの歓心を買い、彼女たちのお金を搾取したということを意味しているのでしょう。

さらに、彼らは周りの人々に「先生」や「父」と呼ばれることを好みました。なぜなら、それは彼らの高い立場を示す印だったからです。

しかし、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。

あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。

また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。(マタイ23:8-10)

リーダーたちはそのことを心に留めていなければなりません。肩書を持つこと自体は良いことですが、実際には私たち全員が対等なのです。神様だけが私たちに対して優れた方です。

それでも、神様はしもべとしてこの世に来られました。イエス様は病気の人々を癒し、困難にある人々に良い知らせを伝え、十字架で私たちの罪のための罰を受けて下さいました。リーダーたちはそのような態度を取るべきです。

だからこそ、イエス様はこう言われました。

あなたがたのうちで、一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(マタイ23:11-12)

本当のリーダーたちはしもべです。彼らは敬意、栄誉、またはお金を求めるのではなく、周りの人々に仕えるために全てをささげます。

さて、あなたはどのようなリーダーなのでしょうか。

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箴言

リーダーとは。。。

リーダーとは何ですか。この箇所で、リーダーについて学ぶことができると思います。

アグルはこう書きました。

歩きぶりの堂々としているものが三つある。いや、その歩みの堂々としているものが四つある。

獣のうちで最も強く、何ものからも退かない雄獅子、いばって歩くおんどりと、雄やぎ、軍隊を率いる王である。(箴言30:29-31)

1.リーダーは、ライオンのようにどんな状態に直面しても挑戦します。

ある人は自信がありそうですが、問題が出てくると、彼らは逃げて、その問題をたらい回しにします。

真のリーダーは自信を持って進みます。なぜなら、彼らは自分自身を信頼するよりも、神様を信頼するからです。そして、神様が彼らと共におられる確信があります。

サウルとダビデの話を読むと、その違いが分かると思います。

ゴリヤテという勇士がイスラエルの軍隊に挑戦を表明し、「誰が私と戦う勇気があるでしょうか」と叫んだとき、多分イスラエル人はサウルを見ました。なぜなら、彼は王であり、イスラエル人の中で最も大きな人だったからです。

けれども、サウルはどうしましたか。彼は自分の宮殿に隠れ、ゴリヤテと戦う責任を取る人に報酬を提供しました。

しかし、ダビデは立ち上がってゴリヤテと戦いました。彼の理由は何でしたか。

獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。(第一サムエル17:37)

神様はダビデと共におられたので、ダビデはゴリヤテを殺しました。

2.リーダーは目を覚まし、挑戦に直面するために、自分の心を準備します。

では、「いばって歩くおんどり」との関係は何でしょうか。私は分かりませんが、実は、そのヘブル語のフレーズの意味はちょっと微妙です。

文字通りに、その意味は走る時に自分のローブの裾をちょっと持ち上げることです。

多くの翻訳は「いばって歩くおんどり」と書いてありますが、ある解説者たちによれば、その意味が「鎧を着る勇士」や「バーディング(つまり、馬のための鎧)を着る軍馬」ということです。

この箇所では、いろんな方法で解釈できますが、私はこの箇所を読むと、ペテロの言葉を思い出します。

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。(第一ペテロ1:13)

キリストがいつかこの世に戻るので、イエス様が私たちに命じられることを果たすために、私たちは自分の心を準備しなくてはなりません。

3.リーダーは人々を導きます。

それは当たり前のことでしょう。雄やぎが他のやぎの先に行くように、リーダーたちも神様の導きに従って、神様の民を導くべきです。

4.リーダーの後ろには、ついて行っている人がいます。

それも当たり前のことですが、多くの人々はそのことについて考えません。私のハワイの牧師はいつもこう言いました。

「もし、人々がある人についていくなら、その人はリーダーです。彼らはリーダーとして自分自身を考えないかもしれないし、自分が資格がないと思うかもしれないけど、彼らはリーダーです。」

誰もあなたについていかないなら、あなたはリーダーではありません。けれども、軍隊が戦争に王に従うように、人々があなたについて行き、あなたを信頼したら、あなたたちはすごいことを達成できます。

しかし、アグルは悪いリーダーについて警告します。彼らは高ぶって愚かなことをよくします。彼らは人々を見下し、自分の力を乱用します。

彼らは真のリーダーではありません。たとえその立場があっても、自分の行動によって怒りをかき回してしまいます。だから最終的に、彼らについて行く人は、すべていなくなります。

あなたはどうですか。あなたはどんなリーダーでしょうか。

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エステル記

周りの人の利益のために働く

エステル記10章には、アハシュエロス王とモルデカイの偉大さが描かれています。特に私の心を打つのは、3節です。

それはユダヤ人モルデカイが、アハシュエロス王の次に位し、ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったから、自分の全民族に平和を語ったからである。(エステル記10:3)

多くの人々は、特権を得るためにリーダーになりたいと考えます。彼らは人に仕えられることを望みます。

もちろん、モルデカイは特権を得ましたし、人に仕えられました。しかし、彼にとって「リーダー」というのはもっと深い意味を持っていました。

つまり、本当のリーダーは人に仕えるのです。本当のリーダーは自分の利益だけを求めず、周りの人々の利益を求めるのです。本当のリーダーはその人々の世話をするのです。

エステル記4章には、モルデカイがエステルにそのように教えた記述があります。また、リーダーとしてモルデカイはそのように生きていました。

あなたはどうでしょうか。夫として、親として、教師として、上司として、リーダーとして、どのように生きていますか。自分のために生きていますか。周りの人々にあなたを尊敬するよう求めていますか。

それとも、周りの人々の利益のために働いていますか。

モルデカイは自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったことで尊敬されました。

私たちは周りの人々に尊敬を自分から要求することはできません。もし尊敬されたいのであれば、それを得るために行動しなければなりません。

もし、イエス様のように彼らを愛し、彼らの世話をするならば、その尊敬を得ることができるでしょう。

パウロはこう書きました。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。(ピリピ2:3-4)

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イザヤ書

リーダーって?

私たち全員、悪いリーダーに出会ったことがあると思います。そのような人々は、リーダーの役割を担わない方が良いでしょう。残念なことに、イスラエルには多くの悪いリーダーがいました。

この箇所で、神様はそのリーダーたちを厳しく責められます。

野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。見張り人はみな目が見えず、知ることがない。

彼らはみな口のきけない犬、ほえることもできない。あえいで、横になり、眠りをむさぼる。この貪欲な犬どもは、足ることを知らない。

彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分かってな道に向かい、ひとり残らず自分の利得に向かって行く。

「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」(イザヤ書56:9-12)

悪いリーダーとは、どのようなリーダーでしょうか。

彼らは、何が起こっているのかを見えていません。

周りの人々のニーズが見えず、さらには先に待ち受けるトラブルにも気づきません。そのため、トラブルが発生すると、驚き、どう対応すれば良いのか分からなくなります。

彼らには知識や知恵が欠けています。

何をしているのか分からないリーダーを見たことがあるかもしれません。また、知恵を使わずに行動することもあります。たとえ正しいことをしようと試みたとしても、リーダーシップに必要な知識と知恵を求めようとはしません。

その結果、彼らは繰り返し愚かな決断を下してしまいます。

トラブルが起きても、彼らは何も言いません。

トラブルが訪れても、彼らは警報を鳴らさず、その問題を解決するために何もしません。むしろ、彼らはその問題を無視し、「何とかなるだろう」と楽観的に考えます。しかし、結局それは現実離れした希望に過ぎません。

彼らは怠惰であり、自分自身のためだけに生きています。

彼らは周りの人々に仕えることなく、むしろ周りの人々が自分に仕えることを期待します。

他人のニーズには無関心であり、自分自身のニーズばかりを考えています。彼らは自分が満足している一方で、彼らの後輩たちは飢えています。

私たちのリーダーたちを批判するのは容易なことです。けれども、あなた自身はどうでしょうか。

あなたはどのようなリーダーですか?あなたの家族に対しては?あなたの子供に対しては?あなたの教会の人々に対しては?そして、あなたを見上げる人たちに対しては?

あなたは、自分が良いリーダーであると言えるでしょうか。神様は、あなたに何を語っておられるでしょうか。