カテゴリー
ミカ書

私ができるから

この箇所では、神様が人々を傲慢の罪のために責めておられます。

時として、人々は意図せずに罪を犯すことがあります。例えば、私たちは急に怒り、その怒りを悪い方法で表現してしまうことがあります。

けれども、この箇所では、その人々は自分たちの罪を計画し、その計画を実行しました。罪を犯していることをよく知っていながら気にしなかったのです。彼らがその計画を実行できる力を持っていたからです。

ですから、神様はこう言われました。

ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行なう者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。(ミカ書2:1)

そして、神様はこう警告されました。「裁きが訪れます。そして、その裁きから逃れることはできません。」

見よ。わたしは、こういうやからに、わざわいを下そうと考えている。あなたがたは首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだ。(3)

どれほど私たちはあえて罪を犯すのでしょうか。つまり、罪を犯す機会があり、誰にも知られず、誰も私たちを止められないから、私たちは罪を犯してしまうのです。

例えば、昔はポルノを見たい場合、店で購入しなければなりませんでした。そうすると他の人々にその罪が知られる可能性があったため、クリスチャンにとっては恥ずかしいことでした。

けれども、今では誰にも知られずにインターネットを通じてポルノを見ることができるため、多くのクリスチャンがその罪に陥っています。

さらに、多くの人々は不倫をします。それは罪を犯す機会があり、誰にも知られないと思うからです。

しかし、神様はすべてをご存じです。そして、結局その罪は必ず現れるのです。この世で現れないかもしれませんが、死後、その罪が現れ、神様が必ず裁きをされるのです。

ですから、罪を犯す機会が来たとしても、そこから逃れましょう。罪を犯す選択肢があっても、それをしてはなりません。

パウロが言ったように、

また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ローマ6:13-14)