聖書に章と節があることは、ある意味では大きな助けです。そのおかげで、特定の聖書箇所をすばやく見つけることができます。
しかし一方で、章と節の番号が、著者の議論の流れを妨げてしまうこともあります。その番号のせいで、私たちは著者が新しい話題に移ったと勘違いしてしまうことがあるのです。
今日の箇所でも、そのような誤解が起こりうるかもしれません。
この記事を書き始めたとき、私は当初、2:12〜18の内容だけを取り上げようと考えていました。けれども、途中で気づいたのです。それだけを取り出して扱ってはいけない、と。
なぜなら、パウロはここでも前のテーマを続けて語っているからです。 つまり、私たちが「福音にふさわしく生活する」ということです。
そのときパウロが強調しているのは、私たちが「一致を保つこと」を通して、福音にふさわしく生きるということです。そして、その一致を保つために、私たちはイエス様の模範に従うべきなのです。
イエス様は、私たちを救うために、この世においてご自身の願いや必要を脇に置き、十字架の上でご自身の命をささげてくださいました。
そしてその真理を語ったあと、パウロはこう語ります。
こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。(ピリピ人への手紙2:12-13)
多くの場合、私たちはこの言葉を読むとき、自分自身に当てはめて考えます。「私はそうするべきだ」と受け取るわけです。
けれども、パウロが語っているのは、教会という家族に対してです。
「あなたがたは、恐れおののきつつ、自分の救いを達成するよう努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに志を立たせ、事を行わせてくださる方です。」
要するに、イエス様のいけにえによって、天の父は「あなたがた」に救いを与えてくださいました。だから、その救いを生かしましょう。神様は、今もあなたがたのうちに働いておられます。 神様は、御心にかなう志をあなたがたに与えてくださったのです。
それゆえに、教会として、あなたがたは神様の目的を果たすように歩むべきなのです。
けれども、もし私たちが絶えず争っているとすれば、その目的を全うすることはできません。
だからこそ、パウロは私たちにこう語るのです。
すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。
そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよすべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。
そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(2:14-16)
教会の人々が互いに争っている姿を見れば、世の人々はこう思うかもしれません。「結局、クリスチャンも私たちと何も変わらない。」
けれども、もし彼らが、互いに愛し合い、仕え合う教会の姿を目にしたとき、また、不平を言わず、疑わずに喜んで歩んでいる人々を見たとき——そこに、輝く光があるのです。
すると、その人は心の中でこう思い始めます。「なぜ、クリスチャンは私とあんなにも違っているのだろう。私もあのような人になりたい。」
だからこそ、パウロはピリピの人々にこう語りました。「私の願いは、あなたがたが光として輝くことです。あなたがたがそのように歩むなら、私はキリストの御前に立つとき、喜びと誇りをもって、あなたがたが何者となったかを指し示すことができるのです。」
そしてパウロは、この箇所の締めくくりとして、彼らへの深い愛を語ります。
たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。(17)
要するに、パウロはこう語っているのです。
「あなたがたに仕えることは、私にとって重荷ではありません。 むしろ、あなたがたと同じように、私も自分の救いを達成するように努めているのです。そして、神があなたがたのうちに働いておられる姿を見るとき、私は心から喜びます。
ですから、福音のために私が牢に入っていることを悲しまないでください。むしろ、私と共に喜んでください。私たちが共に働き、喜び合うとき、この世界は私たちのうちにある光を見ることになるのです。」
あなたはどうでしょうか。これが、あなたの態度になっているでしょうか。神様があなたの中だけでなく、周りの兄弟姉妹の中でも確かに働いておられることを、あなたは見ているでしょうか。
あなたがたが協力し、一致をもって歩んでいる中で、神様がご自身の目的を果たしておられるのを見ているでしょうか。
あなたがたが共に光を輝かせているゆえに、人々はその良い行ないを目にし、天の父をあがめているでしょうか。
それとも、彼らがあなたがたを見るとき、常に争っている人々の姿を見ているのでしょうか。
私たち皆が、教会として、恐れおののきながら自分の救いを達成するよう努める者となりますように。そして、私たちを通して、周囲の人々が――彼らを愛し、彼らのためにご自身の命をささげられた主を知ることができますように。