多くの人々は救いについて、なぜクリスチャンがそれほど排他的なのか疑問に思います。つまり、なぜクリスチャンは、イエス様以外には神様への道がないと主張するのでしょうか。
私は、ほかの宗教にも良い点があることを認めます。多くの宗教は悪に反対し、善行を促します。何が良いことであり、何が悪いことであるかについて、それぞれの宗教の教えは完全に一致するわけではありませんが、共通点は多くあります。
しかし、問題は宗教とその儀式が神様を描くという点にあります。ユダヤ教の場合、その描写は比較的正確です。なぜなら、神様ご自身がユダヤ人に対して、律法と儀式を通してご自身に関する描写や、キリストに関する描写を与えてくださったからです。
けれども、その他の宗教における神様の描写は、神様がどのような方であるかをほとんど分からなくするほどに、歪められています。そのため、その宗教の律法や儀式は、人々を神様へと近づけることができません。
ユダヤ教は他の宗教よりも優れていますが、それでもユダヤ教の律法と儀式は、イエス様と救いの現実そのものではなく、ただの描写にすぎません。
ユダヤ教の儀式、祭り、犠牲は、イエス様とその十字架の犠牲を描写していますが、それらは単なる象徴であり、現実ではありません。イエス様とその十字架の犠牲こそが現実なのです。
したがって、ユダヤ教の儀式、祭り、犠牲には、人を救う力がありません。そして、もし神様が定められた儀式や祭り、犠牲が人々を救うことができないのであれば、ましてや他の宗教のものが人を救うことはできないでしょう。
だから、パウロはこう言いました。
あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。
あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。(ガラテや人への手紙4:9-11)
パウロは、かつての神々や修行について、ガラテヤ人たちに語ります。パウロは言いました。
「あなたたちが救われる前、本来神ではない神々の奴隷でした。救いをもたらすことのできない儀式や祭りを祝うように強制されていました。
けれども今や、あなたたちは知っているでしょう。あなたたちは神様を知っており、神様にも知られています。神様の子供として、神様と親しい関係を持っているのです。
それなら、どうして弱くて力のないものに戻ろうとしているのですか。あなたたちは、かつての神々や修行に戻っているわけではないかもしれません。けれども、今や自分の救いを得るために、ユダヤ教の儀式や修行に従い始めています。
ところが、かつての儀式や修行と同じく、ユダヤ教の儀式や修行にも力はまったくありません。
その儀式や修行は、神様を知るための初歩でした。その目的は、あなたが自分の罪と救い主の必要を理解することです。けれども、それ自体はあなたたちを救うことはできません。
むしろ、それを通してあなたたちが理解するのは、自分が律法を完全に守ることができないために、裁きに値するということです。それは惨めなことでしょう。そのことを知っているはずなのに、どうしてそのものに戻りたいのですか。」
そして、パウロは言いました。
「考えてみてください。私はあなたのようになったでしょう。私はあなたたちと共に食事をし、あなたたちの食べ物を食べて、ユダヤ教の習慣を破りました。
だから、あなたたちも私のようになってください。宗教のルールではなく、むしろキリストへの信仰によって生きてください。」
パウロは私たちにも同じことを言います。
私たちはキリストの象徴に従うのではなく、つまりユダヤ教の律法と儀式に従うのではなく、イエス様ご自身に従いましょう。なぜなら、それらには私たちを救う力がないからです。
むしろ、イエス様の十字架の働きを覚え、神様の子供として、神様との関係を喜びましょう。
