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サムエル記第一のデボーション

希望の灯台

そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。(サムエル記第一22:2)

今日、なぜ人々がダビデのもとに集まっていたのかを思い巡らしました。

実際、ダビデは彼ら以上に大きな問題を抱えていました。彼らにとって、ダビデと共にいることは、自分たちで暮らすよりも危険だったでしょう。

しかし、なぜかダビデは彼らに希望を湧かせました。

ダビデは確かに完全な指導者ではありませんでした。彼の嘘によって、85人の祭司とその家族がサウルに殺されました。

それでも、人々は自分たちにない希望と信仰をダビデに見ました。それによって、自分たちの内にも希望と信仰が湧いてきました。

私はそのような人になりたいと願っています。私の妻、娘、同僚、友人、そして周囲の人々すべてに希望と信仰を湧かせたいと願っています。

正直に言うと、今週、それほどよくできなかったと思います。 それでも、それが私の願いです。

天のお父さん、私が希望の灯台となるように。私を通して周囲の人々があなたに引き寄せられるように。

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士師記のデボーション

知恵にふさわしい柔和さ

あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和(別訳、謙虚)な行いを、立派な生き方によって示しなさい。(ヤコブ3:13)

今日の箇所を読んで、ヤコブ3章を連想しました。

先生やリーダーには、真の知恵は、その人の柔和な行為や言葉で現れます。

ギデオンはそんな柔和な態度をエフライムの人々に表しました。

でも、そのあと、ギデオンはそうしませんでした。

むしろ、ギデオンは自分(士師記8:4〜17)やその家族(18〜21節)を傷つけられたことに拘って、復讐を求めました。

それに、ギデオンは利己的な思いに駆られました(22〜32節)。

イスラエル人たちが「私たちの王になってください」と願ったとき、ギデオンは断ったけれど、すぐにその時代の王のようにふるまって、イスラエル人の金を受け、金持ちになって、たくさんの妻を持ちました。

さらに、ギデオンは「神様は私たちの王です。私たちは神様に仕えるべきです」と敬虔に言ったのに、彼は自分のために祭司のエポデを作って(出エジプト記28:3〜8)、勝手に礼拝する場所を立て、祭司のように振る舞ったようです。

その結果、イスラエル人たちは神様に背を向けてしまいました(27節)。

ヤコブの言葉を借りれば、そのような知恵は、「上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです」(ヤコブ3:15)。

ギデオンは、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させる泉のようでした。彼の言葉や行為が甘い水のような時もありましたが、苦い水のような時もありました(ヤコブ3:11)。

私たちがそんなリーダーにならないように。私たちが自分の家族のリーダーとして、職場のリーダーとして、教会のリーダーとして、どんなリーダーシップの立場を持っていても、私たちは知恵から産み出す柔和な言葉や行いで特徴づけられるように。

その知恵はどのようなものでしょうか。

しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。

義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。(ヤコブ3:17ー18)

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テモテへの手紙第ー

女性たちと教会のリーダーシップ(2)

前回の記事では、教会における女性たちのリーダーシップに関するパウロの教えについて取り上げました。その中で、パウロはこう語っています。

私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。(テモテへの手紙第一2:12)

前回の記事でお伝えしたように、ある解釈者たちは、パウロの指示がエペソにいた女性たちに限定されていると考えています。

しかし一方で、他の解釈者たちは、パウロの指示はすべての教会に適用されるべきだと主張しています。

では、その立場の根拠は何でしょうか。

まず1つ目の根拠は、第3章の記述です。パウロが教会の監督(現代における主任牧師や長老)について語る際、その任務を男性に限定しているように見える、という点です。

そこには、女性がその働きに加わる可能性についての示唆は見られません。実際、パウロは「監督の妻たち」については言及しますが、「監督の夫たち」には一切触れていません(比較対象としては、5章9節を参照してください)。

さらに、この立場の解釈者たちは、第13〜14節にも注目します。

アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。(13-14)

この議論の中心は、神様がアダムとエバを同時に造られなかった、という点にあります。神様はまずアダムを造り、次にエバを造られました。つまり、アダムが家庭におけるリーダーとして召されていたことを示しているのです。

そして、神様はアダムが使命を果たすことができるように、彼にエバを「助け手」として与えてくださったのです(創世記2:18)。

第一コリント11章3節、および7〜10節では、パウロがそのような創造の秩序について教えています。

また、パウロは夫婦関係について語る際、夫にリーダーシップを委ねられていることを明確にしています(エペソ5章参照)。

もちろん、ある意味で夫婦は互いに従い合うべきですが、パウロによれば、妻は主に従うように、夫にも従うべきだと語られています。なお、彼はそのような従順の命令を夫側には与えていません。

そのため、この立場の解釈者たちは、家庭における男性のリーダーシップの原則を、教会におけるリーダーシップにも当てはめます。彼らによれば、夫が自分の家族を導くように、男性は神の家族である教会を導くべきだというのです。

また、彼らは13〜14節におけるパウロの要点として、アダムがエバを正しく導かなかったことにより、エバが惑わされて罪を犯し、その影響でアダム自身も罪に陥った、という理解を提示します。

この立場についてさらに詳しく論じることもできますが、ここではこれが彼らの中心的な議論であると押さえておきましょう。

では、なぜクリスチャンたちはこのパッセージの意味についてこれほど議論するのでしょうか。

それは、パウロがアダムとエバの物語を引用するときに、彼の意図をテモテが当然理解しているものとして語っているからです。

パウロは次のようなことは語っていません。

「エバはアダムから十分に教えられていませんでした。だから彼女は罪を犯してしまったのです。同じように、エペソの女性たちもまだ十分に教えられていないので、しばらくの間、彼女たちが教えたり、男性を導いたりすることは許可しません。」

一方で、パウロはこうも語っていません。「アダムにはリーダーシップの務めがありました。したがって、彼は教会のリーダーシップの模範です。ゆえに、男性たちは教会を導くべきなのです。」

このように、もしこの問題についての議論が教会の一致を脅かすと判断したならば、私はその議論を続けることを避けます。この問題においては、私は教会の方針に従います。

明日、このテーマについての結論をまとめる予定です。

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マタイの福音書 マタイ23章 マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ20章

リーダーシップに関する間違った考え方

リーダーシップとは何でしょうか。

イエス様は、パリサイ人たちと律法の専門家を厳しく批判された時、本当のリーダーシップを定義されました。

まず、イエス様は弟子たちと群衆に警告されました。

律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。

しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで事項しないからです。(マタイ23:1-2)

この箇所で、イエス様が彼らに教えられたのは、そのリーダーたちの権威ある立場を尊重する必要があるけれど、彼らの行動を模倣してはならないということです。なぜなら、彼らの言葉と行動が一致していなかったからです。

もちろん、彼らは律法の細かなルールや、さまざまな宗教的な伝統を守っていました。けれども、最も重要なこと、つまり正義、憐れみ、そして誠実を忘れていたのです。

その態度は、神様や周囲の人々に対する彼らの姿勢に悪影響を与えてしまいました。

さらに、その態度は彼らのリーダーシップに関する考え方にも影響を与えました。彼らは人々に仕えるのではなく、命令したいという考えを持っていました。

イエス様は彼らについてこう言われました。

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイ23:4)

彼らは多くの律法やルールを人々に課しました。けれども、その人々がそのルールを守れず、罪悪感の重さで苦しみ始めると、パリサイ人たちや律法学者たちは彼らを励ますことも、彼らのために祈ることもせず、助けるどころかむしろ彼らを責めました。

さらに、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の立場を誇示していました。

彼らの聖句を入れる小箱は大きく、衣の房(その房にも神様の言葉が書かれていました)は長く、周りの人々は彼らを見た時に本当に感心しました。「その人は本当に霊的な人だ」と思ったのです。

また、彼らはお金を儲けるために自分の立場を利用しました。イエス様は「彼らはやもめたちの家を食い尽くします」と言われました。おそらくそれは、パリサイ人たちがやもめの歓心を買い、彼女たちのお金を搾取したということを意味しているのでしょう。

さらに、彼らは周りの人々に「先生」や「父」と呼ばれることを好みました。なぜなら、それは彼らの高い立場を示す印だったからです。

しかし、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。

あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。

また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。(マタイ23:8-10)

リーダーたちはそのことを心に留めていなければなりません。肩書を持つこと自体は良いことですが、実際には私たち全員が対等なのです。神様だけが私たちに対して優れた方です。

それでも、神様はしもべとしてこの世に来られました。イエス様は病気の人々を癒し、困難にある人々に良い知らせを伝え、十字架で私たちの罪のための罰を受けて下さいました。リーダーたちはそのような態度を取るべきです。

だからこそ、イエス様はこう言われました。

あなたがたのうちで、一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(マタイ23:11-12)

本当のリーダーたちはしもべです。彼らは敬意、栄誉、またはお金を求めるのではなく、周りの人々に仕えるために全てをささげます。

さて、あなたはどのようなリーダーなのでしょうか。

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サムエル記第二

リーダーがしっかりとリードしないと

イシュ・ボシェテの王位はあまり長く続きませんでした。彼の民はイシュ・ボシェテを殺し、その首をダビデに持参しました。

当然、ダビデは怒り、その人々を殺しました。(けれども、これを読むと、私はこう思います。「ダビデは、この人々を殺人の罪で即座に殺したのに、なぜヨアブを同じ罪で罰しなかったのだろうか。」)

とにかく、この箇所を読むと、一節が特に印象に残ります。

サウルの子イシュ・ボシェテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、気力を失った。イスラエル人もみな、うろたえた。(サムエル記第二4:1)

多分、イシュ・ボシェテの民が彼を殺した理由は、彼が弱いリーダーだったからです。彼はアブネルにあまりにも依存していたため、アブネルが死んだ後、イシュ・ボシェテは希望を失いました。

問題は、リーダーがしっかりとリードしないと、彼の民に悪影響を与えてしまうことです。イシュ・ボシェテの恐れが彼の民の恐れとなったのです。

あなたはどのようなリーダーでしょうか。

「私はリーダーじゃない」と思うかもしれません。

けれども、もしあなたに子供がいるなら、あなたは子供のリーダーです。先生や日曜学校の先生なら、生徒のリーダーです。もし誰かのロールモデルであるなら、あなたはその人のリーダーです。

そして、困難な時、彼らはあなたの指示を求めます。

その時、あなたはどうしますか。あなたは他の人々に頼るでしょうか。他の人々の力に頼るでしょうか。

もちろん、そのような人々がいることは良いことです。しかし、もし彼らがいなかったら、あなたはパニックに陥るでしょうか。

それとも神様を仰ぎ、知恵と助けを求めて祈るでしょうか。

私たちは、神様に頼るリーダーにならなければなりません。そうでなければ、イシュ・ボシェテのようにパニックに陥り、私たちに従う人々も同じ状況に陥ってしまいます。

そして結局、私たち自身にも、また私たちに従う人々にも、すべてが悪い結果となるでしょう。

あなたは、どのようなリーダーでしょうか。

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サムエル記第一

悪いリーダーシップ

私たちはサムエルの生き方を通して、良いリーダーの姿をはっきりと知ることができました。

残念なことに、サウルについては同じことが言えません。悪いリーダーがどのようなものかを知りたいなら、サウルの行動を見ればよく分かります。

では、どうしてサウルは悪いリーダーだったのでしょうか。

1.神様の知恵に頼らず、自分の知恵に頼りました。

ペリシテ人が少し混乱している時、サウルは祭司を通して神様の言葉を求めました。

けれども、ペリシテ人たちがさらに混乱して本当にパニック状態になると、サウルは祭司に「もういい」と言い、主を求めるのをやめ、ペリシテ人を攻撃しました。

結果として、サウルは自分の知恵に頼ったことで、すぐに大きな失敗をしてしまいました。

2.サウルは無謀な決断をしました。

最初の戦いの間に、彼はこう言いました。

夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる (サムエル記第一14:24)

その結果、イスラエル人たちはすぐに疲れ果ててしまいました。確かに大勝利ではありましたが、もしサウルがそのような誓いをしていなければ、さらに大きな勝利を収められたことでしょう。

さらに、イスラエル人は空腹に耐えきれず、血の入っている肉を食べ始めてしまいました。しかし、それは罪でした。なぜなら、神様が「血の入っている肉を食べてはならない」と明確に命じておられたからです。

このようにして、サウルの行動が原因で、イスラエル人は罪を犯すことになりました。

その後、サウルはもう一度ペリシテ人と戦おうとしましたが、神様に相談するのを忘れていました。そのため、祭司がサウルに「神様を求めたほうがいいですよ」と思い出させました。(サウルは再び自分の知恵に頼ろうとしていたのです)。

そして、ようやく神様に相談したところ、神様は沈黙されていました。その時、サウルはこう言いました。

民のかしらたちはみな、ここに寄って来なさい。きょう、どうしてこのような罪が起こったかを確かめてみなさい。

まことに、イスラエルを救う主は生きておられる。たとい、それが私の子ヨナタンであっても、彼は必ず死ななければならない。(38-39節)

結局、サウルはヨナタンの行動が原因で神様が沈黙されたことに気づきました。(なぜなら、ヨナタンはサウルの不合理な誓いを守らなかったからです。)

その結果、サウルはヨナタンを殺そうとしましたが、他のイスラエル人たちがそれを止めました。

3.サウルは神様と他の人々よりも、自分自身に仕えました。

サウルがその不合理な誓いを立てた理由は、彼の自己中心的な態度によるものでした。彼は民の利益よりも自分の復讐心だけを優先しました。

そのため、すべてが混乱し、台無しになってしまったのです。

4.サウルの最大の問題はプライドでした。

最初、サウルは謙遜な人であり、国を治める自信すらありませんでした。もし彼がその謙遜な態度を保ち続け、神様の知恵を求め続けていたならば、彼の王国はもっと長く続いていたかもしれません。

ところが、彼は自分の知恵に頼り、自分自身をイスラエルの民よりも優先し、間違いを犯しても頑固にその道を貫きました。その結果として、彼の王国は失われてしまいました。

あなたはどうでしょうか。あなたは自分のプライドに支配されているリーダーでしょうか。それとも、神様の知恵に支配されているリーダーでしょうか。

ヤコブは次のように書いています。

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

ですから、神に従いなさい。。。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4:6-7;10)