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ピリピ人への手紙

教会の一致を保つ(2)

パウロの議論の流れを読み取るのは、時に簡単ではありません。たとえば、第3節と第4節は、まったく異なる話題なのでしょうか?

あるいは、第3〜5節はひとつの流れの中にあるのでしょうか?

もしかすると、第3〜9節全体が繋がっているのかもしれません。

私にははっきりとはわかりませんが、おそらくパウロは、第4〜5節を書いたときも、まだユウオディアとシンティケのことを心に留めていたのではないかと思います。

そしてパウロは、こう語りました

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。(ピリピ人への手紙4:4-5)

要するに、こういうことです──

「神様に焦点を当てなさい。これまであなたがたは自分自身に焦点を当ててきたために、プライドを捨てられず、この争いを解決することができなかったのです。だから、今こそ改めて神様に焦点を当てなさい。

イエス様があなたのために何をしてくださったかを思い起こしなさい。イエス様の十字架の御業を、もう一度、喜びなさい。

そして、イエス様の御業のゆえに、相手に対するあなたの態度を変えなさい。あなたがたの関係の中で、あなたがたの寛容が教会のすべての人に知られるようにしなさい。」

そしてパウロは、こう語ります。「主は近いのです。」

私たちは兄弟姉妹と争っているときこそ、この真理を思い起こすべきです──「主は近いのです。」

では、それはどういう意味なのでしょうか。

1.イエス様は、教会のただ中におられます。だから、私たちが争っている姿をご覧になると、イエス様は悲しまれます。神様との平和をもたらすために、そして兄弟姉妹との平和をもたらすために、イエス様はご自身のいのちを十字架に捧げられたのです。

であれば、どうして私たちは、イエス様の御前で争い続けるのでしょうか。

2.イエス様は、やがて再び来られます。イエス様はこの世に戻られ、私たちを新しい天と新しい地へと導かれます。けれども、もしイエス様が今日来られたとしたら、あなたに何を語られるでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ」とおっしゃるでしょうか。

あるいは、こう語られるかもしれません。

「なぜ、兄弟と争い、時間を無駄にしていたのですか。なぜ、姉妹と争い、心を苦くしていたのですか。私はあなたに多くの働きを任せましたが、あなたの怒りと苦々しさは、あなたの人間関係をふさぎ、この世に仕える妨げとなってしまいました。」

私たちが主の御前に立つとき、プライドと争いによって、どれほど恥じることがあるでしょうか。

主は近いのです。だから、私たちの関係において、平和を保ち、一致のために励みましょう。

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ピリピ人への手紙

教会の一致を保つ

パウロはこの手紙を書いていたとき、ユウオディアとシンティケの対立について、どれほど心を痛めていたことでしょうか。

彼女たちはかつて、パウロと共に福音のために働いた者たちであり、彼にとって愛する、かけがえのない姉妹でした。

しかし、この手紙を書いたとき、その二人の女性たちは争っていました。なぜ彼女たちが争っていたのか、私たちは知りません。

けれども、パウロは「ユウオディア、あなたが悪い。謝りなさい」とは言わず、「シンティケ、あなたが悪い。謝りなさい」とも言いませんでした。

むしろ、パウロはこう語りました。

ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。(ピリピ人への手紙4:2)

この手紙を通して一貫して語られている主題の一つは、教会の一致です。だからこそ、パウロはピリピの人々にこう語りました。

「あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにして、ともに戦っていなさい。」(1:27)

そしてパウロは、さらにこう語ります。

あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。。。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(2:2、5)

また、

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。(2:14-16)

そして、第3章では、パウロは彼らにこう語りました。「自分の立場や実績に対するプライドを捨てて、イエス様に心を向けなさい。イエス様を知ることを、あなたの目当てとしなさい。あなたがたは御国の市民なのだから、そのように生きなさい。」

このように多くのことを語った上で、パウロはユウオディアとシンティケにこう勧めました。

「あなたがたのプライドを捨てなさい。争いを手放しなさい。互いに受け入れ合いなさい。そして、もう一度、福音のために力を合わせて仕えなさい。」

もしパウロが今日のクリスチャンたちを見たとしたら、私たちにもきっと同じ言葉を語ったのではないでしょうか。

今もなお、多くのクリスチャンたちは主を愛し、イエス様に仕えたいと願っていながら、自分のプライドのゆえに、他のクリスチャンたちと争っています。

私もパウロの痛みに共感します。なぜなら、私自身も教会の中で、そうした分裂を目の当たりにしてきたからです。

このような問題を見たとき、私たちはただ黙って見過ごし、状況が悪化するのを許すことはできません。パウロはこう語りました

そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。(4:3)

その「真の協力者」がだれだったか分かりませんけど、パウロはその人に言いました。「この二人の姉妹たちが和解するように助けてください。どうか、何とかしてください。」

でも、和解をもたらさずに、多くのクリスチャンたちは、二つに分かれてしまいます。または、あるクリスチャンたちはそのことについて噂を広めます。でも、教会の一致を保ちたいと思うなら、そんなことをしてはいけません。

むしろ、パウロは私たちにこう言います。

平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:3)

あなたは、そのように歩んでいるでしょうか。

それとも、自分のプライドのせいで、相手と和解することを拒んでいるでしょうか。たとえ相手があなたを傷つけたとしても、あるいはあなたが相手を傷つけたとしても、できる限り和解を目指すべきです。

兄弟姉妹が争っているとき、あなたは平和をもたらそうとしているでしょうか。それとも、片方の味方についてしまっているでしょうか。

あいにく、多くの人は争いを解決しようとしません。むしろ、争いを放置した結果、やがてそれが爆発し、当事者の一人、あるいは両者ともが教会を離れてしまうのです。しかし、そのような結果が、イエス様に栄誉を帰すものでしょうか。

教会はイエス様に栄光を現し、この世にイエス様がどのようなお方であるかを示すべき存在です。けれども、教会の中に亀裂があれば、私たちはその使命を果たすことができません。

あなたは、教会に生じたその亀裂の一つとなっているでしょうか。それとも、もしかしたら、その亀裂を修復する者なのでしょうか。

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ピリピ人への手紙

光として輝く

聖書に章と節があることは、ある意味では大きな助けです。そのおかげで、特定の聖書箇所をすばやく見つけることができます。

しかし一方で、章と節の番号が、著者の議論の流れを妨げてしまうこともあります。その番号のせいで、私たちは著者が新しい話題に移ったと勘違いしてしまうことがあるのです。

今日の箇所でも、そのような誤解が起こりうるかもしれません。

この記事を書き始めたとき、私は当初、2:12〜18の内容だけを取り上げようと考えていました。けれども、途中で気づいたのです。それだけを取り出して扱ってはいけない、と。

なぜなら、パウロはここでも前のテーマを続けて語っているからです。 つまり、私たちが「福音にふさわしく生活する」ということです。

そのときパウロが強調しているのは、私たちが「一致を保つこと」を通して、福音にふさわしく生きるということです。そして、その一致を保つために、私たちはイエス様の模範に従うべきなのです。

イエス様は、私たちを救うために、この世においてご自身の願いや必要を脇に置き、十字架の上でご自身の命をささげてくださいました。

そしてその真理を語ったあと、パウロはこう語ります。

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。(ピリピ人への手紙2:12-13)

多くの場合、私たちはこの言葉を読むとき、自分自身に当てはめて考えます。「私はそうするべきだ」と受け取るわけです。

けれども、パウロが語っているのは、教会という家族に対してです。

「あなたがたは、恐れおののきつつ、自分の救いを達成するよう努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに志を立たせ、事を行わせてくださる方です。」

要するに、イエス様のいけにえによって、天の父は「あなたがた」に救いを与えてくださいました。だから、その救いを生かしましょう。神様は、今もあなたがたのうちに働いておられます。 神様は、御心にかなう志をあなたがたに与えてくださったのです。

それゆえに、教会として、あなたがたは神様の目的を果たすように歩むべきなのです。

けれども、もし私たちが絶えず争っているとすれば、その目的を全うすることはできません。

だからこそ、パウロは私たちにこう語るのです。

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。

そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよすべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。

そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(2:14-16)

教会の人々が互いに争っている姿を見れば、世の人々はこう思うかもしれません。「結局、クリスチャンも私たちと何も変わらない。」

けれども、もし彼らが、互いに愛し合い、仕え合う教会の姿を目にしたとき、また、不平を言わず、疑わずに喜んで歩んでいる人々を見たとき——そこに、輝く光があるのです。

すると、その人は心の中でこう思い始めます。「なぜ、クリスチャンは私とあんなにも違っているのだろう。私もあのような人になりたい。」

だからこそ、パウロはピリピの人々にこう語りました。「私の願いは、あなたがたが光として輝くことです。あなたがたがそのように歩むなら、私はキリストの御前に立つとき、喜びと誇りをもって、あなたがたが何者となったかを指し示すことができるのです。」

そしてパウロは、この箇所の締めくくりとして、彼らへの深い愛を語ります。

たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。(17)

要するに、パウロはこう語っているのです。

「あなたがたに仕えることは、私にとって重荷ではありません。 むしろ、あなたがたと同じように、私も自分の救いを達成するように努めているのです。そして、神があなたがたのうちに働いておられる姿を見るとき、私は心から喜びます。

ですから、福音のために私が牢に入っていることを悲しまないでください。むしろ、私と共に喜んでください。私たちが共に働き、喜び合うとき、この世界は私たちのうちにある光を見ることになるのです。」

あなたはどうでしょうか。これが、あなたの態度になっているでしょうか。神様があなたの中だけでなく、周りの兄弟姉妹の中でも確かに働いておられることを、あなたは見ているでしょうか。

あなたがたが協力し、一致をもって歩んでいる中で、神様がご自身の目的を果たしておられるのを見ているでしょうか。

あなたがたが共に光を輝かせているゆえに、人々はその良い行ないを目にし、天の父をあがめているでしょうか。

それとも、彼らがあなたがたを見るとき、常に争っている人々の姿を見ているのでしょうか。

私たち皆が、教会として、恐れおののきながら自分の救いを達成するよう努める者となりますように。そして、私たちを通して、周囲の人々が――彼らを愛し、彼らのためにご自身の命をささげられた主を知ることができますように。

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ピリピ人への手紙

福音にふさわしく生活する

今日のタイトル「福音にふさわしく生活する」と聞くと、どんなことを思い浮かべるでしょうか。自分の信仰を周囲の人に伝えることでしょうか。あるいは、清く正しい生活を送ることでしょうか。もちろん、私たちはそのように生きるべきです。

しかし、おそらくパウロがこの言葉を書いたとき、彼の心にあったのは別の視点だったのではないでしょうか。

彼はこう記しています。

ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。(ピリピ人への手紙1:27a)

おそらく、パウロが最も強調していたのは、他のどのことよりも「教会の一致」だったのではないでしょうか。

原語を見ると、「ふさわしく生活する」という表現には、「市民としてふさわしく生きる」という意味合いが含まれています。

ローマ帝国の中で、ピリピ人たちは高い市民権を持っている者たちでした。彼らには土地を所有する特権があり、特定の税金を免除される立場にもありました。そのため、ローマ市民としての地位に誇りを持っていたのです。

けれども、パウロは彼らにこう語りました。

「あなたがたはローマ帝国の市民であることに誇りを持っているかもしれない。しかしそれ以上に、神の御国の市民として誇りを持ちなさい。そして、御国の市民にふさわしく歩みなさい。その中で、他の市民たちと心を一つにして歩みを続けなさい。」

なぜ、そう生きるべきなのでしょうか。

そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。

あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。(27b-28a)

パウロはピリピの信徒たちにこう警告しました。「あなたがたに反対してくる者たちが、確かに現れます。」

だから、パウロは彼らにこう語ったのです。

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。(29-30)

その言葉は、どこか不思議に聞こえるかもしれません。「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」

けれども、使徒たちはまさにそのように苦しみを受け止めていました。彼らは苦しみを、主のために喜ぶ機会と見なしていたのです。

たとえば、使徒の働き5章では、彼らは福音を語ったことのゆえに鞭で打たれましたが、それにもかかわらず喜びにあふれました。パウロもまた、苦しみの中にありながら、この手紙の中で喜びを語っています。

なぜ、パウロはそんな状況でも喜ぶことができたのでしょうか。

使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜び(ました)。(使徒5:41)

ですから、「福音にふさわしく生活する」ということの一つの意味は、イエス様のために苦しむことだと言えるでしょう。

ただ注目すべきなのは、私たちが個人として苦しむということ以上に、パウロはクリスチャンたちが共にその苦しみを経験するという点を語っていることです。

パウロによれば、信徒たちが霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦い、そしてどんなことがあっても反対者たちに脅かされないとすれば、それは反対者にとっての「裁きのしるし」であり、ピリピの信徒たちにとっての「救いのしるし」なのです。

言い換えると、反対者たちはピリピの人々のイエス様に対する愛、そして彼らが互いに示している愛を目にし、そこに彼らが受けた命の実在を見いだします。そしてその命の現実に触れたとき、自分たちの心が死によって支配されていることに気づかされるのです。

では、反対者たちは具体的に何を見たのでしょうか。

キリストにあって励ましを受けている人たち。試練の中で愛の慰めを受けている人たち。御霊の導きと力によって歩んでいる人たち。敵に対しても愛とあわれみを示し、また、他のクリスチャンたちに対しても愛とあわれみに満ちている人たち。

同じ思いを持ち、同じ愛の心を抱いている人たち。心を合わせ、思いを一つにしている人たち。

利己的な思いや虚栄からではなく、謙遜をもって歩んでいる人たち。互いを自分より優れた者と思い、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みている人たち。(ピリピ人への手紙2:1ー4)

これこそ、「福音にふさわしく生活する」ということなのです。

私たちは、そのように生きているでしょうか。個々のクリスチャンとしてだけでなく、教会として、共にその姿を現しているでしょうか。

もし、教会の人たちが単なる個々のクリスチャンとして、それぞれ自分のために仕えるなら、教会はこの世に大きな影響を与えることはできないでしょう。

だからこそ、自分を「単なる個人の信者」としてではなく、 「御国の市民」として生き始めましょう。互いに愛し合い、仕え合っていきましょう。

十字架で死なれる前、イエス様はこう祈られました。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。。。

わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。(ヨハネ17:20-21、23)

その祈りを、いつも心に刻んで歩んでいきましょう。

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エペソ人への手紙

一致して祈り合う

エペソ人への手紙についての最後の記事を書くにあたって、 あらためて、この手紙の中心的なテーマを皆さんに思い起こしていただきたいと思います。

――そうです、もう覚えておられるでしょう。 そのテーマは、「一致」です。

パウロは、霊的な戦いについて語り、 私たちがどんな武具を身につけるべきかを教えました。

そしてその直後、パウロはこう語っています

あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。

また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。

宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。(エペソ人への手紙6:18-20)

もちろん、私たちは神様の武具を身につけるべきですが、 その力がどこから来るのかを忘れてはなりません。 その力は、私たち自身からではなく、神様から来るのです。

ですから、私たちはあらゆる祈りと願いをもって、 どんなときにも御霊によって祈るべきです。

では、「御霊によって祈る」とはどういう意味でしょうか。 それは、御霊の導きに従って祈るということです。 祈りの初めに、 「今日、どう祈ればよいでしょうか」と御霊に尋ねるのが良いでしょう。

しかし、多くの場合、私たちは自分の思いだけで祈ってしまいます。 そのため、神様がどのように祈ってほしいかを知らずに終えてしまうのです。

ですから、祈るときには、 聖霊様の導きに心を向けましょう。 聖霊様の祈りを、あなた自身の祈りとしましょう。

良い時にも、悪い時にも、祈りましょう。

あらゆる祈りをもって祈りましょう。 感謝の祈り。賛美の祈り。罪の告白の祈り。 そして、自分自身の必要のためにも祈りましょう。

また、共に立って祈りましょう。 もう一度言います。私たちは一人で この霊的な戦いを戦ってはならないのです。 この戦いのただ中で、私たちは「一致」を守らなければなりません。 だからこそ、互いのために祈り合いましょう。 そして、ともに祈りましょう。

特に、この霊的な戦いの最前線に立つ人々のために祈るべきです。 すなわち、福音を宣べ伝える者たちのために祈りましょう。

神様が彼らにふさわしい言葉を与えてくださるように祈りましょう。 御霊によって、彼らに力が与えられるように祈りましょう。 そして、その語られる言葉を通して、多くの人々の心が変えられるように祈りましょう。

もしあなたが今、最前線で戦っているのなら、 あなたは決して一人ではないことを忘れないでください。 パウロのように、ほかのクリスチャンたちの祈りを求めてください。

自分の経験や思いを分かち合ってください。 自分だけで頑張る必要はありません。 私たちは互いになくてはならない存在なのです。

ですから、あなたがどこにいても―― 共に立ちましょう。 そのとき、私たちは勝利を得るのです。

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エペソ人への手紙

共に立ち、サタンに対抗する

私たちは敵国に住んでいます。 あなたがそれを知っているかどうかは分かりません。 でも、それは真実です。

パウロはこう言います。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ人の手紙6:12)

「この暗闇の世界。」 言い換えれば、「敵が支配しているこの世界。」

けれども、その敵は人間ではありません。 それらは霊的な存在、すなわちサタンや悪霊たちです。 彼らはこの世界を支配しています。 だからこそ、この世界は“暗闇の世界”なのです。

その現実は、私たちにもはっきりと見えてきます。 人々の道徳は次第に崩れてきています。 かつて善とされたことが、今では悪と見なされ、 逆に、かつて悪とされたことが、今では善と見なされています。

このような状況について、預言者イザヤは語りました

わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。(イザヤ書5:20)

パウロもまた、同様のことを語りました。

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め(ます)。(第2テモテ4:3)

そのときは、すでに来ています。 それこそが、今私たちが生きている世界です。 だからこそ、パウロは私たちに訓戒を与えるのです。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。(エペソ人への手紙6:13)

「邪悪な日」とは、どういう意味でしょうか。 おそらく、パウロは迫害について語っているのでしょう。

ある時、人々はもはやキリスト教を受け入れなくなります。 アメリカでは、実際に迫害を受けているクリスチャンたちがいます。 カナダでは、「憎悪犯罪法」によって、ラジオ番組やYouTubeなどで クリスチャンたちの声が検閲されることもあるのです。

では、クリスチャンたちはどのように戦うべきでしょうか。

私たちは、自分の力で戦うのではありません。 パウロはこう語っています。

主にあって、その大能の力によって強められなさい。(10)

私たちは、銃や政治、議論、その他の人間的な武器に頼ってはなりません。 むしろ、パウロはこう語ります。

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。(11)

私はもう一度言います。 私たちは人間と戦っているのではありません。 私たちは、この暗闇の世界の霊的な力と戦っているのです。

そして、もう一つのことを改めて強調したいと思います。 パウロは個々のクリスチャンに対して語っているのではなく、 教会全体に語りかけています。

もちろん、個々のクリスチャンも神の武具を身につけ、 悪魔の策略に立ち向かうべきです。 しかし、それは教会の一人ひとりが協力して行うべきことなのです。

パウロの言葉を言い換えると、こうなります―― 「皆さん。あなたがた全員が、悪魔の策略に立ち向かうことができるように、 神のすべての武具を身につけなさい。」

イエス様はこう言われました。

どんな国でも内輪もめしたら荒れすたれ、家も内輪で争えば倒れます。(ルカ11:17)

もし教会が内輪で争っているなら、 サタンに対して堅く立つことはできません。 だからこそ、「一致」というテーマはこの箇所でも極めて重要なのです。

神様は、私たちをキリストのもとに一つとされました。 けれども、サタンは私たちを分裂させようとします。 内輪で争っている教会は、団結している教会よりも、 はるかに壊れやすいのです。

同じように、一人で立っているクリスチャンは、 支え合い、守り合っているクリスチャンたちよりも、 攻撃されやすく、滅ぼされやすい存在です。

ですから、この暗闇の世界と向き合うとき、私たちはどのように戦うのでしょうか。 分裂した教会としてでしょうか。 弱体化した教会としてでしょうか。 自分の力で、人間的な武器を用いて戦うのでしょうか。

それとも、私たちは一致して、主の力によって、 霊的な武具を身につけて戦うのでしょうか。

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エペソ人への手紙

一致する結婚(2)

この箇所で興味深いのは、パウロによれば、結婚が私たちとキリストとの関係を描くものであるという点です。 パウロはこう語りました。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。

いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。私たちはキリストのからだの部分だからです。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ人への手紙5:25-32)

イエス様は教会のために何をしてくださったのでしょうか。 イエス様は天を離れ、この世に来られました。 そして、十字架の上でご自身のいのちを捧げられました。

今もなお、イエス様は私たちの世話をしてくださり、 私たちの物理的な必要や霊的な必要に応え、 神様の愛をもって私たちを養い、育ててくださっています。

なぜイエス様はこのようにしてくださるのでしょうか。 それは、イエス様がご自身を愛するように、私たちを愛しておられるからです。 実際、イエス様は私たちを、ご自身のからだの一部として見なしておられます。

夫も同じようにするべきです。 彼は親を離れ、自分の妻と一つになります。 妻のために自分のいのちを捧げ、妻の世話をし、 妻の物理的な必要や霊的な必要に応え、 愛によって妻を養い、育てるべきです。

なぜ夫はそのようにすべきなのでしょうか。 それは、彼が自分自身を愛するように、妻を愛するべきだからです。 実際、神様の目には、妻は夫のからだの一部と見なされているのです。

いろいろな意味で、夫は妻にとってイエス様の姿を映す存在であるべきです。 同じように、妻はイエス様を敬い、その導きに従うのと同じように、 自分の夫を敬い、夫の導きに従うべきです。

では、夫たち。あなたは、どれほどイエス様を妻に反映しているでしょうか。 あなたは、妻をあなた自身の一部として扱っているでしょうか。

もしかすると、妻をそこまで敬っていないかもしれません。 しかし、キリストは教会をそのように深く愛しておられます。 だからこそ、私たちもそのように愛すべきなのです。

妻たち。あなたはどれほどイエス様に従っているでしょうか。 もしイエス様に従うことが難しいと感じるなら、 自分の夫に従うことは、なおさら難しいかもしれません。

このようにして、パウロはこの教えを次のようにまとめています

それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。(33)

あなたの結婚はどうでしょうか。 あなたの結婚は、イエス様と教会との関係を映し出しているでしょうか。

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エペソ人への手紙

一致する結婚

今日の箇所でパウロは結婚について語っていますが、実のところ、彼は以前に語った真理を別の形で応用しているのです。

では、パウロは以前に何を語ったのでしょうか。 それは、イエス様にあって、教会の人々が一つとされたということです。 私たちの間に立っていた「隔ての壁」は、打ち壊されたのです。

しかし、多くの結婚関係において、夫婦の間にはいまだに敵意が存在し、 彼らの間には隔ての壁が残ったままです。

(もちろん、私はエペソ2:14で語られているようなモーセの律法そのものではなく、 異なる壁について話しています。)

私たちはその壁の起源を、創世記3章に見ることができます。 アダムとエバが罪を犯した後、神様はエバに次のように言われました

また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。(創世記3:16)

その言葉は、ヘブル語でも日本語でも、カインに対する神様の言葉に似ています。

罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。(創世記4:7)

神様の言葉を言い換えるなら、こう言えるでしょう。 「罪はあなたを支配したいと願っている。それでも、あなたはそれを支配しなければならない。」

同じように、アダムとエバの時代から、 多くの妻たちは神様のご計画に逆らって、夫を支配しようとしてきました。 けれども、夫の肉体的な力によって、多くの妻たちは束縛されてしまいます。 彼女たちは、愛によってではなく、恐れによって夫に従うようになってしまうのです。

残念なことですが、妻を支配するために、自分の妻を虐待する夫たちも存在します。 そしてそのような関係の中で、妻たちは虐待から逃れようとします。

その結果として、結婚は壊れてしまいます。 夫婦は本来、キリストにあって一つとされるべき存在ですが、 敵意によって、夫婦の間に隔ての壁が築かれてしまうのです。

では、その解決とは何でしょうか。

パウロはこう語りました

妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。

教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。(エペソ人への手紙5:22-24)

エペソ1:22では、私たちは、神様が教会の益のためにキリストを教会のかしらとして任命されたことを学びました。 だからこそ、私たちはイエス様に従うことによって、祝福を受けるのです。

同じように、神様は妻たちの益のために、夫を妻のかしらとして任命されました。 ですから、教会がキリストに従うように、妻もまた夫に従うべきなのです。

言い換えれば、妻はイエス様に従うのと同じように、自分の夫にも従うべきです。 そうすることで、妻は祝福を受けるのです。

しかし、祝福を受けていない妻たちもいます。 そのため、彼女たちは自分のかしらと戦おうとします。 なぜ、そのようなことが起こるのでしょうか。

それは、多くの夫たちが非常に大切なことを忘れてしまっているからです。 神様は、夫たち自身の益のために、彼らを妻のかしらとして任命されたのではありません。 むしろ、妻の益のために、夫をかしらとして任命されたのです。

私たち夫は、自分の妻を祝福する者であるべきなのです。

パウロは、エペソ5:25〜26で、そのことをはっきりと教えています。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり。。。(25-26)

その言葉には、深い皮肉が込められています。 イエス様が教会を祝福されたことによって、教会はキリストにとっての祝福となりました。 こうして、イエス様と教会は一つとされたのです。

同じように、夫たちが自分の妻を祝福すればするほど、 妻もまた夫にとっての祝福となり、 その夫婦は神様のご計画どおりに一つとなるのです。

このことについては、次の記事でさらに詳しく取り上げていきます。

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エペソ人への手紙

私たちが一つになるように(2)

言葉は力あるものです。 言葉によって、人は建て上げられ、言葉によって、人は取り壊されます。

だからこそ、パウロはこう言いました。

悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。(エペソ人への手紙4:29)

「悪い言葉」とは、「腐った言葉」と訳すこともできます。 私たちは、そのような腐った言葉を一切口にしてはいけません。

では、「腐った言葉」とは何でしょうか。 31節を見ると、いくつかの例が挙げられています。 無慈悲な言葉、怒りの言葉、ののしりの言葉、悪意に満ちた言葉などです。

このような言葉によって、聖霊が悲しまれるのです。 なぜなら、それらの言葉はキリストのからだを分裂させるものだからです。

忘れないでください。この箇所の中心テーマは、キリストのからだの一致を保つことです。 けれども、もし、私たちの言葉によって、互いにかみつき合い、食い合っているなら、 その一致を保つことはできません。(ガラテヤ5章15節)

では、私たちはどのような言葉を語るべきでしょうか。 それは、成長に役立つ言葉や、聞く人に恵みを与える言葉です。 人々にそのような言葉が必要なとき、私たちはそれを語るべきです。

注目すべき点が二つあります。

一つ目は、話す前に、何を言うべきかを考える必要があるということです。 私たちは周囲の人々を見るとき、彼らのニーズを考えるべきです。

しかし多くの場合、深く考えずに言葉を発し、相手を傷つけてしまいます。 もし私たちが相手のニーズに心を留めるなら、不用意に傷つけることはないでしょう。

二つ目は、私たちの言葉が恵みに満ちたものであるべきだということです。 言い換えれば、私たちの言葉は人々に恵みを与えるものであるべきなのです。

私たちの口からどんな言葉が出ているでしょうか。 裁きの言葉でしょうか。責める言葉でしょうか。 それとも、恵みの言葉でしょうか。

けれど、私たちの言葉だけでなく、行いもまた恵みを表すべきです。 だからこそ、パウロはこう言います。

互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。(32)

場合によっては、それは難しいこともあるでしょう。 相手を親切に扱うのが難しい時もあります。 相手に憐れみを持てない時もあります。 相手を許すのが辛い時もあります。

しかし、私たちは神の親切や憐れみや赦しに値しませんでした。 むしろ、私たちは神の怒りと裁きを受けるにふさわしい者でした。

それでもなお、神様はご自身の憐れみと恵みを私たちに注ぎ、 私たちの罪を赦してくださいました。

だからこそ、パウロはこう言います。

ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。

キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。(エペソ人への手紙5:1-2)

私たちのために十字架でご自身のいのちをささげたとき、イエス様は天の父にとって芳ばしい香りとなりました。

同じように、私たちが神様の子どもとして歩み、周囲の人々に神様の愛と恵みを表すとき、 私たちも天の父にとって芳ばしい香りとなります。

そして、私たちが人を愛する時、特に愛しにくい人を愛する時、 私たちは本当に神様の子どもであることを証しするのです。 そのようにして、私たちクリスチャンはイエス様にあって一つとされていきます。

あなたはどうですか。 あなたは自分が神様の子どもであることを証ししていますか。 あなたは日々、周囲の人々を愛し、建て上げていますか。

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エペソ人への手紙

私たちが一つになるように

5年前にこの箇所を読んだとき、私は改めてパウロの言葉を認識しました。 それ以前は、パウロの言葉をどのように自分の人生に当てはめられるかを考えていましたが、実際には、彼が語っていたのは個々のクリスチャンではなく、教会全体についてであると気づきました。

ユダヤ人と異邦人の間にあった隔ての壁は取り壊され、私たち皆がクリスチャンとして一つにされました。

この文脈の中で、パウロは今日の箇所を書きました。 彼のポイントは、私たちがどのようにキリストのからだの一致を保つことができるかということです。

25節から、パウロはそのことを強調しています。

ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。(エペソ人への手紙4:25)

真実を語らなければ、一致を保つことはできないでしょう。 友人関係でも、結婚関係でも、教会の関係でも、それは同じです。

時々、私たちは真実を軽く考えすぎます。例えば、私たちは簡単に罪のない嘘を語ります。(それは本当に罪のないものでしょうか。)

また、兄弟や姉妹が罪を犯したとき、その人の反応を恐れて何も言わないことがあります。

しかし、15節によれば、私たちは愛を持って真理を語るべきです。 その目的は、相手が成長することです。

ところで、真理を語るとき、「愛を持って」ということは非常に大切です。 ある人は自分の正直さを自慢しますが、彼らの目的は相手を建て上げることではなく、むしろ相手を取り壊そうとすることです。

もしそのような態度であるならば、黙っていた方がよいでしょう。 けれども、神様の前で「私はこの人を愛し、建て上げたい」と言えるなら、どうぞ真実を語ってください。

そして、パウロはこう言います。

怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(26-27)

私たちは怒ってもよいのです。 けれども、その怒りをどのように処理するでしょうか。

あなたはただ相手に怒鳴るでしょうか。 あるいは、その怒りを静かに心に留め、苦々しい根を張るでしょうか。

もしそうすれば、あなたは悪魔に自分を操る機会を与えることになります。

しかし、もう一度言います。 パウロは主に教会に向けて語っています。

もし教会のメンバーが心の中で怒りを持ち続けるなら、サタンはその機会を利用して教会を分裂させ、壊そうとするのです。

そして、パウロは続けて言います。

盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。(28)

その言葉から、重要な原則を見ることができます。 単に相手を傷つけることをやめるだけでは不十分なのです。 私たちは相手を建て上げなくてはなりません。

なぜなら、私たちの目的は、キリストのからだを建て上げることだからです。

次の記事でこの話を続けますが、その前に少し考えてみてください。

私たちの行動によって、キリストのからだの一致を保っているでしょうか。 あるいは、私たちの行動によって、キリストのからだを分裂させてしまっているでしょうか。

私たちはキリストのからだを建て上げているでしょうか。 それとも、キリストのからだを取り壊しているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

教会を団結させるための賜物

この箇所で、パウロはまだコリント教会の分裂について考えていたかもしれません。この手紙の中で、彼はすでに二度その問題について触れています。

パウロは、霊的な賜物がコリント教会を分裂させたとは述べていません。しかし、その賜物が分裂を引き起こす可能性があることは見ていたかもしれません。

実際、現代の教会でも同じような問題が見られます。

だから、パウロは冒頭から明確に語ります。霊的な賜物は教会を分裂させるためのものではなく、教会のメンバーたちを団結させるためのものです。

パウロはこう記しました。

さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。

奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。

働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。(コリント人への手紙第一12:4-6)

パウロの言葉から、三位一体が霊的な賜物に深く関わっていることが分かります。

異なる賜物がありますが、同じ御霊によって与えられます。

異なる奉仕がありますが、同じ主(イエス)に仕えます。

異なる働きがありますが、すべては同じ神(天の父)によって行われます。

パウロの意図はこうかもしれません。天の父、イエス様、聖霊様はそれぞれ異なる役割を持っておられますが、なお一つの神です。

同じように、私たちの賜物がそれぞれ異なっていても、私たちはなお一つの教会です。だから、私たちには心の一致が必要です。

7節で、パウロはこのことを明確に述べています。

皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。(7)

普通、私たちがプレゼントを受け取るとき、その贈り物は私たち自身の益のためです。けれども、霊的な賜物は異なります。それらは、すべての人の益のために与えられるものです。特に、教会の兄弟姉妹たちを支えるためのものです。

だからこそ、霊的な賜物について考えるとき、自分中心の考えを捨てるべきです。むしろ、その賜物をどのように用いて、周囲の人々に益をもたらせるかを考えるべきです。

このように、霊的な賜物に関しては、プライドや嫉妬の余地はありません。

パウロはこう記しました。

たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。

たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。(15-16)

けれども、ある人は他者の賜物をうらやみ、その感情に基づいて行動してしまうことがあります。

自分が神様から与えられた賜物を気に入らず、不満を抱き、苦々しい態度を持ってしまいます。

または、同じ賜物を持っているものの、他者の方がより豊かにそれを持っているため、嫉妬し、怒りを抱くこともあります。

その結果、彼らは相手に対しても、神様に対しても怒りを向けてしまいます。

しかし、逆の問題もあります。

パウロはこう記しました。

目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。(21)

要するに、より「重要な」賜物を持っている人は、他の人を取るに足りない存在として見下してしまいがちです。

どちらの態度も害を及ぼし、教会を分裂へと導きます。皮肉なことに、以前述べたように、賜物は本来、教会を一つにするために与えられたものです。

だからこそ、私たちは自分自身に問いかけるべきです。

「兄弟姉妹に対する私の態度は正しいだろうか。自分の賜物と他者の賜物に関する私の態度は、教会を分裂へと導くか、それとも一致へと導くだろうか。」

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コリント人への手紙第一

キリストとの交わり、兄弟姉妹との交わり

聖餐式の際、多くのクリスチャンはこの箇所を耳にします。パウロはこう述べました。

私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。

「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(コリント人への手紙第一11:23-25)

聖餐式を単なる宗教的な儀式と考えてしまうのは容易なことです。コリントの人々もそうでした。その結果、彼らは貧しい兄弟姉妹を軽んじ、聖餐式を汚してしまいました。

けれども、イエス様はこう言われました。「パンを食べ、ぶどう酒を飲むとき、私のことを覚えなさい。あなたがたの罪を赦し、神と和解するために、私は自らの血を流します。」

この真理を心に留めるとき、私たちは忘れてはなりません。イエス様は私たちの兄弟姉妹のためにも死なれたのです。イエス様の目には、彼らもまた尊い存在です。

だからこそ、聖餐式に参加するとき、私たちはイエス様に近づくだけでなく、互いにも近づき合うべきです。

もちろん、イエス様は私たちを神と和解させるために死なれました。とはいえ、それだけではなく、クリスチャン同士が互いに和解し、一つとなるためにも、イエス様は命を捧げられたのです。

パウロはエペソの人々にこう書きました。

実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し(ました)。(エペソ2:15)

パウロは特に、異邦人とユダヤ人の間にある壁について語りました。その壁とは、モーセの律法です。しかし、その原則は私たちにも適用されます。クリスチャンの間に、人種の壁や身分の壁があってはなりません。

そして、パウロは続けてこう言いました。

こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。(エペソ2:15-16)

パウロによれば、私たちは皆、ユダヤ人であれ異邦人であれ、律法によってではなく、イエス様の十字架を通して神様に近づくのです。だからこそ、ユダヤ人と異邦人の間に分裂があってはなりません。

イエス様が死なれた理由の一つは、すべてのクリスチャンが一つとなることです。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ2:18-19)

だから、教会の中には二流のメンバーなど存在しません。

私たちがユダヤ人であれ異邦人であれ、金持ちであれ貧しい者であれ、権力者であれ一般の人であれ、イエス様は私たちのために命を捧げられました。その目的は、私たちが神様と和解し、すべてのクリスチャンが一つとなることです。

だから、聖餐式でキリストを思い起こすとき、この最も重要な真理も心に留めるべきです。

あなたはどうでしょうか。聖餐式に参加するとき、神様との関係だけを考えているでしょうか。それとも、ほかのクリスチャンとの関係も意識しているでしょうか。

聖餐式に参加するとき、兄弟姉妹との関係はどうでしょうか。自分の教会のメンバーだけでなく、ほかのクリスチャンとの関係も考えているでしょうか。

彼らに対して苦々しい思いを抱いていませんか。もしそうであれば、その人と和解しなくてはなりません。そうしないと、あなたの飲み食いは自分をさばくことになってしまいます。(コリント人への手紙11:27-29)

あなたはキリストとの一致だけでなく、兄弟姉妹との一致も持っているでしょうか。

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ローマ人への手紙

一致を持って、歩むこと

この箇所では、パウロは14章の教えをまとめています。まず、彼は次のように語ります。

私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。

私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。(ローマ人への手紙15:1-2)

14章によれば、「力のない人」とは、クリスチャンが許されていることを行うとき(例えば、お酒を飲むこと)、自分の良心に反してしまう人です。また、義務ではないこと(例えば宗教的な祝日を祝うこと)を、やらなくてはならないと考えてしまう人を指します。

「力のある者」とは、そのような規則を守る必要はないと理解している人です。

しかし、パウロは「力のある者たち」が「力のない人たち」を責めてはならないと語っています。むしろ、「力のある者たち」は「力のない人たち」の益を求め、その人を支えるべきです。

イエス様は私たちの模範です。イエス様は力ある方でありながら、私たちの弱さを担ってくださいました。

弟子たちは、喧嘩をしたり、誇ったり、わがままになったり、混乱した人生を歩んだりしました。それでも、イエス様は彼らを愛し、彼らの足を洗うほどに仕えました。(ヨハネ13章)

さらに、人々がイエス様を憎み、侮辱し、十字架につけたとしても、イエス様は彼らのために祈られました。

父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)

そして、イエス様は彼らの罰を負い、彼らのために命を捧げられました。

しかし、イエス様は私たちのためにも死なれたので、私たち全員に希望があります。

だから、パウロは次のように語っています。

ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(ローマ人への手紙15:7)

そして、パウロはこのように祈りました。

どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。

そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。(5-6)

神様は、私たちが一致をもって歩むように召されています。その鍵は、互いの失敗や弱さに焦点を当てるのではなく、むしろイエス様に目を向けて従うことです。

私たちが他のクリスチャンを見るとき、互いに引き裂き合うのではなく、励まし合うべきです。

もし私たちが互いに争ったり、傷つけ合ったりするなら、神様はどれほど悲しまれるでしょう。

そうではなく、イエス様のように生きることを目指しましょう。私たちは互いの弱さを担い合い、愛し合い、受け入れ合い、仕え合いましょう。

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ローマ人への手紙

クリスチャンの交わりを壊すもの

クリスチャン生活を単なる個人的なものと考えてしまうのは容易なことです。もしかすると、特に欧米諸国では、そのように捉える人が多いのかもしれません。

けれども、クリスチャン生活は一人で送るものではなく、私たちが他のクリスチャンと共に歩むことこそが、神様の御心です。

それにもかかわらず、多くのクリスチャンが教会に行かなくなっています。なぜでしょうか。理由はさまざまありますが、この箇所でパウロは一つの理由を挙げています。

パウロはこう書きました。

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。

むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。(ローマ人への手紙12:3)

また、

互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。(16)

クリスチャンの交わりを壊す要因の一つはプライドです。

「私には、ほかのクリスチャンは必要ない。一人でクリスチャン生活を送ることができる」と考えるプライド。

「私は彼らよりも優れたクリスチャンだから、彼らとの交わりは不要だ」と思うプライド。

「私は彼らと異なる立場にあり、共通点がない」と決めつけるプライド。

「この人も、あの人も私を傷つけた。彼らが謝るまで、私はもう教会に行かない」と意固地になるプライド。

しかし、パウロは私たちに大切なことを思い出させます。

一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。(4-5)

この箇所では、私たちは非常に重要な真理を目の当たりにします。すべてのクリスチャンはキリストのからだの器官です。

したがって、私たちはもはや自分自身だけに属しているのではありません。まずキリストに属し、さらに私たちクリスチャンは互いに属し合っています。

なぜでしょうか。それは、私たち一人ひとりがキリストのからだの中で異なる機能を持っており、からだ全体が私たちの役割の働きに依存しているからです。

だから、パウロはこう語りました。

私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。(6-8)

あなたは、ほかのクリスチャンを必要としないと思うかもしれません。けれども、たとえあなたが彼らを必要としなくても、彼らはあなたを必要としています。

神様は、あなたを通して彼らを祝福するために、霊的な賜物を与えてくださいました。そして、私たちがほかのクリスチャンに仕えるとき、それは神様に仕えることでもあるのです。

だから、パウロは私たちに重要な教訓を示しています。

勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。(11)

もし私たちがプライドによって賜物を用いず、教会に仕えることをしないなら、いつか神様は私たちにその責任を問われるでしょう。

ですから、忘れないでください。私たちは他のクリスチャンに属し、また彼らも私たちに属しています。私たちは互いに必要な存在なのです。

だから、兄弟たちとの交わりを断つプライドを捨てましょう。そして、むしろパウロの言葉に従いましょう。

兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。(10)

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使徒の働き

一致、力、と恵み

教会はどのような存在であるべきでしょうか。この箇所では、私たちは良い模範を見ることができます。

一致

さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。(使徒の働き4:32)

現代の教会は同じことを言えるでしょうか。2000年前のクリスチャンたちは、心と思いを一つにしました。彼らは、自分が所有しているものを自分のものだとは考えませんでした。むしろ、それらは主のものであると見なしました。

だから、兄弟姉妹に必要があれば、彼らはそのニーズに応えました。その結果、クリスチャンの間には、飢える人がいませんでした。

しかし、今は多くのクリスチャンがそのように考えていません。十一献金についてのメッセージを聞くと、「でも、それは私のお金だ」と言います。「十一献金は旧約聖書の時代のものだった。それは私には関係ない。」

正直に言えば、十一献金は確かに旧約聖書の時代の制度でした。

それでも、「あなたのお金」は、実際にはあなた自身のものではありません。神様があなたに才能や健康な身体を与えてくださったから、あなたはお金を稼ぐことができるのです。つまり、そのお金は神様のものです。

使徒の働きの時代、クリスチャンたちはその真理を認め、神様からいただいたものを惜しみなく分かち合いました。その結果は。。。

恵み

大きな恵みが彼ら全員の上にあった。(33b)

もちろん、神様は直接私たちに恵みを与えてくださいます。神様は私たちを赦し、多くの祝福を与えてくださいます。しかし、神様は私たちがその恵みのパイプラインとなることを望んでおられます。

私たちは、自分が受けた恵みを周りの人々と分かち合うべきです。けれども、もし私たちが自己中心的になり、その恵みを分かち合うことを拒むなら、そのパイプラインは詰まり、流れが滞るようになります。

一方で、私たちが自分自身から目を離し、周りの人々を愛するなら、教会の中で恵みは豊かに溢れます。

使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし(ました)。(33a)

その力によって、彼らはいろいろな奇跡を行い、彼らの証しが世界を大きく変えました。

同じ御霊は、現代においてもその働きをなすことができます。だからこそ、私たちはそのために祈るべきです。癒しの奇跡だけではなく、変えられた人生という奇跡のためにも祈るべきです。

つまり、聖書を伝える人が話すとき、私たちは、聖霊様が彼らを通して力強く働くように祈るべきです。

聖霊様の力が伴わなければ、牧師のメッセージは意味を失ってしまいます。そのため、私たちは聖霊様が私たちの牧師たちを満たし、彼らを通して語られるように祈りましょう。

それだけではなく、聖霊様が私たち自身を満たし、私たちを通して働かれるように祈りましょう。なぜなら、私たちも神様の祭司だからです。

一致、恵み、そして力。

2000年前の教会のように、現代の教会もこの三つのことで満たされますように。

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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

私たちに対するイエス様の望み

クリスチャンたちは本当に、イエス様が私たちに対して抱かれる望みを理解しているでしょうか。

以前の記事では、イエス様が私たちとの親しい関係を望まれていることを見ました。永遠の命とは、イエス様に近づき、イエス様を知り、イエス様に知られることです。

けれども、イエス様はそれだけではなく、他にも望まれることがあります。イエス様は、私たちが兄弟姉妹と共に一つとなることを望んでおられます。

イエス様はこのように祈られました。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。

またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。(ヨハネの福音書17:20-23)

イエス様は、私たちがイエス様と天の父のような関係を持つことを望まれます。イエス様と天の父が一つであるように、私たちも一つとなるべきです。

とはいえ、それはどういう意味なのでしょうか。

一つの意味は、目的の一致です。私たちが同じ目的を持ち、共に働くことです。その目的とは、福音を伝えることにほかなりません。

もう一つの意味は、互いに相手を自分より優れた者と考えることです。私たちは自分のことだけでなく、他の人のことも顧みます。(ピリピ2:3-4)

しかし、多くの場合、私たちはそのように生きていません。

そのため、ノンクリスチャンが私たちの教会に足を踏み入れると、そこには争いがあり、苦々しい心が見られることがあります。彼らはそのようなものを教会の外でも目にすることができるため、落胆し、すぐに教会を離れてしまいます。

それでも、当の教会の人々は自分のことで精いっぱいで、何が起こったのか気づいていないかもしれません。

イエス様は、それをご覧になると、深く悲しまれるのです。

周りの人々に対するあなたの行動や態度によって、どれほどイエス様を悲しませているでしょうか。あなたの苦々しい思いや、恨み、陰口を持つ心によって、イエス様はどれほど嘆かれるでしょうか。

その結果、イエス様だけでなく、私たち自身も苦しむことになります。

さらに、ノンクリスチャンは暗闇の中でつまずき続けます。なぜなら、彼らは教会の中に光がないと感じるからです。

あなたはどうでしょうか。あなたと他の教会のメンバーは、本当に一つとなっているでしょうか。

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詩篇

一致

イスラエル人たちはエルサレムに巡礼したとき、彼らは教会に対して大切なことについて歌いました。つまり、一致です。ダビデはこう歌いました。

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。(詩篇133:1)

キリストの教会で、一致は本当に美しいものです。その反面、闘争や争いは教会の染みです。

人々が初めて教会に行って、キリストの愛によって一致している人々を見ると、彼らは興味が湧いてきて、イエス様とその教会について、もっと知りたいと思うでしょう。

しかし、もし彼らが入る時、文句やゴシップを聞いたり、苦々しい心を持っている人々を見るなら、彼らはすぐに逃げようと思います。彼らはとても悪い印象を受けて、尋ねます。

「教会の人々はこの世界の人々とどう違うだろうか。」

だから、イエス様は弟子たちにこう言われました。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。

互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:34-35)

そして、イエス様は教会のためにこう祈ってくださいました。

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。

そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。(ヨハネ17:21)

キリストの教会が一致していれば、周りの人々は私たちの中にキリストを見て、神様とその祝福を知るようになります。それに、教会の人々も神様の祝福を知ります。

ダビデはこう書きました。

それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。(詩篇133:2)

その油は祭司たちのためのものでした。オリーブ油は液体の没薬、かおりの強い肉桂、におい菖蒲、桂枝と混じりました。(出エジプト30:22-24)

ダビデが言ったのは、祭司にとっては(アロンはイスラエルの最初の大祭司でした)、一致はその油で注がれたようです。

現代でも、牧師たちはキリストにあって一致した教会を見ると、喜びます。教会のメンバーたちがキリストが命令したように愛し合ったり、仕え合ったりすると、牧師たちは本当に嬉しいです。

それに、油は聖霊の象徴です。人々は聖霊に導かれたら、一致に導く聖霊の実を結びます。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、そして自制です。(ガラテ書5:22-23)

一致した教会はそのような実を結びます。

そして、ダビデはこう歌います。

それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。(詩篇133:3a)

ヘルモンの山がシオンの山々よりも高かったので、シオンはヘルモンからの露を受けました。その露はシオンをすっきりさせて、清めました。

一致とはそのようなものです。一致によって人々はすっきりした感じがあり、神様の手に触れられて、清められます。

だから、ダビデはこう歌います。

主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(3b)

キリストにあって一致した教会は神様に祝福されています。そして、その人々は神様からの命を知ります。

あなたはどんな教会に行っているでしょうか。

実を結ぶ一致した教会に行っているでしょうか。もしくは闘争で満ちる教会に行っているでしょうか。

あなたは教会を建てていますか。もしくは、教会を取り壊していますか。