今日は4章の聖句を一旦飛ばし、次の記事でその聖句に戻りたいと思います。今日は前回の話を完成させたいと思います。
以前の記事で述べたように、もし私たちが本当に神様を知り、愛しているなら、周りの人々への愛が私たちから自然に流れ出るはずです。だからこそ、ヨハネはこう語りました。
生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。(ヨハネの手紙第一5:1)
また、4章の終わりでヨハネは、「目に見える兄弟を愛していない人が、目に見えない神を愛することを主張することはできない」と言います。(4:20)
それでも、クリスチャンになったからといって、すぐにすべての人々を愛せるわけではありません。愛の実は、他の御霊の実と同じように、成長するのに時間がかかります。けれども、その実は必ず成長していきます。
2節には非常に興味深い言葉があります。ヨハネはこう言います。
このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。(2)
4章で読んだ内容から、ヨハネが反対のことを言うだろうと予想したかもしれません。つまり、「どうして私たちは自分が神様を愛していると知ることができるのでしょうか。それは、私たちが神様の子どもたちを愛するからです」ということです。
しかし、ヨハネが実際に語ったのは、「神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛する」ということです。
この二つの言葉の間には微妙な違いがあります。その違いは、私たちの焦点にあります。
最初の言葉では、自分が神様を愛していることを証明するために、私たちは一生懸命に周りの人々を愛することに焦点を当てています。けれども、人を愛するのが難しいときもあるので、その言葉は重荷になりがちです。
一方で、二つ目の言葉によれば、私たちは人々を愛することに集中せずに、神様を愛することに集中します。人々ではなく、神様が私たちの焦点です。
そして、神様ご自身や、私たちに対する神様の愛、さらには神様に対する私たちの愛に焦点を当てることで、私たちは自然に神様を喜ばせたいと思うようになります。その結果、私たちは神様の命令を守るのです。
最も重要な命令は二つあります。一つ目は、私たちは何よりもまず神様を愛するべきだということです。二つ目は、私たちは周りの人々を愛するべきだということです。これが愛の順序です。
したがって、神様を愛することに集中するならば、私たちは自然に人々を愛し始めます。
さらに、私たちが主に神様を愛することに集中すると、周りの人々を愛するという重荷が軽くなります。それはなぜでしょうか。
神様に焦点を当てると、私たちは神様の愛をもっと深く知るようになります。そして、その愛を受け入れれば受け入れるほど、私たちの視点が変わります。自分自身に対する視点も変わり、周りの人々に対する視点も変わるのです。
もはや、私たちは自分自身や周りの人々を性格や外見の美しさによって判断しません。むしろ、私たちは神様の目を通して自分自身と周りの人々を見るようになります。
神様は、私たちをゆがめる罪を見るのではなく、初めから私たちに与えてくださった神の似姿をご覧になります。その姿を見るとき、私たちが自分自身や周りの人々を愛することが、より簡単になります。
だからこそ、ヨハネは、神様の命令、特に人を愛するという命令に関して次のように語ることができるのです。
神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(3-4)
神から生まれた者は皆、神様の愛をますます深く知るようになります。そして、その自然な反応として、彼らは神様を愛し、周りの人々を愛するようになります。だからこそ、私たちは罪や憎しみ、そしてこの世界からの攻撃を乗り越えることができるのです。
しかし、そのカギを決して忘れないでください。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(5)
あなたはどうでしょうか。イエス様が神の子であると信じますか。イエス様があなたの罪のために命を捧げたほどに、神様があなたを愛しておられることを信じますか。その真理に深く浸りましょう。そうすれば、あなたの人生は完全に変わるでしょう。
