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詩篇

不義を見る時

裁判官が有罪の人を自由にさせるのを見ると、私たちは皆フラストレーションを感じると思います。

もしかしたら、警察や検事のミスによって、その被告は解放されたのかもしれません。または、堕落した裁判官や陪審員のため、その被告が解放されたのかもしれません。

だから私たちは怒って叫びます。

しかし、こんな問題は新しいものではありません。詩篇58篇では、ダビデは同じ問題について嘆いています。

力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか。

いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐を、はびこらせている。(詩篇58:1-2)

どうしてこの世にそんな問題があるのでしょうか。

理由の一つとして、私たち皆が生まれた時から罪人であることが挙げられるでしょう。生まれた時から、私たちは自分の欲望に引っ張られています。(3)

それに、神様が正しい道を教えるのに、私たちは自分の耳を閉じます。(4-5)

だから、ダビデは神様が悪人を裁いてくださるように叫びます。けれども、ダビデのように、私たちは裁きの日が来ることを確信できるので、慰められます。神様がこの世に来るとき、すべての悪人は一掃されます。その日、

人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」(11)

その日を待つのは難しいでしょうか。不義を見るとき、フラストレーションを感じるでしょうか。もちろんです。

けれども、失望しないでください。他の詩篇で、ダビデはこう書きました。

悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。

彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。(37:1-2)

だからこそ、毎日、私たちは神様を信頼し続け、良いことを行い、主をおのれの喜びとし、私たちの道を主にゆだねましょう。(37:3-5)

そうすれば、この悪の時代にも、私たちはこの世に神様の働きと、私たちの人生に神様の働きを見ることができます。

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ハバクク書

悪のある世に神様に信頼する

ハバククは預言者でした。おそらく彼はエレミヤと同時代に預言しました。つまり、ハバククはヨシヤの息子エホヤキム王の治世に活動したと考えられます。

エホヤキムの兄弟であるエホアハズは、王としてわずか3か月しかユダ王国を治めませんでした。その後、エジプトの王によってエホアハズは退けられ、エホヤキムがユダとエルサレムの王に据えられました。

エホヤキムの治世において、ハバククはユダの罪深い現状を目の当たりにしておののきました。ユダの民は再び偶像礼拝を始め、ハバククが見渡す限り、不義と悪が満ちていました。それゆえ、ハバククは神様に向かって切々と叫びました。

主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。

私が「暴虐」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。

なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。

暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行なわれません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行なわれています。(ハバクク書1:2-4)

そのような言葉を聞いたことがありますか。

また、あなたはそのような祈りをしたことがあるでしょうか。

ハバククが自分の時代に目にしたことは、私たちが現代でも目にすることです。暴力。不義。私たちの法制度は、時として機能していないように見えることがあります。正義は曲げられています。

そのため、ハバククは神様に向かって叫びました。「どうしてですか?どうしてあなたは何もしないのですか?どうして、この悪をお許しになるのですか?」

神様はどのように答えられたのでしょうか。神様はハバククにこう言われました。「バビロン人を通して、ユダを裁きます。」

その時代まで、アッシリアとエジプトは大国として君臨していました。けれども、バビロンがその地位を奪い、神様はバビロンを用いてユダと他の国々を、その罪のゆえに罰すると告げられました。(1:5-11)

これを聞いたハバククはこう答えました。「少々お待ちください。バビロン人たちは私たちよりも罪深い人々です。そんな彼らを通して、私たちを罰するのですか?どうして、そのような人々を用いるのですか。」(1:12-13)

神様は答えられました。

「バビロン人がユダの民よりも罪深い人々であることは知っています。それでも、私はバビロンを通してユダと他の国々を罰します。しかし、覚えておきなさい。彼らにも裁きの日が来ます。その時、彼らは倒れるでしょう。」

このやり取りの中で、神様はハバククに非常に大切なことを教えられました。神様はこう言われました。

「バビロン人は高慢な人々です。彼らは自分たちの力を誇り、偉そうに振る舞います。彼らは自分自身に信頼しています。しかし、ハバクク、「正しい人はその信仰によって生きる」(2:4)。」

新約聖書で、パウロはその箇所を何度も引用しました。また、マルティン・ルターがプロテスタント宗教改革を始めた際、その箇所は彼の信仰の基礎となりました。

そして、悪が満ちた世界の中で、神様はハバククにこのメッセージを伝えられました。「私に信頼しなさい。私は良い方です。私は正義の神です。そして、私はこの世に正義をもたらします。」

神様はこう言われました。

幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。

もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。(ハバクク書2:2ー3)

そして、バビロンの裁きを告げられた後で、神様はハバククに語られました。

しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ。(ハバクク書2:20)

つまり、「ハバクク、私はこの状況を支配しています。あなたにはそれが見えないかもしれません。けれども、私は確かにこの状況を完全に支配しています。そして、ある日、この世の民は私の前にひれ伏します。だから、私を信頼しなさい。」

ハバククはどのように反応したでしょうか。彼は祈りを捧げ、神様を賛美しました。

主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。

この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。(ハバクク書3:2)

私たちがこの世の悪を目にする時、私たちはハバククのように反応するべきです。つまり、神様を賛美し、神様の慈しみを覚えるべきです。神様が過去に行われた御業を心に留めるべきです。

そして、この壊れた世界のために祈り続けるべきです。神様の憐れみが私たちの上に再び注がれるように祈るべきです。

さらに、信仰によって歩むべきです。毎日神様に信頼し、この世において生きるべきです。

これがハバククの結論です。

そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。指揮者のために。弦楽器に合わせて。(ハバクク書3:17ー19)

主よ、この世には悪が溢れています。けれども、私がその悪を目にする時にも、あなたに信頼できるように助けてください。

また、あなたがすべてを完全に支配しておられることを信じることができますように。いつか正義が訪れると信じる心を私に与えてください。

主よ、壊れた人々に憐れみを注いでください。そして、どうか私を通して、彼らに触れてください。毎日、私が信仰によって歩むことができますように。アーメン。