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ピリピ人への手紙のデボーション

恐れおののいて

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)

「恐れおののいて。。。」

今日、その言葉を嚙み締めていました。

「恐れおののいて」というのは、どういう意味でしょうか。

自分の手紙の中で、パウロはその表現を三度使いました。その表現を使うたびに、パウロはイエス様への従順について話していました。

第二コリント7:15では、コリント人たちはテトスを恐れおののきながら迎えました。なぜなら、テトスはコリント人たちが従順したイエス様を代表していたからです。

エペソ6:5では、奴隷たちはイエス様に恐れおののいて従っていたように、自分の主人にも従うべきでした。

そして、今日の箇所では、ピリピ人たちがいつも従順であったように、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めるべきでした。

ある意味、十字架でイエス様は私たちの救いを完全に達成したけど、私たちがイエス様に従い仕えることで、私たちの救いの益をより完全に経験します。そして、救いの最大の益は、私たちを深く愛してくださる神様との関係の回復です。

だから、救いを達することの大部分は、その回復された関係の中で、毎日毎日、一瞬一瞬を歩むことを学ぶことなのです。

でも、どうして恐れおののいてそうするべきでしょうか。

なぜなら、イエス様はすべての名にまさる名を与えられ、すべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白しますから。

もしかしたら、パウロはその言葉を書いたとき、引用したイザヤ書45:23だけではなく、詩篇2編をも考えていたかもしれません。

詩篇2編は、メシアに関する詩篇です。その詩篇では、神様はイエス様を全世界の王として立てます。そして、イエス様に反抗する人たちのすべては滅ぼされます。そのような人々はイエス様の怒りを恐れるべきです。

でも、主に身を避ける人は喜びを知ります。(詩篇2:12)

だから詩人はこう書きました。

恐れつつ、主に仕えよ。おののきつつ喜べ。。。(詩篇2:11、脚注にある別訳)

上記の言葉はパウロの言葉に似ていますね。もしかしたら、「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」と言ったとき、詩人の言葉を考えていたかもしれません。

私たちはイエスと対等ではありません。

イエス様は王の王と主の主です。イエス様は私たちの従順にふさわしい方です。そして、イエス様はいつかすべての反逆者を裁きます。

そういうわけで、私たちはイエス様を軽んじてはいけません。

でも、イエス様を私たちの主と認めるなら、私たちが神様からの罰を恐れる必要はありません。裁きは私たちのためではなく、神様の敵のためですから。

むしろ、畏敬の念を抱き、さらに喜びの歌を歌って、イエス様に仕えます。(詩篇2:11;ピリピ2:13;詩篇100:2)

私たちはおののきながら、神様が私たちに与えてくださった恵を喜びます。神様がみこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださることを喜びます。(ピリピ2:13)

もう一人の詩人は「恐れおののいて自分の救いを達成する」というコンセプトをまとめたと思います。

知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(詩篇100:3-5)

だから今年、私たちの主とその救いを軽んじないようにしましょう。

むしろ、恐れおののいて、また、喜びをもって、自分の救いを達成するよう努めましょう。

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サムエル記第一のデボーション

諦めないで

サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕えなさい。

役にも立たず、救い出すこともできない、空しいものを追う道へ外れてはならない。それらは、空しいものだ。

主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。(サムエル記第一12:20-22)

時々、私たちは自分の罪と失敗を見て、クリスチャンとして落胆してしまいます。どうして神様が私たちを受け入れることができるのかと疑問に思います。

でも、サムエルの言葉によって、希望を持ちましょう。罪に落ちても、失敗しても、主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕え続けましょう。

どうしてでしょうか。なぜなら、主はご自分の民を捨て去りはしないからです。

私たちが素晴らしい者だからではなく、むしろ、神様が素晴らしい方だからです。そして、主は、私たちをご自分の民とすることを良しとされました。

さらに、サムエルがイスラエル人たちのために祈り、正しい道を教えたように、イエス様、そして聖霊様も、私たちのために同じことをしてくださいます。(ローマ8:26〜27、34;ヨハネ14:26;16:13;第一ヨハネ2:27)

だから、諦めないでください。むしろ、サムエルの言葉を心に留めておきましょう。

ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。

主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。(24節)

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コリント人への手紙第一

どのような心で主に仕えるか?

ある程度、私は前回のブログの内容を繰り返します。しかし、今回は特に強調したい点があります。

まず第一に、神様と共に働くことは私たちの特権です。パウロは次のように語りました。

私たちは神のために働く同労者であります。(コリント人への手紙第一3:9)

聖書の脚注を参考にすると、別の訳を見ることができます。

「私たちは神の協力者。」

この言葉について少し考えてみましょう。神様は実際には私たちの助けを必要とされません。神様は一人でご自身の働きを成すことができます。

しかし、神様は私たちを用いることを選ばれます。そして、神様は私たちをその働きに参加するよう招いておられます。それは本当に驚くべきことです。

神様が私たちを救われた目的は、単に座って神様の恵みを享受することではありません。神様は、私たちが御国において積極的に働くことを望まれます。

だから、神様は私たちを招いておられます。「私の働きに参加しませんか。一緒に働きましょう。」

しかし、二つ目のポイントは、神様が私たちを招かれる目的が、私たちの栄光ではないということです。パウロは次のように語りました。

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。

あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。(5)

しもべは周囲の人々の注意を引こうとはしません。本当に良いしもべは、人に気づかれることがありません。それでも、その人は与えられた務めを忠実に果たします。

そして、一日の終わりに、その人はこう言います。

私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです。(ルカ17:10)

この世の主人はしもべを評価しないかもしれず、あるいは見下すことさえあるかもしれません。しかし、神様は私たちを協力者として見なされ、私たちと共に働かれます。

なぜなら、神様が私たちの人生の中で働かれず、また私たちを通して働かれなければ、私たちは何も達成することができないからです。だから、パウロは次のように書きました。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。(6)

したがって、私たちには誇るべき余地はありません。パウロは続けてこう言います。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(7)

最後に覚えておくべきことは、神様の働きに参加する人々は教会のリーダーたちの労働者ではないということです。彼らは神様の畑であり、神様の建物なのです。(9)

多くの人々は、ミニストリーの縄張りを作りがちです。同じミニストリーに携わっていると、それを自分の縄張りと考え、そこで働く人々を自分の労働者のように思い始めてしまうことがあります。

しかし、主はそれぞれの人々に働きを任命されます。そして、主は常に人々をその働きに参加するよう招いておられるため、新しい人々が加わると、既存の人々の責任が変わることもあります。それは御国の成長のためなのです。

しかし、イエス様が他のクリスチャンを招くとき、あるクリスチャンは怒ることがあります。なぜなら、新しく加わった人々が自分の縄張りを脅かしていると感じるからです。

そして、もしその人々がより才能に恵まれていたなら、彼らは嫉妬してしまうでしょう。

しかし、心に留めておきましょう。すべてのクリスチャンはキリストの体の中で、それぞれの役割を持っています。神様は一人ひとりに異なる働きを与えてくださいました。

私たちはもちろん神様と共に働きますが、同時に他のクリスチャンたちと協力して働くのです。

だからこそ、縄張り意識と嫉妬を手放しましょう。教会は神様の畑であり、神様の建物なのです。

何よりも、私たちは神様との関係に焦点を当てるべきです。神様が私たちをご自身の働きに招く理由は、私たちが神様とより多くの時間を過ごすことです。その中でこそ、私たちは本当の喜びを見つけるのです。

あなたは神様の働きをするとき、どのような心構えを持っていますか。

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ヨシュア記

誰に仕えるでしょうか

昔、有名な歌手ボブ・ディランが、こう歌いました。

確かに、誰かに仕えなくてはならない。
必ず誰かに仕えなくてはならない。

悪魔に仕えるかもしれない。
主に仕えるかもしれない。
けれども、誰かに仕えなくてはならない。

ディランがこの歌を作ったのは、1979年のことです。 そのとき、それは確かに真実でした。 ヨシュアの時代にも、それは変わらず真実でした。 そして、今もなお、それは変わらぬ真実です。

この箇所で、ヨシュアはイスラエルの民に対して、神様が彼らのためにどれほど多くのことをしてくださったかを思い起こさせました。 けれども同時に、もし彼らが神様に背を向けるなら、神様は彼らを罰せられると警告しました。

さらにヨシュアは、彼らにアブラハムの父テラのことを思い出させます。 テラは、他の神々に仕えていました。 そしてイスラエルの民自身もまた、エジプトで他の神々に仕えていたのです。

そのような背景を語ったあとで、ヨシュアはこう言いました。

今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。

もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア記24:14-15)

私たちもまた、同じ決断を迫られています。 私たちは、いったい誰に仕えるのでしょうか。 神様に仕えるのでしょうか。 それとも、自分自身に仕えるのでしょうか。

お金に仕えるのでしょうか。 性の「神」に仕えるのでしょうか。 力の「神」に仕えるのでしょうか。

誰に仕えるのでしょうか。

ヨシュアは、こう語りました。 「たとえ、あなたがたがどのような選びをするにせよ、私と私の家は主に仕える。」

おそらく、このブログを読んでいる多くの人は、同じように言うことでしょう。 けれども、「神様に仕える」とは、いったいどういう意味でしょうか。

まず第一に、それは他の偶像を捨てることです。 この世界には、目に見える偶像だけでなく、目に見えない偶像も数多く存在します。

仏教やヒンドゥーの像だけではなく、金銭の「偶像」や性の「偶像」、力の「偶像」もあります。 何かを礼拝するなら、それはすでに偶像になっているのです。

もし私たちが神様に仕えたいと願うなら、 神様を人生の第一にしなければなりません。 そして、あらゆるものを神様の御支配のもとに置くべきなのです。

ヨシュアはこう言いました。

今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。(24:23)

もちろん、それは、お金をすべて捨てることでも、結婚生活の中で性を断つことでも、リーダーシップの立場を降りることでもありません。 けれども、どんなことをするにも、私たちの心が神様に向かっていなければならないのです。

つまり、 「神様、あなたこそが私の人生の主権者です。 私の性においても、お金においても、立場においても―― 私の人生のすべてをあなたの御支配のもとに置きます。」 という姿勢が必要なのです。

そして、これまでに他の神々を礼拝してきたなら、 たとえば仏陀やアラーに向かって礼拝していたなら、 それをやめなければなりません。 なぜなら、二人の主に仕えることはできないからです。

ヨシュアは、こう言いました。

主は聖なる神であり、ねたむ神である。(24:19)

神様に仕えるということには、もう一つの大切な意味があります。 それは、心から神様を愛し、その愛ゆえに従っていくということです。

ヨシュアは、こう語りました。

あなたがたは、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行い、そこから右にも左にもそれてはならない。。。

あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。(23:6,11)

イエス様もこう語れました。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。(ヨハネ14:21)

しかし、もう一つ大切なことを心に留めておかなければなりません。 私たちは、自分の力だけでは神様に仕えることができないのです。

ヨシュアは、イスラエルの民にこう語りました。

あなたがたは主に仕えることはできないであろう。(24:19)

おそらく、ヨシュアがそう語ったとき、 彼は単にイスラエルの民にチャレンジを与えたかったのだと思います。

「あなたがたは本当に神様に仕える覚悟があるのか。 その約束は、心からのものなのか。」

けれども、その言葉は比喩ではなく、文字通りに正しかったのです。

聖霊が私たちの心の中で働かれなければ、 私たちは神様に仕えることができません。 聖霊が私たちを内側から造り変えてくださらなければ、 私たちは神様に従い続けることができないのです。

だから、私たちは日々、こう祈る必要があります。

「聖霊様、今日も、私の心を一新してください。 私の内側を清めて、あなたのかたちに似た者として造り変えてください。 私は、あなたに仕えたいのです。」

これこそが、神様に仕えるということの本当の意味です。

あなたは、誰に仕えているでしょうか。