ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。」(創世記44:16)
ユダの言葉は、私たちすべてに当てはまるでしょう。
私たちは天の御座の前に立ち、神様が私たちの人生の記録を開かれたとき、何も言うことができません。弁解することもできません。
ユダが自分の父ヤコブに語った言葉も、本当に印象に残ります。
もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。(32節)
ヤコブは知らなかったかもしれませんが、ユダの言葉には、二つの意味があったと思われます。
ヨセフを奴隷として売るように勧めたのは、ユダでした。(創世記37:26ー27)
しかし、44章では、ユダが自分の罪の重さをどれほど感じていたかがわかります。
ヨセフを奴隷として売ったことで、もちろんヨセフに罪を犯しましたが、自分の父にも罪を犯しました。
ユダは過去を変えることはできませんでした。でも、ベニヤミンの命を保証することによって、自分の罪の償いをしようとしたのだと思います。
ユダの隠されたメッセージは、こうだったのかもしれません。
「もし、ベニヤミンを父のもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前で、ヨセフに関して罪ある者となります。」
でも実際には、ユダがベニヤミンを父のもとに連れ帰ったとしても、その罪の償いをしたことにはなりません。
私たちは、どれほどユダのように、自分の罪の償いをしようとするでしょうか。でも、どんなに良いことをしても、私たちはその罪の償いをすることはできません。
神様が私たちの咎を暴かれるとき、私たちは弁解することができません。
しかし、良い知らせがあります。イエス様は十字架で、私たちの罪を背負われ、その代価を支払ってくださいました。私たちがしなければならないのは、ただイエス様の働きを信じて、休むことです。
だから、パウロはこう言いました。
こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。
そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ5:1ー2)
