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コリント人への手紙第一

何としても

この箇所は非常に有名です。

25-27節で、パウロは私たちの人生をマラソンに例えています。神様が定められたこのマラソンの中で、私たちは走り続けています。

では、私たちはどのような報いを求めているのでしょうか。それは、イエス様が私たちに託された使命を成し遂げるための冠です。

私たちに託された使命とは何でしょうか。それは、御国を広げることです。

では、その冠とは何でしょうか。詳細はわかりません。けれども、イエス様の教えによれば、私たちはイエス様の称賛を受け、イエス様の喜びを共に味わうことができます。

さらに、この世での忠実さに応じて、御国においてより大きな責任を委ねられるようです。(マタイ25:21、23)

だからこそ、私たちは自らに問いかけるべきです。その冠を得るために何をするでしょうか。何としても、神様から託された使命を果たすでしょうか。

パウロはこう記しています。

競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。

ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。(コリント人への手紙第一9:25~27)

少し考えてみてください。もしマラソンに参加しようと思うなら、ただ今日どのように人生を楽しむかを考えるのではなく、むしろ目的を果たすために今日の楽しみを犠牲にするでしょう。

例えば、ポテトチップスやハンバーガーを食べずに、健康的な食事を選びます。テレビやインターネットを見る時間を減らし、毎日努力して何時間も走ります。そうすれば、賞を得る可能性が高まります。

同様に、神様の御国を本当に広げたいと願うなら、私たちは自分の人生を中心に据えてはいけません。この世の快楽を追い求めるのではなく、むしろ御国に仕えるために、自分の欲するものを犠牲にしなければならない時もあります。

だから、パウロは福音を伝える際に報酬を受けることを断りました。その結果、より多くの人々がクリスチャンとなりました。

また、パウロはユダヤ人と共に食事をする際、クリスチャンとしての自由を犠牲にし、モーセの律法に従って聖い食べ物だけを食べました。

さらに、傷つきやすい良心を持つ人々と共に食事をする際も、クリスチャンとしての自由を犠牲にし、偶像に捧げられた肉を避けました。

けれども、私たちの多くは自己中心的です。自分自身を喜ばせることだけに意識を向け、時に自分の権利ばかりを考えすぎて、他者の気持ちを踏みにじってしまうことがあります。

あるいは、私たちはケチで、必要としている人々を助けないかもしれません。また、自分の時間を大切にするあまり、困っている人のために時間を割くことを避けてしまうこともあります。

もしかすると、ミニストリーにおいて、私たちの動機が誤っていることがあるかもしれません。私たちは、何よりも相手からの尊敬や金銭的な報酬を求めてしまうことがあります。

しかし、そのような態度を持つなら、裁きの日に失格者となり、冠を受けることはできません。

では、その冠を受けるために、何としても成し遂げようとするでしょうか。冠を得るために、今日の快楽を犠牲にするでしょうか。冠を得るために、自らの権利や時間、財産、プライドなどを犠牲にするでしょうか。

それとも、この世のものを求め、失格者となるでしょうか。

あなたはどう歩みますか?

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:なんとしても

私の一番好きなスポーツチームは、アメリカンフットボールのピッツバーグ・スティーラーズです。

1970年代にスティーラーズの監督が好んで使った標語は、「何としても」というものです。つまり、「何としても、勝たなければならない。」という意味でした。

イエス様にも、似たような態度がありました。けれども、イエス様は勝負について話されたのではありません。むしろ、罪について語られました。簡単に言えば、イエス様は「何としても、罪をあなたの人生から追い出しなさい。」と教えたのです。

イエス様はこう言われました。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイの福音書5:29-30)

ある人々は、この言葉を文字通りに解釈しますが、それはイエス様が意図された意味ではありません。イエス様は、あなたが自分の目や手を捨てることを望まれているのではありません。

イエス様が意味されたのは、私たちが罪について真剣に考えるべきだということです。けれども、多くの場合、私たちは罪を軽く考えます。

私たちは、「大丈夫。神様は赦してくださる」と考えます。山上の垂訓でのイエス様の教えに反して、私たちは自分の罪を嘆きません。むしろ、悔い改めることなく罪を犯し続けます。

しかし、イエス様が十字架で死なれた理由は私たちの罪のためです。自分の罪のため、人々は地獄に行きます。イエス様に出会う前、私たちは自分の罪のために地獄に行くことに値していました。

どうして、私たちは自分の罪を軽く考え、悔い改めることなく罪を続けることができるでしょうか。

だからこそ、イエス様は「何としても、罪を捨てなさい」と教えます。では、どうやって罪を捨てることができるのでしょうか。

1.祈り。 私たちには、自分の力で罪に勝つことはできません。神様の力が必要です。

2.できるだけ誘惑を避けること。 例えば、アルコール依存の問題がある場合、バーなどに行かない方が良いでしょう。情欲の問題がある場合は、インターネットの利用に注意し、ポルノを販売している場所を避けるべきです。

3.クリスチャンの友人に問題を伝えること。 その人に祈りを頼み、時々その罪についてチェックしてもらうようにお願いするべきです。

ヤコブはこう書いています。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)

あなたの罪を軽く考えないでください。イエス様は決してそのようにはされませんでした。あなたの罪のために、イエス様は十字架で死なれたのです。

ですから、神様が聖であるように、あなたも聖でなければなりません。