どれくらい私たちは神様を侮るでしょうか。
あなたは「神様を侮る?私は、神様を侮らないよ。」と言うかもしれません。
けれども、私たちが神様が造られた人々を見下す時、実は私たちは神様を侮るのです。
ソロモンは何度もそう教えていました。
貧しい者はその隣人にさえ憎まれるが、富む者を愛する人は多い。
自分の隣人をさげすむ人は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。(箴言14:20-21)
箴言を読むとき、時々私たちは20節のような箇所を見て考えます。「これは神様が望んでおられるのだろうか。」
実は、それは神様の希望ではありません。ソロモンは現実に実際に起きていることを説明しているだけです。金持ちはたくさんの友達がいますが、彼らのお金がなくなったら、その友だちもすぐにいなくなってしまいます。
放蕩息子の話がその一例です。(ルカ15章)
しかし、『現実』がいつも神様の望まれる姿であるとは限りません。
神様が語られたのは、私たちが人々を侮るとき、特に苦しんでいる人を侮るとき、それは実際には神様ご自身を侮っていることになる、ということです。
けれども、私たちがそのような人々を祝福するなら、神様は私たちを祝福してくださいます。
31節で、ソロモンはこう言います。
寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。
17章で、ソロモンは同じようなことを言います。
貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる。人の災害を喜ぶ者は罰を免れない。(17:5)
どうして、私たちが人々を侮る時に、私たちは本当に神様を侮ると書いてあるのでしょうか。
二つの理由があります。
一つ目は、人々を侮る時、私たちは神様に「この人を造られた時、あなたはミスされた。この人は侮りにふさわしい人です。」と言っていることです。
二つ目は、私たちは神様のかたちとして造られたものを侮っていることです。私たちが彼らの顔につば吐きをかけたら、神様のかたちにつば吐きをかけることになります。
あなたはどうですか。貧しい者やホームレスを侮るでしょうか。弱い人を見下すでしょうか。そんな人を侮る時、私たちはイエス様を侮っているのです。
しかし、彼らに親切にするとき、私たちはイエス様に親切にしているのです。イエス様はこう言われました。
まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。(マタイ25:40)
あなたは周りの人々をどのように考えますか。
