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マタイの福音書 マタイ25章

羊とやぎのたとえ話:どのように兄弟姉妹たちを扱うか

イエス様は、この世の終わりに関する話をこのたとえ話で締めくくられます。

「大きな患難」について話された後、イエス様は最後の裁きについて語られます。その時、神様は国々を裁かれます。そして、飼い主が羊をやぎから分けるように、神様は人々を分けられます。

そのたとえ話の文脈を考えると、たぶんイエス様が意味されたのはこうです。大きな患難の時、多くのクリスチャンが迫害され、苦しみます。

その時、イエス様を信じ、愛する人々はそのクリスチャンたちを助けます。だから、イエス様は彼らを祝福し、神様の国に迎え入れられます。

しかし、クリスチャンを迫害する人々、またはクリスチャンの苦しみに目をつぶる人々は裁かれます。

とはいえ、この話は他の適用があるとも考えられます。大きな患難はまだ来ていませんが、私たちは兄弟姉妹をどのように扱うかによって裁かれるのです。

イエス様はこう言われました。

さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた、御国を受け継ぎなさい。

あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていた時に飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」(マタイの福音書25:34-36)

その人々が「いつ私はそんなことをしたのでしょうか」と尋ねると、王はこう答えられます。

まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。(40)

その一方、その兄弟たちを助けない人々に対して、王はこう言われます。

まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。(45)

私たちの兄弟姉妹が苦しむときに、私たちはどうするでしょうか。神様の愛をもって彼らに手を差し伸べるでしょうか。私たちがそうすれば、実は私たちはイエス様に触れていることになります。

しかし、私たちが彼らに目をつぶれば、実はイエス様に目をつぶってしまうのです。だからこそ、私たちは裁かれるのです。

ヨハネはこう言いました。

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。

子供たち。私たちは、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(第一ヨハネ3:16-18)

イエス様は私たちにたくさんのものを与えてくださいました。私たちに命を与えるために、自分の命を犠牲にされました。どうして私たちは隣人のために同じことをしないのでしょうか。

イエス様に背を向けないでください。イエス様は私たちの兄弟姉妹のために命を捨てるほど愛してくださいました。だからこそ、彼らに手を差し伸べ、愛を分かち合いましょう。