ヤコブはこう記しています。
私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブ3:1)
あるクリスチャンは、教師としての地位を求めることがあります。けれども問題なのは、聖書を教えたいと願っていながら、自分では聖書をよく知っていると思っているものの、実際には十分に理解していないということです。
さらに、その動機が不純であれば、その問題はさらに深刻になります。
こうした背景の中で、パウロはテモテに対し、偽教師をどのように扱うべきかを語っています。
この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込み、(テモテへの手紙第一1:5-6)
パウロの意図は、少し解釈が分かれるところです。彼が求めていたのは、偽教師たちが「清い心、健全な良心、偽りのない信仰から出る愛」を生み出すことだったのでしょうか。
あるいは、パウロが本当に望んでいたのは、エペソのクリスチャンたちがそのような愛に満ちた歩みをすることだったのかもしれません。
いずれにせよ、はっきりしているのは、偽教師たちはもはや愛に満ちた心から教えてはいなかったということです。さらに、彼らは清い心と健全な良心、偽りのない信仰を見失ってしまっていました。
むしろ、この世を愛し、富を得ることを望んでいたようです(6:3-10)。
皮肉なことに、その一方で彼らは禁欲的な生活を人々に教えていました(4:2-3)。
また、愛と教会の一致を教えるのではなく、むしろ争いや論争を引き起こしていました。
しかし、以前にも述べたように、彼らの最大の問題は、聖書を教えようとしていながら、実際には聖書を正しく理解していなかったという点です。そのような者たちについて、パウロはこう語っています。
律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません。(7)
これらの偽教師たちは、モーセの律法を教えようとしていましたが、律法の目的を正しく理解していませんでした。
パウロによれば、律法は正しい人のために与えられたものではありません。つまり、律法は神によって義と認められているクリスチャンのためのものではないのです。
むしろ、律法はクリスチャンではない人々のためにあり、彼らが律法を通して自らの罪を知り、神に立ち返り、救いへと導かれるためのものです(8-11)。
しかし、偽教師たちはこの真理を理解していなかったために、クリスチャンたちを誤った道へと導いてしまったのです。
残念ながら、今日でも多くの人がこうした偽教師のように、確信をもって聖書を教えてはいるものの、自分の語っている内容や主張している事柄について、正しく理解していません。その結果、多くの人々が惑わされてしまうのです。
では、あなた自身はどうでしょうか。あなたは牧師ですか。それとも教会の教師でしょうか。バイブルスタディーを導いているでしょうか。日曜学校で教えているでしょうか。あなたはどのような教師だと言えるでしょうか。
あなたの動機は何でしょうか。プライドでしょうか。それとも、人々からの尊敬を求めているのでしょうか。あるいは、あなたの動機は愛でしょうか。
あなたは、バイブルのメッセージを語るためにきちんと準備しているでしょうか。また、日々聖書を読み、神のことばに親しんでいるでしょうか。あなたは本当に聖書をよく知っているでしょうか。
もしかすると、確信をもって聖書を教えていながら、自分が語っていることや主張している事柄を実は理解していないということはないでしょうか。
多くの人は教師になるべきではありません。なぜなら、その教えに対して、より厳しいさばきを受けるからです。
さばきの日に、イエス様はあなたに何と語られるでしょうか。