今日、私はこの箇所を締めくくろうと思いますが、44節と46節の「一つになって」と「心を一つにして」という言葉は、私の心を打ちました。
この言葉は、42節と関係があると思います。つまり、クリスチャンたちは交わりに専念していました。
彼らは他のクリスチャンとの関係を大切にしていたので、積極的に共に時間を過ごそうと努めました。けれども、ただ宮に集まっただけではなく、彼らは自分の家にも集まりました。そして、週に一度ではなく、毎日集まりました。
さらに、彼らは本当に互いに愛し合いました。だから、貧しい兄弟姉妹を常に助けました。
そして、彼らは心を一つにしました。
では、彼らは決して喧嘩しなかったのでしょうか。それは違うと思います。
彼らはいつも意見が一致していたのでしょうか。おそらく、そうではなかったでしょう。
けれども、最終的に彼らは、相手の違いを受け入れ、兄弟姉妹として見なすことができました。彼らは互いに必要であると認め、さらにその関係に専念しました。
クリスチャンが新しい夫婦にアドバイスを与えるとき、しばしばこう言います。
「困難な時にも、この関係を守ろうと努めなさい。相手に対するコミットメントはとても大切です。だから、喧嘩するときも、傷つけられるときも、努力してその関係を守りなさい。」
もちろん、その通りです。
しかし、どれほど多くのクリスチャンが他のクリスチャンと喧嘩し、その関係を捨ててしまうでしょうか。
神様は私たちにこう言われます。
「兄弟姉妹との関係を守りなさい。私はあなたにそのようなコミットメントを望んでいます。」
それにもかかわらず、私たちはこのことをほとんど考えようとしません。辛いときも、喧嘩するときも、傷ついたときも、神様は私たちに忠実なコミットメントを求めておられます。
結婚と同じように、クリスチャンの交わりにはコミットメントが必要です。そして、苦労も伴います。けれども、そのコミットメントを持てば、素晴らしい報いがあります。
そのようなコミットメントがあれば、私たちは祝福されます。さらに、この世の人々は、私たちの互いの愛を見て、イエス様に惹かれるでしょう。使徒の時代にも、そのようなことが起こりました。
神様の民の愛と一致、そして彼らの間で働かれる神様の力によって、教会は成長しました。ルカはこう記しています。
主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(使徒の働き2:47)
確かに、教会の中にはさまざまな問題があります。教会が人間によって成り立っている限り、問題があるのは当然です。
なぜなら、イエス様は完全な人々のために来られたのではなく、霊的に病んでいる人々のために、また、傷ついた人々のために来られたからです。
牧師や他のリーダーたちが失敗することもあります。教会では、人が人を傷つけることもあるでしょう。
それでも、その関係にコミットメントを持ち続けますか。あなたのプライドを脇へ置き、困難の中でも人間関係の問題に向き合うでしょうか。イエス様のためにそうしませんか。
主の言葉を心に留めておきましょう。
私はあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34-35)
