カテゴリー
ヨハネの手紙第一

天の父を愛するか。この世を愛するか?

もしかすると、この箇所を書いたとき、ヨハネはイエス様の言葉を思い浮かべていたかもしれません。つまり、

どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。。。

人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。(ルカ6:13,15)

その言葉は、ヨハネの言葉に非常に似ています。

あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。

すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。(ヨハネの手紙第一2:15-16)

ちょっと想像してみてください。ある男性が自分の妻にこう言います。「もちろんあなたを愛している。でも、もう一人の女性も愛している。だから、私は自分をあなたにも、彼女にもささげる。」

その妻はどのように反応するでしょうか。その結果は悲惨なものとなるでしょう。

けれども、多くのクリスチャンはそのように生きています。

月曜日から土曜日まで、彼らはこの世のものを追い求め、それらにしがみつきます。彼らはお金や持ち物、快楽、権力を求め、この世が提供するものをできる限り手に入れようとします。彼らは一時的で儚いものを追い求めているのです。

そして、日曜日になると彼らは教会に行き、涙を浮かべながら「愛する、わが主よ」と歌います。

しかし、ヨハネによれば、それは愛ではありません。この世のものを愛しながら神様を愛することは不可能です。あなたの配偶者がそのような愛を受け入れないのと同じように、神様もそのような愛を受け入れることはありません。

神様は私たちの心の一部を望まれるわけではありません。神様は私たちの心の全てを望まれます。

神様は私たちの心の半分、80%、あるいは99%でも満足されません。私たちにとって神様は常に第一でなければなりません。他のものは二番目であるべきであり、一番と二番の間には大きな隔たりがあるべきです。

ヨハネはこう言います。

世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。(17)

簡単に言えば、私たちは儚いものか永遠のものを追い求めることができますが、同時に両方を追い求めることはできません。

では、なぜ私たちは儚いものを追い求めようとするのでしょうか。それを追い求めると、私たちの人生は空虚なものとなります。それは、売春婦との関係を求めるようなものです。最終的に、その売春婦はあなたのすべてを奪い、あなたを捨ててしまうでしょう。

しかし、神様を追い求めるなら、私たちは真の愛、真の喜び、そして真のいのちを知ることができます。それに、それらは永遠のものです。

あなたはどちらを選びますか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ15章 マタイ16章 マルコの福音書 マルコ8章

律法主義?それとも、この世を愛する?

私は、このブログで何度も言っていることですが、牧師のメッセージを聞くときも、ポッドキャストを聞くときも、クリスチャンの本を読むときも、その教えを必ず聖書と比べるべきです。

実際、このブログの記事も同様です。私が書く内容も、聖書と比べて確認する必要があります。(あなたがこのブログを読まれる際、ぜひ聖書の箇所も読んで、私の言葉を確かめてみてください。)

さて、この箇所では、私たちがなぜ人々の教えを聖書と比べるべきなのか、その重要性を学ぶことができます。

この箇所では、イエス様が5000人にパンを与える奇跡を繰り返されます。けれども、この出来事はまったく別のものです。人数も異なり、パンと魚の数も違っています。

その奇跡の後、パリサイ人たちとサドカイ人たちがイエス様のもとに来ました。(もしかすると、サドカイ人たちの中にはヘロデ王に従う者も含まれていたかもしれません。)

彼らは再びイエス様に天からのしるしを求めましたが、イエス様はそれを断られました。そして、その会話の後、イエス様は弟子たちにこう言われました。

パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。(マタイ16:6)

(マルコによれば、イエス様は「ヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と言われました。多分、イエス様はヘロデに従うサドカイ人たちについて話されたのでしょう。)

いつものように、弟子たちは混乱しました。

「私たちはパンを持っていない。でも、もしかすると、パリサイ人やサドカイ人からパンを買うことは禁止されているのではないでしょうか。」

しかし、イエス様は彼らを叱られました。

「なぜ、パンについて話しているのですか。あなたたちは、私が5000人にパンを与えた時、また、4000人にパンを与えた時のことをもう忘れてしまったのですか。私は、そんなパンについて話しているのではありません。」

そして、マタイはこう記しています。

彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。(マタイ16:12)

彼らの教えは何だったでしょうか。

パリサイ人の教えは律法主義でした。彼らは、自分の良い行動によって神様の国に入ることができると考えました。だから、彼らは律法を勉強し、その律法に従おうと懸命に努力しました。

ところが、彼らは神様の律法に多くのルールを加えたため、人々に神様が意図されなかった重荷を負わせました。それだけでなく、彼らは自分たちが加えたルールを守らない人々を批判しました。

さらに、彼らは神様の律法に反するルールさえも作り上げました。

それだけではなく、彼らは律法の細かな点に集中しすぎたため、その律法の精神を見逃してしまいました。その結果、彼らは誤って人々を裁き、本当の正義と憐れみを忘れてしまったのです。他の箇所を読むと、そのことがより明確にわかります。

一方、サドカイ人たちは富と力に強い関心を持っていました。そのため、彼らはローマ帝国(およびヘロデ王)と協力しました。また、彼らは復活を信じていませんでした。そのため、永遠の物ではなく、一時的な物事に重点を置いていました。

だからこそ、イエス様は律法主義とこの世を愛することに対して警告を発せられたのです。どちらもパン種のように教会の中に広まり、やがて神様がその教会を用いられなくなる原因となるからです。

残念ながら、その時代の多くの人々は、パリサイ人とサドカイ人の教えを吟味しませんでした。

そのため、彼らは律法とルールに押しつぶされ、神様に裁かれると感じました。また、別の人々は永遠の物に目を向けることなく、一時的な物のためだけに生きていました。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは、この二つの罠に陥っていないでしょうか?