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コロサイ人への手紙のデボーション

イエス様にしっかり結びつく

かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。(コロサイ人への手紙2:19)

「かしらにしっかり結びつくことをしません。」

私はそのことばに心を打たれました。

私はイエス様にしっかりと結びついていたいと願います。

しかし、私は、イエス様に受け入れていただくために、単にルールを守ろうとしているわけではありません。(20~23節)

私はすでに受け入れられています。十字架によって、私の債務証書は無効にされました。(14節)

むしろ、イエス様と結びつくために、私は三つのことを自分に思い起こさせています。それは、

  • イエス様は良いお方です。
  • イエス様はすでに私を愛し、受け入れてくださっています。
  • イエス様は私の最善をご存じで、それを望んでおられます。

だから私は毎日毎日、一瞬一瞬、感謝を込めて、私の主を信頼し、従う道を選び取ります。

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。(コロサイ人へ手紙2:6-7)

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ガラテヤ人への手紙

信仰によって歩み続ける

クリスチャンになった後、「良いクリスチャン」になるためにキリスト教のルールに従わなければならないと思う人は少なくありません。

なぜなら、私たちの社会では、学校のクラブ、会社、家族など、どこでも従うべきルールや果たすべき義務があるからです。

そのため、クリスチャンになると、多くの人はこう考えます。

「ルールは何だろうか。クリスチャンとして、私は何をしなければならないのか。毎日、聖書を読まなければいけないのか。毎日、何分(何時間?)ぐらい祈らなければならないのか。教会で、どのように仕えるべきなのか。」

そして、そのルールに従わないと、罪悪感を抱き始めます。自分が「悪いクリスチャン」だと思うからです。

さらに、周囲のクリスチャンたちは、新しく信仰を持った人にさまざまなルールを教え始めます。

「本当のクリスチャンはお酒を飲みません。本当のクリスチャンは決して教会を休みません。本当のクリスチャンは什一献金をささげなければなりません。」

ガラテヤの教会では、このような問題が発生しました。ユダヤ人クリスチャンたちは、ガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。

「もちろん、クリスチャンになるための最初のステップはイエス様を信じることです。しかし、その後、割礼を受けなければなりません。また、豚肉やその他の『汚れた食べ物』を食べてはいけません。安息日を正しく守ることも忘れてはいけません。」

彼らがまるで権威を持っているかのように話したため、ガラテヤ人たちは彼らを信じました。その結果、パウロは困惑し、叫びました。

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。(ガラテヤ人への手紙3:1)

そして、パウロは彼らに尋ねました。

これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(2)

また、

あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。(5)

その明らかな答えは、ガラテヤ人たちが聖霊様の賜物や神様からのその他の祝福を、神様の律法への従順によってではなく、むしろ彼らが聞いた福音を信じることによって受けたということです。

だから、パウロは彼らに尋ねました。

あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。(3)

要するに、私たちのクリスチャン生活は信仰によって始まり、それが単なるルールの遵守に変わるわけではありません。むしろ、私たちは毎日、信仰によって生き続けます。また、私たちのクリスチャン生活は恵みによって始まり、恵みによって続くものです。

私たちのクリスチャン生活は、単に神様のルールに従うことではありません。私たちの焦点は神様のルールの遵守ではないのです。

むしろ、私たちは毎日イエス様に目を向けなければなりません。私たちは毎日イエス様と共に歩み、その声を聞き、イエス様を信じ、イエス様が語られることに従います。

そして、私たちがイエス様を信じ、信仰によって踏み出すと、イエス様はご自身の言葉に従う力を私たちに与えてくださいます。それがクリスチャンの生活です。もう一度、私は言います。クリスチャンの生活は単なるルールの遵守ではありません。

あなたはどのようにクリスチャンの生活を送っているでしょうか。あなたの焦点は、努力してさまざまなルールを守ることですか。

そのような生活を送ろうとするなら、結局罪悪感に陥ることになります。なぜなら、それらのルールを完全に守ることができないからです。

だからこそ、イエス様に焦点を向けましょう。イエス様に近づくこと、イエス様の声を聞くこと、イエス様の導きに従うことを学びましょう。それが信仰によって生きる人生です。それこそがクリスチャンの生活です。

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マタイの福音書 マタイ12章 マルコの福音書 マルコ2章 ルカの福音書 ルカ6章

罪のない者たちを罪に定めはする?

以前の記事では、私たちは宗教的なリーダーたちが、イエス様が安息日を破ったと責めたことを見ました。しかし実際には、イエス様は神様の安息日に関する律法を破ったわけではありません。イエス様が破ったのは、彼らが作った余計なルールでした。

この箇所でも、イエス様は宗教的なリーダーたちと安息日について議論されます。イエス様とその弟子たちが麦畑を通っていた時、弟子たちはお腹が空いたため、穂を摘んで食べ始めました。

(その時代、それは合法的な行為でした。申命記23:25に記されています。)

けれども、パリサイ人の目には、穂を摘む行為は仕事と見なされました。そして、律法では安息日に仕事をしてはならないとされていました。

それに対して、イエス様は二つの理由を挙げてその考え方を否定されました。

一つ目は、祭司たちが安息日に働いていても、それが罪とは見なされなかったことです。

二つ目は、ある律法はほかの律法よりも優先されるべきだということです。つまり、命を守ることは安息日の律法よりも重要だということです。この点については、パリサイ人もある程度同意していました。

例えば、誰かが死にかけている場合、お医者さんはその人が次の日まで生き延びられるように治療を行い、その後、その人を完全に治療しました。

そして、もう一度、イエス様は預言者ホセアの言葉を引用されます。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7)

多くの人々は、神様の目にはルールを守ることが最も重要なことであると思っています。そして、彼らは神様が私たちを罰する機会を待っていると考えています。

けれども、実際には神様はルールを守ることよりも、人々自身を大切にされます。

パリサイ人はこのことを理解しておらず、神様の律法を守るために、たくさんの余計なルールを作り出しました。そして、その余計なルールを守らない人を見ると、パリサイ人はその人を責めました。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。

安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。(マルコ2:27)

神様が立てられたルールはすべて正しいものです。それらのルールは、私たちの利益のために存在しています。

私たちはそのルールのために造られたのではありません。神様は、私たちを支配するためではなく、私たちを祝福するためにそのルールを作られました。

その原則を理解すれば、ルールの目的を正しく把握し、それを私たちの人生に適切に当てはめることができます。

、その原則を理解しなければ、パリサイ人のようにルールの本質が分からず、間違った方法で当てはめてしまうでしょう。それだけでなく、私たちは神様の目に無実の人を責めることになりかねません。

あなたはどうでしょうか。神様のルールをどのように考えているでしょうか。それらを余計なルールだと思っているでしょうか。

あるいは、それらのルールがあなたの利益のためだと理解しているでしょうか。そして、そのルールの背後にある理由を正しく理解しているでしょうか。

そのように理解すれば、無実の人を責めることはなくなるでしょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ5章

ルールに目がくらむこと

ルールは良いものです。カオスの状態では、ルールによって秩序が確立されます。そういうわけで、学校の教室でも、家庭でも、社会でも、ルールは大切なものです。

とはいえ、人々がルールの目的を忘れると、ルールは害となることがあります。私たちがルールの精神を思い出さない限り、非常に困難な状況に陥る可能性があります。

さらに、ある人々はルールを守るために、余計なルールを作り出します。例えば、パウロはこう言いました。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)

そこだけではなく、聖書のさまざまな箇所で、酔ってはいけないという警告がたくさんあります。どうしてでしょうか。

酔うと、自分自身をコントロールできなくなるからです。それに、神様ではなく、お酒があなたの行動をコントロールするようになります。

けれども、ある人々は余計なルールを作ります。「全くお酒を飲んではいけません。あなたが飲むと酔う可能性があるから。」

そのルール自体は悪いわけではありません。そのため、私はお酒を飲みません。(その上、その味が嫌いなのです。)

ですが、他の人々がその余計なルールを守らないからといって、彼らを批判してはいけません。

パリサイ人たちはそのようなことをしていました。神様はこう命じられました。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エジプト記20:28)

つまり、その日に働いてはいけません。

その律法の精神は何でしたか。

一つ目は、人々が神様に焦点を当てる時間を取ることです。

二つ目は、神様を信頼することです。つまり、毎日働かずに、一週間に一日休んでも、神様があなたの必要を満たしてくださるのを信じるのです。

三つ目は、彼らがリラックスすることです。神様は彼らを愛しておられるので、時々休んでほしいと思われました。

それらがその律法の精神でした。しかし、パリサイ人と律法学者たちは、その律法のためにさまざまな余計なルールを作りました。例えば、どれくらい旅ができるかとか、何キロのものなら運んでもいいというルールを作りました。

医者に対しても、安息日に関するルールがありました。安息日に、誰かが死にかけている場合だけ、医者がその人を助けることができました。その場合でも、その人が次の日まで生き延びられるようにするだけでした。

ところが、そのルールのせいで、彼らはその律法の精神を忘れてしまいました。彼らは人々に神様が望んでいなかった重荷を負わせました。

さらに、誰かが神様が立てていないルールを破った場合、その人を批判しました。

その上、そのルールのせいで、彼らは神様がなさっていることに目を向けられなくなりました。

この箇所では、そのことを見ることができます。

彼らは、安息日に床を取り上げている人を見ました。(彼は安息日に荷物を運ぶルールを破りました。なぜなら、それは「仕事」でした。)

パリサイ人たちは言いました。「お前は働いているよ。なぜ安息日に働いているのか。」

「私をいやしてくれた人は『床を取り上げて歩け』と言ったからです。」

つまり、「もしその人に私をいやす力があれば、私に『床を取り上げなさい』と言う権利もあるでしょう。」

この箇所では、注意事項が二つあります。

一つ目は、その人が病気にかかっていた間に、パリサイ人たちは彼のことに全然気づいていなかったということです。けれども、彼が彼らのルールを破った時に、初めて彼に気づきました。

私たちは、どれくらいそのようにふるまうでしょうか。私たちの周りに霊的な必要がある人がいるのに、彼らが私たちのルールを破る時以外には彼らを無視します。

二つ目は、その奇跡にやっと気づいた時、彼らはルールに集中しすぎたせいで、神様がその人のために何をしてくださったかに感謝することができませんでした。

そのため、彼らはそのルールを破った人が誰かという疑問に集中し、イエス様だと分かった時、イエス様を迫害しました。

これがルールに集中しすぎることの危険性です。私たちの周りの人々のニーズが見えなくなり、神様が何をなさっているかを認識できなくなります。

あなたはどうでしょうか。あなたはルールに目がくらんでいますか。