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詩篇

主に身を委ねる

詩篇10篇で、ダビデは祈りながら、ヨブの疑問を繰り返し問いかけます。彼は叫びます。

主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。(詩篇10:1)

そして、ダビデは、なぜ悪人が高ぶり、神様を拒み、周りの人々を苦しめているにもかかわらず、栄えているのかを尋ねます。(2〜11節)

だから12節で、ダビデは主に請います

主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れないでください。

そのあと、ダビデは興味深いことを言います。

あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。

不幸な人は、あなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした。(14節)

「不幸な人は、あなたに身をゆだねます」という表現は、私の心を打ちます。

普通、「委ねる」という言葉は、聖書では「捨てる」と訳されることがあります(例えば、ヨシュア記1:5)。

つまり、ある人がとても苦しんで、もうどうしても何もできないとき、お金への信頼を捨てたり、自分の力への信頼を捨てたりして、自分の人生のすべてを神様に捧げます。そして、神様にすべてを委ねます。

ダビデは、そのような人についてこう言います。

主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて、みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。(17-18節)

日本語では、「心を強くしてくださいます」と訳されます。けれども、「強くする」という表現は、ヘブル語ではもっと深い意味があります。「彼らの心を強くし、整え、導く」という意味です。

私たちが身を神様に委ねると、神様は私たちを励まし、神様の計画のために私たちの心を整え、導いてくださいます。

とはいえ、私たちの身を神様に委ねるというのは、どういう意味でしょうか。

一つ目は、私たちの疑いを捨て、神様に信頼することです。つまり、私たちはこう祈ります。「どうして、こんな大変なことが起こったか分かりません。どうして、あなたが遠く離れているようなのか分かりません。それでも、私はあなたに信頼します。」

ヨブはその態度を学びました。

二つ目は、私たちの力と知恵で自分の問題を解決することを諦めることです。例えば、誰かが私たちを傷つける時、「論理的な解決」は復讐です。しかし、神様に身を委ねることは、復讐の権利を捨て、神様の手に正義を委ねることです。

伝道師オズワルド・チェンバーズはこう書きました。

「捨てる」と「委ねる」の証拠は、「神様がこう言ったことを知っているけど、この場合はどうですか」と訊かないことです。

自分の考えや想像に気を付けてください。「この場合はどうですか」と考え始めたら、それはあなたが神様に身を委ねていないことを表しています。

しかし、あなたが神様にすべてを委ねたら、もう神様が何をするかを考えなくなります。

「委ねる」というのは、質問を訊く権利を捨てることです。

そうすれば、あなたはこの世でもっとも驚かされる人、また、もっとも喜んでいる人になります。なぜなら、神様があなたのすべてを持っておられるなら、神様は本当の命をあなたに与えてくださるからです。

イエス様はこう言われました。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)