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マルコの福音書のデボーション

天のお父さん、私は何を堅く守っているでしょうか。

パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく。。。

あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。(マルコの福音書7:3、8)

「堅く守っている」という言葉が、今日、私の心に深く残りました。

パリサイ人やユダヤ人たちは、自分たちの言い伝えを堅く守ることで、神様のことばを軽んじ、結果として神様ご自身をも軽んじてしまいました。口先では神様を敬いながらも、その心は神様から遠く離れていたのです。

現代にも、同じような問題が存在しています。人々は「クリスチャン」だと自称しながら、神のみことばを堅く守ることができず、代わりに現代の価値観を堅く保っているのです。

その結果、彼らもパリサイ人のように、口先では神様を敬っていても、心は神様から遠く離れてしまいます。

しかし、今日、私自身のことを思い巡らしました。

私は何を保とうとしているのだろうか。 イエス様とそのみことばに、私は本当にしがみついているのだろうか。

それとも、他のものにしがみついているのだろうか。 経済的な安定?自分のプライド? あるいは、悪い態度や罪そのもの?

イエス様、どうか私の心のすべてをあなたに捧げることができるよう助けてください。 私が、あなただけにしがみついて歩むことができますように。

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私たちの価値観の土台とは?

何によって、自分の価値観が基づいているのでしょうか。それは本当に重要な質問です。なぜなら、あなたの価値観が、あなたのさまざまな決断に影響を与えるからです。

パリサイ人たちにとって、モーセの律法や預言者の言葉は非常に大切なものでした。とはいえ、彼らにとって伝統はそれ以上に重要なものでした。

おそらく彼らは言葉では表さなかったかもしれませんが、行動でそれを示していました。そのため、時々彼らは神様の戒めを無視し、自分たちの伝統に従うことを選んでいました。

だからこそ、イエス様は彼らを厳しく非難されたのです。

あなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。(マタイ15:6)

あいにく、たくさんのクリスチャンがそのように生きています。神様の言葉を無にして、別の基準に従うのです。

ある人は自分の文化や伝統に従います。たとえば、仏壇で線香をあげる人がいます。

「それはただの文化的なことです。深い意味はありません。ただ日本の風習です。」

けれども、そのようにすることで、文化や伝統のために神様の戒めを無視しているのです。(第一コリント10:19-22)

文化は別の形で私たちに影響を与えることもあります。

例えば、アメリカでは、一部の人々がこう言います。「私はキリストを信じて従います。とはいえ、聖書が間違っていると信じ、同性愛は良いものだと考えます。」

なぜ彼らはそのように信じているのでしょうか。彼らは神様に反抗する文化にますます従っているからです。彼らの価値観は、この世の文化に合わせて調整されています。しかし、それをすることで、神様の戒めを捨てざるを得なくなります。

あるクリスチャンは自分の誤った意見を離さずに神様の戒めを捨てます。例えば、神様は「クリスチャンではない人と結婚してはならない」と言われます。

それでも、彼らはこう言います。「でも、私はこの人を愛しています。きっとなんとかなるでしょう。」

その結果、彼らは神様の戒めを捨て、その人と結婚するのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの価値観の基準は何でしょうか。文化でしょうか。伝統でしょうか。自分の意見でしょうか。

真実はただ一つの基準しかありません。それは神様の言葉です。

文化は変わるかもしれません。伝統は変わるかもしれません。あなたの意見も変わるかもしれません。しかし、神様の言葉は決して変わることはありません。

預言者イザヤはこう言いました。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40:8)

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マタイの福音書 マタイ9章 マルコの福音書 マルコ2章 ルカの福音書 ルカ5章

神様があなたを用いるために

ユダヤ人の宗教的なリーダーたちは、しばしばバプテスマのヨハネをイエス様と比較し、ヨハネの弟子たちに嫉妬心を抱かせようとしました。そして、ヨハネの弟子たちは、たびたびその罠にかかってしまいました。

ヨハネ3章では、あるユダヤ人(おそらくユダヤ人のリーダー)がヨハネの弟子たちにこう言いました。「イエス様があなたたちよりも多くの人々にバプテスマを授けていることを知っていますか。」

この箇所では、宗教的なリーダーたちの言葉によって、ヨハネの弟子たちはイエス様に「どうして断食しないのですか」と質問します。

なぜパリサイ人や他の宗教的なリーダーたちは、いつもバプテスマのヨハネとイエス様を比べたのでしょうか。それは、ヨハネがイエス様の証人だったからかもしれません。

ヨハネはイエス様のために道を整えましたが、もしヨハネとその弟子たちがイエス様を批判し始めるなら、その証言は台無しになってしまったでしょう。

イエス様が結婚式の比喩を用いられたのは偶然ではないと思います。なぜなら、ヨハネ3章でバプテスマのヨハネも同じ比喩を用いたからです。その時、ヨハネは自分自身を花婿の友人と比較し、イエス様を花婿と比べました。

そのため、イエス様はヨハネの弟子たちにヨハネの言葉を思い起こさせようとされたのかもしれません。

その時、ヨハネは牢に入っていました。彼の役目は終わっていたのです。それでも、なぜかヨハネの弟子たちはイエス様に従おうとしませんでした。彼らはアンデレの模範に従うべきだったのです。(ヨハネ1:35-40)

イエス様は彼らにこう言われました。

「ヨハネは、あなたたちに私が花婿だと語りました。花婿と共にいる時に、どうして周りの人々が断食したり悲しんだりする必要があるでしょうか。花婿が取り去られる時には断食するのが良いでしょう。

とはいえ、その時はまだ来ていません。私はまだここにいるのです。私が去る時が来たなら、その時、断食し、祈りなさい。」

そして、イエス様はたとえ話を語られました。イエス様は皮袋と衣服の継ぎについて話されました。その時代の人々には、このたとえがよく理解されていましたが、現代の私たちには少し分かりにくいかもしれません。

少し考えてみてください。もし古いジーンズに穴が開いたなら、新しいデニムの継ぎでそのジーンズを修繕しますか?それではうまくいきません。そのジーンズを洗うと継ぎが縮んでしまい、ジーンズ全体が裂けてしまうからです。

現代では、私たちはワインをビンに保存します。けれども、その時代の人々はワインをヤギの皮袋に入れていました。そのワインが発酵すると皮袋は膨らみます。しかし、新しいワインを古い膨らんだ皮袋に入れると、その皮袋はすぐに裂けてしまうのです。

では、イエス様はヨハネの弟子たちに何を教えようとされたのでしょうか。

「神様は新しいことを始めています。私は神の子としてここに来ました。罪によって滅びかけている人々に手を差し伸べています。私は永遠の御国を築いています。

けれども、あなたたちは古い皮袋のようです。あなたたちが自分の伝統や古い方法を愛しすぎるために、神様はあなたたちを用いることができません。」

パリサイ人は律法を愛しました。彼らにとって最も重要なのは人を救うことではなく、律法を守ることでした。彼らは人々を救うよりも、いけにえを捧げたり宗教的な儀式を行うことに関心がありました。

ヨハネの弟子たちは自分の師をあまりにも愛しすぎて、ヨハネの目的を忘れてしまいました。

その目的は単に人々にバプテスマを授けることではありませんでした。その目的は単に悔い改めのメッセージを伝えることでもありませんでした。その目的は人々の心をイエス様のために準備することだったのです。

しかしヨハネが牢に入れられた時、彼らはイエス様の元へ行かず、神様が彼らに与えた目的を逸れてしまいました。

神様はイエス様のミニストリーを通して、新しいぶどう酒(つまり、聖霊の働き)を人々に注いでおられました。それでも、ヨハネの弟子たちはヨハネの教えと伝統的な修行に固執して、「古い物の方が良い」と言ったのです。(ルカ5:39)

あなたはどうでしょうか。あなたの人生に聖霊の働きを歓迎していますか。

それとも、伝統にしがみついているでしょうか。律法主義にしがみついているでしょうか。それとも、古い方法に固執しているでしょうか。その方法が以前は効果的だったかもしれませんが、今はそうではないかもしれません。

もし神様があなたを用いることを望んでいるなら、神様が何をしているのかを見て、その働きに参加する必要があります。そして、あなたの伝統や古い方法を手放す必要があるかもしれません。

あなたは古い皮袋でしょうか。それとも新しい皮袋でしょうか。