ある人々はこう言います。「神様自身が私の前に現れて、私と話すなら、私は神様のことを信じるだろう。」
けれども、その考え方には大きな問題があります。
神様自身はこの世に現れました。神様は私たちと話され、私たちの間を歩いておられました。神様はいろいろな奇跡を行われました。神様が敵対者たちと議論されたとき、相手は答えられなくなりました。それでも、彼らは神様を信じませんでした。
私の要点は何でしょうか。
もし、あなたが信じないと決めてしまっているなら、たとえ神様があなたの前に現れても、あなたは信じないでしょう。むしろ、それを夢や幻覚だと自分を説得しようとするでしょう。
人々が神様を拒絶する理由は、彼らが神様のことを信じられないからではなく、信じたくないからなのです。
この箇所では、私たちはそのような例を見ます。ユダヤ人たちはイエス様のところに来て、こう言いました。
あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。(ヨハネの福音書10:24)
イエス様はこう答えられました。
わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。(25)
その前に、イエス様は病気の人々を癒され、足が不自由な人々を癒され、目が見えない人々を癒され、皮膚病にかかった人々を癒され、死んだ人々を復活させられました。それにもかかわらず、周りの人々はそれを見ても、イエス様を信じませんでした。
さらに、彼らが学んだ預言者たちは、その奇跡について語っていました(イザヤ書53:4、61:1-2など)。それでもユダヤ人たちは、なぜかイエス様を信じることを拒みました。
その後、イエス様はさらに明確に語られました。
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。(27-30)
誰が永遠の命を与えることができるでしょうか。それは神様だけです。しかし、イエス様はご自身の民に永遠の命を約束されました。
さらに、イエス様は「わたしと父とは一つです。」と言われました。
イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。ユダヤ人たちは理解しました。イエス様はご自身が神であることを主張されたのです。彼らはすぐに反応し、イエス様を殺そうとしました。
彼らはこう言いました。
良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。(33)
彼らはイエス様の言葉を誤解しませんでした。
そのためイエス様は続けて、旧約聖書を引用されました。その詩篇では、神様は不正な裁判官たちを「神」と呼ばれました。なぜなら、彼らが人々を裁くとき、神様の立場に立っていたからです。
だから、イエス様はこう言われました。「もし、裁判官の立場のために神様が彼らを『神』と呼ばれたのなら、神の独り子として、私は『神』と呼ばれるのにふさわしいでしょう。」
動物でも人間でも、親子はいつも同じ本質を持っています。だから、もしイエス様が神の子であるなら、イエス様は誰でしょうか。
そして、イエス様はご自身の人生について語られました。イエス様は常に神様の働きに参加し、いろいろな奇跡を行われました。ユダヤ人たちはそれを知っていました。それを見ました。それでもなお、彼らはイエス様を拒絶しました。なぜでしょうか。
私にはわかりません。
もしかしたら、イエス様の教えと行動が彼らの期待と違っていたからかもしれません。それでも、彼らは自分たちの考え方を変えることなく、イエス様に背を向けました。
現代でも、多くの人々は同じことをします。彼らはイエス様に出会うのに、イエス様は彼らの期待するものと違います。
もしかしたら、イエス様が彼らの罪を示したため、彼らは気分を害するのかもしれません。そして、彼らは自分の罪にしがみつきたいという理由でイエス様を拒絶するのです。
あなたはどうでしょうか。「神様を見るなら、私は信じる」と言いますか。おそらく、見ても信じないでしょう。もし信じる意志がないのなら、何を見ても信じることはないでしょう。
そのことを認め、自分自身を欺くのをやめましょう。
しかし、それよりも大切なことは、心をイエス様の前に柔らかくすることです。そうすれば、あなたは本当の命を見つけることができるのです。
