この箇所をまとめる前に、もうひとつ触れておくべき点があります。
15節で、パウロはこう語っています。
女は、慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら、子を産むことによって救われます。(テモテへの手紙第一2:15)
ある聖書の解釈者はこう述べています。「この節は、聖書学者にとっても極めて解釈の難しい箇所です。」
私もその意見に深く同意します。では、パウロがここで語ろうとしたことは一体何だったのでしょうか。
もちろん、パウロが「女性は救われるために子どもを産まなければならない」と言ったとは考えられません。なぜなら、彼は他の手紙の中で、救いは信仰によって与えられると一貫して語っているからです。
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)
では、パウロが意味したこととは何でしょうか。
14節では、彼はこう語っています。
そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。
この言葉は、非常に厳しく響くかもしれません。「女性たち、すべての罪はエバのせいです。彼女のせいで、この世界は混乱に満ちているのです」――そんな印象を与えるかもしれません。
だからこそ、もしかするとパウロは、その厳しさを少し和らげようとしたのかもしれません。つまり彼は、女性たちに神様がエバに与えられた刑罰を思い起こさせているのです。それは、女性が苦しみを伴って子を産まなければならないという現実です。
パウロは女性たちにこう伝えています。出産の苦しみは、この世がエバの罪によってもたらされた痛みと呪いにあることを思い出させるものです。出産の痛みを通して、私たちはエバの罪と世界の嘆きを思い起こすのです。
けれども――あなたたちがイエス様とその十字架の御業を信じ、 神様に対する信仰、周囲の人々への愛、そして聖霊の力による聖い歩みに生きるならば、あなたたちは必ず救われるのです。
この解釈が正しいとすれば、「子を産むことによって」という日本語訳――特に「によって」という表現――は、あまり適切ではないかもしれません。別の訳し方として、「〜をくぐって」あるいは「〜を通って」という表現が考えられます。
たとえば、第一コリント3章15節で、パウロは同じギリシャ語の語を用いてこう記しています。
その人自身は火の中をくぐるようにして、助かります。
ですから、もしかするとパウロは、女性たちにこのように語っていたのかもしれません。「たとえあなたたちが、エバに与えられた呪いを受け、出産の苦しみをくぐり抜けるとしても、イエス様を信じて歩むなら、あなたたちは救われるのです。」
この希望について、パウロはローマ書の中でも語っています。
私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。
それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
私たちは、この望みとともに救われたのです。(ローマ書8:22-24)
とにかく、他にもさまざまな解釈はありますが、これが私の理解です。
さて、女性と教会のリーダーシップの話題に立ち返り、この内容をまとめたいと思います。
この問題について、私たちは慎重に思いを巡らせる必要があります。このテーマを議論している人々がそうしているように、このブログを読んでいる皆さんにも、ぜひ考えていただきたいのです。
仮にパウロの指示がエペソの教会に限定されたものであると考えるならば、次の点を考えてみてください。
1.文法的にやや解釈の幅がありますが、おそらくパウロは女性が誰に対しても教えてはいけないと言っているわけではありません。(このシリーズのパート1で、私がそう考える理由を説明しました。)
むしろ、パウロは女性が男性に対して教えることを禁じているのです。ですから、あの箇所を言い換えるならこうなります。「女が男を教えたり、男を支配したりすることを許しません。」
しかしもし、エペソ教会の問題が「女性たちが十分に教えられていなかったこと」だったとするなら、なぜパウロは「女性が誰に対しても教えたり、支配したりすることを禁じます」とは語らなかったのでしょうか。
なぜその指示は「男性に教えたり、支配したりすること」に限定されているのでしょうか。その女性の偽教師たちは、他の女性や子どもに対してなら教えたり支配したりしても構わない、ということでしょうか。
2.エペソの教会に女性の偽教師がいたという証拠は、どこにあるのでしょうか。パウロはどこで「女性の偽教師」について言及したのでしょうか。彼女たちの名前を挙げていたでしょうか。
一方で、エペソには男性の偽教師がいたことは確かです。なぜなら、パウロは彼らの名前を挙げているからです(第一テモテ1:19–20;第二テモテ2:16–17)。
もし女性の偽教師が重大な問題だったのなら、なぜパウロは彼女たちの名前を挙げなかったのでしょうか。
3.もしパウロが「十分に教えられていない者たちが教えたり、支配したりすること」を禁じたかったのだとすれば、なぜ彼は「女性の偽教師」だけに限定して語ったのでしょうか。
なぜ「偽教師たちが教えたり、支配したりすることを許しません」と言わなかったのでしょうか。
一方で、女性が主任牧師や長老になってはならないと考える人は、次の問いにも向き合うべきです。
1.なぜプリスカという女性は、夫と共にアポロを教えることが許されたのでしょうか(使徒の働き18:26)。
2.もし教会のリーダーは男性であるべきであり、かつ使徒が特別に偉大なリーダーであるとするなら、ユニアとはいったい誰だったのでしょうか(ローマ16:7)。
では、その箇所をどのように解釈すればよいのでしょうか。
「使徒たちはユニアをよく知っています。」
あるいは、「ユニアは使徒として知られています」と訳すべきかもしれません。
その原語の表現には、やや解釈の余地があります。しかし、もしユニアが使徒であったのなら、パウロの指示はエペソ教会に限定されると考えるのが自然でしょう。
ともかく、以前にも述べたとおり、聖書学者たちの間にはより詳細な議論があります。ですから、可能であれば、両方の立場に耳を傾けてみてください。そして、それぞれの議論を聖書と照らし合わせながら、自らの結論を導いてください。
ただし、私はもう一度強調したいのです。この問題によって、自分の教会を分裂させてはなりません。もしあなたが教会のリーダーたちの方針に納得できないのであれば、静かに別の教会に移ることを検討してください。