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マタイの福音書 マタイ23章

私たちの先生が悪い時

私は子供の頃、「ベスト・キッド」という映画を観ました。それはもう30年前のことですが、今でも面白い映画だと思います。

実は現在、YouTubeでその映画に基づいた現代のシリーズを見ることができます。(おそらく、それは英語だけですが。)それも非常に人気があります。

その映画では、ダニエルという少年が、ある空手道場の生徒たちにいつもいじめられていました。そのため、ダニエルは空手を習いたいと思うようになります。

あるとき、ダニエルは自分の先生にこう訊きました。「どうして彼らはあのような振る舞いをするのでしょうか。」

先生はこう答えました。「悪い弟子というものは存在しない。存在するのは悪い先生だけだ。」

私はその言葉に完全には同意できませんが、その中に真理が含まれていると思います。もし先生が悪ければ、その先生に従う者たちも同じ道を辿ることになります。

この箇所でも、私たちはそのことを学びます。イエス様はパリサイ人たちや律法の専門家を厳しく責め続けておられます。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナ(つまり、地獄)の子にするのだ。(マタイの福音書23:13-15)

この律法学者たちやパリサイ人たちにはさまざまな欠点がありました。彼らは偽善者であり、律法の細かいルールに執着していて、神様が本当に大事にするものを理解していませんでした。

その結果はどうなったのでしょうか。彼らの弟子たちも同じように振る舞うようになりました。実際、その弟子たちはさらにひどくなりました。クリスチャンになる前のサウロはその一例です。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

もしあなたが聖書を教えるなら、あなたの性格はどのようなものでしょうか。

ヤコブはこう言っています。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しい裁きを受けます。(ヤコブ3:1)

ヤコブは主に私たちの教えについて話していると思いますが、私たちの人生についても語っています。教師であるなら、私たちはパリサイ人たちや律法学者たちとは異なり、教えと行為が一致していなければなりません。(マタイ23:3)

そこで、もしあなたが教師であるなら、あなたの教えと行為は一致していますか。それとも、偽善者のように生きていますか。

さらに、あなたが教えるとき、または人生を歩むときに、神様の優先順位を忘れずに覚えていますか。正義、憐れみ、誠実を忘れずにいますか。

心に留めておきましょう。神様はあなたの教えと行為によって裁かれます。しかし、それだけではありません。もしあなたが自分の弟子を忠実に訓練しないのであれば、神様はあなたが育てた弟子の姿を見て、あなたを裁かれます。

もう一つ忘れてはならないことがあります。それは、あなたの先生がどのような人であるかということです。

あなたの先生はどのように生きていて、何を教えているでしょうか。もし悪い先生に従うなら、あなたはその先生の歩む道を辿り、最終的には困難に直面することになるでしょう。

教会では、誰の話を聞いていますか。ポッドキャストでは、誰の言葉に耳を傾けていますか。どんな人の本を読んでいますか。

教師たちは自分の教えに責任を持ちますが、あなたは何を聞くかに責任を持っています。

ですので、以前にも述べたことではありますが、もう一度繰り返させてください。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。(第一テサロニケ5:21)

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良い先生の特質

私は20年以上英語を教えてきましたし、30年近く聖書を教えてきました。

それでも、イエス様の教える技術のレベルには決して達することができないと思います。イエス様は、本当に最も熟練した先生でした。

なぜイエス様はそんなに素晴らしい先生だったのでしょうか。それは、イエス様の教え方が本当に素晴らしかったからです。では、イエス様はどのように教えたのでしょうか。

この箇所によると、イエス様はいつもたとえ話を用いられました。では、なぜたとえ話を用いられたのでしょうか。

以前にも述べたように、たとえ話を通して、イエス様は誰が本当に学びたがっているのかを区別されました。学びたいと思う人々は、いつもイエス様に質問をしました。

一方で、質問をしない人々は、その話を楽しむことはできても、その話の意味を理解することはできませんでした。

けれども、イエス様に質問をする人々にとっては、たとえ話は分かりやすくなり、覚えやすいものとなったのです。

それは、良い先生が持つ特質の一つです。霊的な真実を説明する際、誰にでもその真理が理解できるようにすることです。

一部の先生は、自分の学歴や霊的な知識を誇示したいがために、誰も理解できない術語を使ったりします。また、会衆がすぐに忘れてしまうギリシャ語やヘブル語を紹介することもあります。

その結果、会衆は感激して「本当に深いメッセージだったね。学問的な内容だった。」と言うかもしれません。

それでも、最終的には彼らはこう思うのです。「いったい何の話だったのか、その意味がよく分からなかった。」

一方で、イエス様はいつもシンプルな言葉を用いられたため、誰にでも理解できました。

そのたとえ話とシンプルな言葉のおかげで、会衆はイエス様の教えに引き込まれました。会衆にとって、つまらない話を長時間聞くのは本当に苦痛です。しかし、イエス様は決してそのような話をされませんでした。

イエス様は会衆のレベルを正確に理解しておられました。マルコによれば、「イエス様は彼らの聞く力に応じて、みことばを語られた」(マルコ4:33)とあります。

つまり、イエス様は彼らが理解できないことを教えられることはありませんでした。

また、へブル人への手紙の著者も、赤ちゃんに堅い食べ物を与えるのは適切ではない、と述べています。その赤ちゃんが堅い食べ物を食べられるようになるまでは、ミルクを与えなければなりません。そして、成長したら堅い食べ物を与えることができるのです。(ヘブル5:11-14)

最後に、イエス様は弟子たちの質問にいつも答えてくださいました。マルコはイエス様についてこう記しています。

たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。(4:34)

普通、イエス様は弟子たちの質問を待って、その質問に答えてくださいました。

私たちはイエス様のようにいつも答えを持っているわけではありません。けれども、質問を通して、私たちはさらに学び、先生として成長していくことができます。

たとえあなたが教会の先生ではなくても、私たちは皆教える機会を持っています。例えば、子供たちを教える機会や、神様に導かれて私たちのもとに来た人々を教える機会が与えられます。

だからこそ、イエス様のような先生になるために努力していきましょう。