以前の記事で私は言いましたが、あるクリスチャンたちは神様を自分の人生のアップグレードとして考えます。そういうわけで、彼らはほとんどいつも通りの生活を続けながら、自分の人生に宗教的な要素を付け加えます。
例えば、彼らは教会に行ったり、祈ったり、聖書を読んだり、ある悪い習慣を捨てたりします。けれども、それ以外の点では、自分勝手に生きているのです。
しかし、神様はただ私たちの人生をアップグレードしたいとは思っておられません。神様は私たちの主になりたいのです。
さらに、神様はただ私たちの人生を改良したいと思っているのではありません。神様は私たちを新しい者にしたいと望んでおられるのです。
神様は、私たちがイエス様のようになり、この世の人々に神様の代表者となるようにと望んでおられます。
だからこそ、ペテロはこう言うのです。
異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。(ペテロの手紙第一2:12)
その言葉は、イエス様の言葉に似ています。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)
キリストのしもべとして、私たちはこの世におけるイエス様の代表者です。私たちはもはや自分のために生きるのではなく、むしろイエス様の代表者として生きるのです。
だからこそ、神様は私たちの言動を気にかけておられます。というのも、私たちの言動によって、神様の御名が栄光を受けることもあれば、逆に恥をかけられることもあるからです。
私たちが神様を反映する方法の一つは、権威にどのように反応するかということです。私たちは神様が立てられた政府に尊敬を払うべきでしょうか。ペテロによれば、私たちはそうすべきです。(13-14)どうしてでしょうか。
善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。(15)
私たちが政府を尊重しない、つまり、権威を持つ人を尊重しない場合、私たちが代表する神様の御名を汚すことになります。そのうえ、それを人前で行うと、さらにその影響は大きくなります。
パウロは、大祭司の命令で打たれたときにもそれを心がけました。(使徒の働き23:2-5)
しかし、16節で私たちはペテロの主な要点を見ることができます。
自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。(16)
簡単に言うと、私たちは宗教のルールから解放されました。
けれども、その自由は罪や自分勝手な生活の言い訳として使うべきものではありません。私たちはもはや自分自身のものではないのです。なぜなら、私たちは代価をもって買い取られたからです。(第一コリント6:19-20)
だからこそ、神様のしもべとして生きましょう。では、そんな人生とはどのようなものでしょうか。ペテロはこう言うのです。
すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。(17)
あなたはどうでしょうか。あなたは良い代表者として生きているでしょうか。周りの人々があなたを見るとき、彼らはあなただけを見ているのでしょうか。それとも、もしかしたら、彼らはあなたを通して神様を見るでしょうか。
