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エペソ人への手紙のデボーション

私たちはすでにそのような者だから

ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。(エペソ人への手紙5:1)

天のお父さん、その言葉が私の目に止まりました。

恐れのためではなく。

あなたの愛や受け入れを得るためではなく。

むしろ、あなたの愛に根差し、愛を土台として生きる者として、私たちはあなたに倣おうと努めます。

私たちはすでにあなたに愛されている子どもたちです。(1節)

私たちはすでにあなたの聖徒たちです。(3節)

私たちはすでにあなたにあって光です。(8節)

私たちはそのような者になろうと努める必要はありません。

私たちはすでにそのような者となりました。

そのような者として、私たちは毎日、大喜びをもって、あなたを喜ばせたいと願います。

あなたにあって、自分たちのアイデンティティを覚えていられるように助けてください。

私たちはあなたを愛しています。あなたがまず私たちを愛してくださったからです。

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士師記のデボーション

私たちの真の光

見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。。。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。(士師記13:5)

サムソンの名前は「小さな太陽」を意味しました。

でも、彼はやがて来られる真の光の微かな繁栄でした。

サムソンはイスラエルの民を救い始めましたが、自分の多くの欠点のゆえ、その働きを完成できませんでした。

イスラエルの真の光は、まだ来られていませんでした。(ヨハネ1:9)

しかし、2000年前、もう一人の天使がヨセフという人に現れて、こう言いました。

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ1:21)

私は今日、そのことを思い出して、喜んでいます。

私たちの光が来られました!

起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。(イザヤ書60:1)

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イザヤ書のデボーション

 輝け!

あなたは忘れているかもしれませんが、イザヤ書60章は、もちろん59章の続きです。😀

そして、59章では、この暗い世界の中における、キリストにある私たちの希望が描かれています。

最悪の時、私たちが自分自身を救うことができなかったとき、神様は私たちの救いのためにイエス様を送ってくださいました。

イザヤ書59〜60章では、神様は主にイスラエルの回復について語っておられますが、黙示録においてヨハネは、イザヤのことばを借りて、新しい天と地、特に新しいエルサレムについて語ります。

(イザヤ書60:3/黙示録21:24;イザヤ書60:11/黙示録21:25〜26;イザヤ書60:19〜20/黙示録21:4、23、黙示録22:5)

その新しい天と地こそが、私たちの希望です。

だから、エルサレムとユダヤ人たちに向けられた神のみことばは、私たちにも当てはめることができます。

起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。

主の栄光があなたの上に輝く。(イザヤ書60:1)

今朝、神様はそのことばを通して、私に語られました。

「この世の闇を見ても、絶望しないで。この世の悪や、周りの人々の絶望、壊れた人生を見ても、へこたれないで。

起きなさい。この世で輝きなさい。あなたの希望を表しなさい。そうすれば、人々は暗闇から、私の光の中へ入ってくる。」

天のお父さん、どうか私があなたの光を輝かせる者となりますように。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

闇の中を歩むか、光の中を歩むか

ヨハネの手紙第一3:4~10節は、とても難しい箇所です。その言葉によって、多くのクリスチャンが自分の救いを疑います。なぜなら、その言葉は、罪を犯す人がクリスチャンではないと教えているように見えるからです。

しかし、ヨハネはそのように教えているわけではありません。ヨハネによれば、すべてのクリスチャンは罪を犯します。(ヨハネの手紙第一1:8~10、2:1)

では、ヨハネの言葉はどういう意味なのでしょうか。その答えは、1:6~7にあると思います。

神の真の子供は、闇の中を歩まず、光の中を歩みます。なぜ、彼らはそうするのでしょうか。

それは、彼らが神様を愛し、神様が良い方であると信じ、天の父のようになろうと努めるからです。

闇の中を歩む人は、そのように考えません。むしろ、彼らには神様に対する根深い不信感があります。彼らは、神の良い性格と良い戒めを疑います。

彼らの心の中では、こう言っています。「あなたがそのような神なら、あなたが本当にそのように考えているなら、私はあなたとは関わりたくありません。」

それは、サタンの態度でした。

サタンはエデンで、その態度を人間に伝えました。

現代でも、多くの人々がそのように考えています。

そのような人々は、イエス様とその御父を見たこともなく、知ってもいません。

真のクリスチャンは、そのように考えません。真のクリスチャンは、そのような態度で神様と歩むことはできません。

真のクリスチャンは罪に落ちるかもしれませんが、神様の光がその罪を現すと、そのクリスチャンはすぐに悔い改めます。彼らは言い訳をしません。彼らはその罪を正当化しようとしません。また、彼らは神様の良い性格や戒めを疑いません。

だから、疑問は、私たちが罪を犯すかどうかということではありません。疑問は、私たちが光の中を歩んでいるか、闇の中を歩んでいるかということです。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩み、罪を告白し、悔い改めるなら、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(1:7)

そして、たとえ自分の心が責めたとしても、神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じです。神様は私たちの愛と、神様を喜ばせようとする心をご存じで、私たちを受け入れてくださいます。

だから、ヨハネと一緒に喜びましょう。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。(1節)

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ヨハネの手紙第一のデボーション

神様と歩む

ヨハネの手紙第一1―2章を読んで、私は神様と歩むとはどういう意味かを考えていました。

たくさんの人々は、神様と歩むと主張します。ヨハネの言葉を借りれば、彼らは神様を知り、神と交わりがあると主張します。

でも、神様を知り、神と交わりがあるとはどういう意味でしょうか。

ヨハネがはっきりと言っているのは、私たちが闇を歩んでいるなら、神と交わりがあると主張することはできないということです。

残念なことですが、たくさんの自称クリスチャンたちはそのような生活を送っています。彼らはみことばを読むと、好きな箇所は受け入れるけれど、好きではない箇所はあっさりと捨ててしまいます。

でも、神様と歩む人は、神様の戒めと道のすべてが良いと信じます。だから、彼らはそれらを抱きます。彼らは神のみことばのすべてを尊重します。彼らの心は神様に属し、彼らはイエスが歩まれたように歩もうと思います。(ヨハネの手紙第一1:5~6、2:3~6)

とはいえ、光の中を歩むとは、私たちが罪のない人生を送ることを意味しません。

しかし、神の光が私たちの罪を明らかにするとき、私たちは言い訳をせずに、その罪を告白し、悔い改めます。

その時、サタンが私たちを責めようとするかもしれません。でも、イエス様は私たちの隣に立って擁護してくださいます。そして、イエス様の血によって、私たちはすべての罪から清められ、神様の怒りはなだめられます。(1:7、2:1~2)

どうして私たちは赦されているのでしょうか。私たちが真実だからですか?違います。神様が真実だからです。(1:9)

どうして私たちは受け入れられているのでしょうか。私たちの義のためですか?違います。イエス様が義なる方だからです。(2:1)

そして、イエス様はご自身の義の衣を私たちに着せてくださいます。

だから、闇の中を歩まないようにしましょう。

また、神の怒りと裁きを恐れて、光に入ることを恐れないようにしましょう。

むしろ、光に入りましょう。いや、光に向かって走りましょう。神様を抱きましょう。神の道を抱きましょう。そして、神様に愛されている子供として、毎日神様の恵みによって歩みましょう。

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ヨハネの手紙第一

神様との交わりを持つため

いろんな意味で、「クリスチャン」という言葉は無意味なものになって来ました。というのは、多くの人々は自分がクリスチャンであると自称しますが、自分の行為によって、実際には自分がクリスチャンではないと証明しているようなものだからです。

その言葉を読んで、私が厳しすぎると言われる人がいるかもしれません。けれども、イエス様ご自身はこう言われました。

「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

その日には多くの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」(マタイ7:21-22)

現代では、ある人々はこう言うかもしれません。

「主よ、主よ。私たちは教会に行ったでしょう。献金を捧げたでしょう。いろんな良いことをしたでしょう。」

しかし、イエス様は彼らに言われます。

わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。(マタイ7:23)

簡単に言うと、あなたの行為を自分の信仰と分けることはできません。あなたの行為によって、あなたの信仰がれっきとしたものかどうかが現れます。

ヨハネは、今日の箇所でも、それを言っています。

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。

もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。(ヨハネの手紙第一1:5-6)

多くの自称クリスチャンたちは自分の罪にふけります。ある人は嫌いな聖句をごまかします。他の人はただその聖句を無視します。

けれども、ヨハネは、神様が光であると言っています。つまり、神様には罪が全くないということです。だから、反逆の態度をもって、神様のみ言葉を無視したり、その言葉をごまかしながら、「私には神様と交わりがある」と主張するなら、私たちは嘘つきです。

ヨハネは率直に言います。「あなたは嘘つきです。あなたは真理を行っていません。」

さらに、ヨハネは続けてこう言います。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(1:7)

神様が光であるので、神様との交わりを望むなら、私たちも光の中を歩まなくてはなりません。神様は私たちが歩いている暗闇の中を歩まれないからです。

けれども、私たちの反逆的な態度を捨て、私たちの主としてイエス様に従うなら、イエス様の血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

だから、私たちの反逆をやめなくてはなりません。神様に反逆しながら、神様との交わりがあると主張するのは無理なことです。

私の解釈を疑うなら、ヨハネの言葉を読んでください。

もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。

しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。

神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。(2:3-6)

言い換えると、ある人の神様に対する態度によって、私たちはその人が神様との関係があるかどうかを見分けることができます。

その人のうちで神の愛がそこまで全うされて、愛をもって従うようになるのでしょうか。

その人はイエス様のようになりたいと願い、イエス様のように歩もうとするでしょうか。

その人は罪に落ちるとき、その罪を悲しみ、すぐに悔い改めるのでしょうか。

そうでない場合、その人が本当に救われているかどうかを疑うべきです。

あなたはどうでしょうか。神様に対するあなたの態度は、自分の神様との関係に関して何を現しているでしょうか。

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ペテロの手紙第一

私たちがこの世に属しないから

私は日本に25年以上住んでいるので、時々、自分が国のない人間のように感じることがあります。もちろん、私はアメリカ人ですが、長い間アメリカを離れているため、その文化がどのように変わり、何が移り変わったのかをよく知りません。

一方で、日本に長年住んでいるにもかかわらず、私は多くの意味でまだ外国人であると感じています。それでも、「国のない人」であることは、必ずしも悪いことではないと思います。なぜなら、私はこの世に属していないからです。

もしあなたがクリスチャンであるなら、あなたもこの世に属していません。イエス様は大きな代価を支払って私たちを買い取られました。

けれども、イエス様がその代価を支払うために用いられたのは金でも銀でもなく、ご自身の血です。(ペテロの手紙第一1:18~19)

さらに、私たちが神様の民となるために、イエス様は私たちを買い取ってくださったのです。

私が以前言ったように、ペテロの手紙の重要なテーマの一つは、私たちが旅人であり、寄留者であるということです。つまり、私たちはこの世に属していません。

ペテロはこの真理の意味をさらに具体的に説明します。彼はこう言うのです。

ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。

「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。(ペテロの手紙第一1:13-16)

簡単に言うと、私たちは旅人であり寄留者であるため、未来の困難に備えて心構えをしておく必要があります。私たちはキリストのために苦しみや迫害を経験するかもしれません。

しかし、私たちは揺らいではいけません。自分の古い人生を振り返り、それに憧れてはいけません。むしろ、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望むべきです。

その恵みとは何でしょうか。それは永遠のいのちです。また、それは朽ちることも、汚れることも、消え去ることもない天の資産です(1:4)。

この希望ゆえに、私たちは自分を滅ぼしかねない悪い欲望に従わず、神様に従うべきです。私たちは神様のようになるように努めるべきです。天の父が完全であるように、私たちも完全であるように努めるべきです。

罪によって、私たちの人生が壊れることはしばしばあります。もし、私たちが罪にしがみつけば、私たちの状態はさらに悪化します。

けれども、自分の罪を捨て、神様に立ち返り、神様の道を歩むなら、私たちの人生は癒され、完全なものとなります。そして、裁きの日に私たちは報いを受けるのです。

だからこそ、ペテロはこう言います。

また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。(17)

「この世に寄留している時を、恐れつつ過ごす」とは、どういう意味でしょうか。私たちはどうするべきでしょうか。

1.毎日、信仰と希望と愛を持って生きるべきです。

私たちは、神様がご自身の約束を守られることを信じているので、希望を持っています。(1:21)また、神様の命令に従い、互いに愛し合うべきです。(1:22)

2.永遠の命を心に留めるべきです。

私たちは、自分が得る命が永遠のものであることを覚えるべきです。この世での人生は短いですが、それは永遠の命への準備です。(1:23-25)

3.毒を捨てるべきです。

私たちは、自分の中にある毒を捨てる必要があります。例えば、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口といったものです。(2:1)

これらの毒や悪い欲望は私たちの魂と戦い、その戦いに負けると私たちは滅びてしまいます。(2:11)

むしろ、私たちは神様の乳、つまり、み言葉を慕い求めるべきです。そうすることで、神様の子供として私たちは成長するのです。(2:2)

4.最も大切なのは、私たちがこの世が拒絶したイエス様に近づくべきだということです。

私たちは神様の家に属する者としてイエス様に近づくべきです。私たちはイエス様が建てている家の一部であるべきです。さらに、私たちは神様の祭司として、自分の言動を通して霊のいけにえを捧げるべきです。(2:4-8)

そうするなら、私たちは暗闇に陥れられた世の人々に対して光となるのです。(2:9-12)

だから、私たちが誰であるかを覚えていましょう。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。

それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。(9-10)

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テモテへの手紙第二

この世はますます悪に落ちていくのに

もしこの世が良くなると考える人がいれば、その人は私が読んでいる聖書を読んでいないでしょう。聖書によれば、イエス様が帰って来られるまで、この世はますます悪くなります。

特に、この世の人々の不敬虔さはだんだん悪化します。自分がクリスチャンと自称する人の性格も悪化します。

だから、私は今パウロの言葉を読むと、その言葉の重さを10年前に感じたよりも、感じることができます。パウロはこう言いました。

キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます。(テモテへの手紙第二3:12-13)

パウロは、「もしかしたら、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は迫害を受けるかもしれない」と言いませんでした。むしろ、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は迫害を受けます」と言いました。その言葉は確実です。

どうしてでしょうか。なぜなら、悪者や偽クリスチャンたちはますます悪に落ちていきますから。偽教師たちがみ言葉に反することを教えます。そして、その聞き手はその偽教師たちを信じて騙されてしまいます。

その結果は、人々の道徳観念が曲がってしまって、この世がますます罪に落ちていくことです。それだけではなく、もし神様の光を暗闇に照らす人がいれば、その人は嫌われます。

だからイエス様はこう言われました。

そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。

悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。(ヨハネ3:19-20)

この世では、その真理を見ることができます。人々はいろんな新しい道徳の教えを受け入れますが、神様のみ言葉を拒絶します。

パウロ自身、この世の憎しみを経験しました。だからパウロは光のための自分の苦しみに関してテモテに思い出させます。パウロはテモテに警告します。

「私の経験は意外なことではありません。この世の人々が暗闇に落ちれば落ちるほど、私たちは迫害と苦しみを経験します。

では、私たちはどのように反応するべきでしょうか。パウロは私たちに教えます。

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。(テモテへの手紙第二3:14-15節)

簡単に言うと、真理にしがみつかなくてはいけません。周りの人々は真理に背を向けるかもしれないし、あなたを迫害して、その真理を絶滅しようとするかもしれませんが、真理を持っていて、宣言し続けるべきです。

どうして、私たちはみ言葉を持ち続けなくてはならないのでしょうか。

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。(16-17節)

神様のみ言葉は私たちのいのちです。そして、私たちがこの世の暗闇と向き合うと、そのみ言葉はすべての良い働きのために私たちを整えます。

み言葉は神の剣で、人々の心を貫いて、その心の中の暗闇を追い出すことができます。

さらに、神様のみ言葉は義について教え、私たちが罪に落ちると、そのみ言葉は私たちを訓戒します。それだけでなく、そのみ言葉は私たちを引き上げ、私たちがどのように生きるべきか訓練します。

最後に、そのみ言葉によって、私たちは試練を耐えることができます。私たちは暗い世界に生きていますが、神様は聖霊様を通していのちの言葉を私たちの心に静かに語りかけてくださいます。

イエス様は「私に従うと、あなたは楽な人生を送る」と約束されません。むしろ、イエス様はこう言われました。

世にあっては苦難があります。 (ヨハネ16:33a)

もしあなたは真理を宣言し、この暗い世界に光を照らすと、苦難を経験します。でもその光を手放さないでください。暗闇によって、その光が消えるように許してはいけません。

むしろ、イエス様の心強い言葉を覚えていましょう。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33b)

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エペソ人への手紙

罪を軽く見る

この世の問題の一つは、多くの人々が罪を軽く見ることです。 罪について冗談を言ったり、それを誇ったりする人さえいます。 けれども、罪は決して軽く見てよいものではありません。 特に、クリスチャンは罪を軽視してはならないのです。

だからこそ、パウロはこう言います。

 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。

また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。(エペソ人への手紙5:3-4)

要するに、周囲の人々が私たちの行いや言葉を責める余地もないほどに、私たちは清い生活を送るべきです。 もう一度言います。私たちは決して罪を軽く考えてはなりません。

けれども、テレビ番組や映画のことを語るとき、 「このドラマでは主人公が罪を犯していた」と私たちはどれほど言うでしょうか。

あるいは、歌を聴くとき、 「この歌の歌詞は罪を売り込んでいる。この歌詞に従えば、やがて人は神様に裁かれる」と考えることは、どれほどあるでしょうか。

私たちは、ふつうそのようには考えないのです。

あなたはこう言うかもしれません。 「そんな考え方は真面目すぎます。それがこの世の文化というものでしょう。」

ところが、まさにその態度こそが問題なのです。 多くのクリスチャンは、ノンクリスチャンのように、罪についてあまりに軽く考えすぎています。 けれど、パウロは私たちに思い出させてくれます。

に軽く考えています。でも、パウロは私たちに思い出させます。

このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。

だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。(5-6)

要するに、罪は極めて深刻な問題です。 人は自らの罪のゆえに、神様の怒りを受けるに値します。 さらに、地獄にさえ値するのです。 そのような現実を思うとき、どうして罪を軽く見ることができるでしょうか。

だから、パウロはこう言うのです。

ですから、彼らの仲間になってはいけません。

あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。

何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。

彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。明らかにされるものはみな光だからです。(7-14a)

神様は、私たちをこの世の民とは異なる者として召しておられます。 この世の人々は、罪の暗闇の中に生きています。

かつて、私たちもその暗闇の中を歩んでいました。 けれども、パウロによれば、今や私たちは主にあって光となりました。 それゆえ、私たちは光の子どもらしく歩むべきなのです。

私たちは、罪の実を結んではなりません。 むしろ、あらゆる善意と正義と真実の実を結ぶべきです。

ですから、私たちは罪を祝ってはならず、 むしろキリストの光によって、その罪を明るみに出さなければなりません。 罪が人を滅ぼすものであることを、はっきりと示さなければなりません。

そして、私たちは周囲の人々にこう語るべきです。

眠っている人よ、起きよ。 死者の中から起き上がれ。 そうすれば、キリストがあなたを照らされる。(14b)

あなたはどうでしょうか。罪を軽く見てはいないでしょうか。 罪の深刻さを忘れてしまってはいないでしょうか。

イエス様が、私たちの罪のために死ななければならなかったことを心に留めておきましょう。 イエス様は、私たちと私たちの周囲の人々を、罪の暗闇から出て、新しい命へと入るように招いておられます。

あなたは、その新しい命の光の中を歩んでいるでしょうか。 そして、周囲の人々を、あなたとともにその道を歩むように招いているでしょうか。

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使徒の働き

嵐の中の光

イエス様は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」と命じました。(マタイ5:16)

この箇所では、私たちはパウロが自らの光を輝かせる姿を見ることができます。

激しい嵐の中、船に乗っていた人々は絶望していました。けれども、パウロは彼らに希望を与えました。彼はこう言いました。

しかし今、あなたがたに進めます。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。失われるのは船だけです。

昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、こう言ったのです。

「恐れることはありません。パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、皆あなたに与えておられます。」

ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。(使徒の働き27:22-25)

その後、空はまだ暗く、皆が失望していたとき、パウロは彼らにこう言いました。

今日で十四日、あなたがたはひたすら待ち続け、何も口に入れず、食べることなく過ごしてきました。

ですから、食事をするよう勧めます。これで、あなたがたは助かります。頭から髪の毛一本失われることはありません。(33-34)

そして、パウロはパンを取り、皆の前で神様に感謝の祈りをささげ、食べ始めました。それを見て、他の人々の希望が戻り、彼らも食べ始めました。

これは、自らの光を輝かせることのひとつの意味です。私たちは希望のない人に希望を与えるのです。

この世界では、多くの人々が自らの境遇のために希望を失っています。しかし、イエス様は私たちの希望の源です。そして、イエス様が私たちを通して光を輝かせると、周囲の人々は希望を見つけます。

さらに、パウロはもうひとつの方法で光を輝かせました。彼は自らの言葉と行動によって、周囲の人々が正しいことをするように励ましました。

ある船員たちは、船からこっそり逃げ、囚人たちを見捨て、彼らを死なせようとしました。

パウロはそれを見て、警告しました。

あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助かりません。(31)

そこで彼らは小舟の綱を切り、そのまま流れさせました。

そして、船が座礁したとき、兵士たちは囚人たちを殺そうとしました。なぜなら、囚人たちが逃げた場合、兵士たちは罰せられるからです。けれども、百人隊長はパウロの光を見ていたため、兵士たちを制止しました。その結果、誰も命を落としませんでした。

このように、私たちは自らの言葉や行動を通して光を輝かせるべきです。私たちは他の人々にどのように生きるべきかを示し、私たちの模範を見ることで、彼らもそのように生きるよう励まされます。

あなたはどうでしょうか。あなたは周囲の人々にとっての光でしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ12章

イエス様を見るとき、イエス様の声を聞くとき

多くの人々は「神様を信じる」と言いますが、イエス様を信じていません。

しかし、もしあなたが本当に神様を信じるなら、イエス様を拒絶することはできません。この箇所で、イエス様はこう語られました。

わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(ヨハネの福音書12:44-46)

つまり、イエス様を信じることは、神様を信じることです。イエス様を見ることは、神様を見ることです。

そして、イエス様はこう語られました。

わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。

わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。(49-50)

だから、イエス様の言葉を聞くことは、神様の言葉を聞くことです。なぜなら、イエス様は神様の言葉を正しく伝えられるからです。

したがって、もしあなたがイエス様の言葉を拒絶するなら、それは実際には神様の言葉を拒絶することになります。さらに、もしイエス様を拒絶するなら、それは神様ご自身を拒絶することなのです。

そこで、イエス様はこう語られました。

わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。(48)

私たちがイエス様の言葉を聞くと、その言葉によって私たちは裁かれます。

もしイエス様を信じるなら、あなたは光と命を見つけるでしょう。 しかし、イエス様を拒絶するなら、あなたが見つけるのは暗闇と裁きです。

あなたはどう選ぶでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ12章 ルカの福音書 ルカ11章

私たちは御霊を歓迎しないと

パリサイ人たちは、「イエス様が悪魔の力によって悪霊を追い出している」と言いました。

そのため、イエス様は彼らの不信を責められました。そこで、彼らはイエス様にしるしを求めました。

しかし、たとえイエス様がしるしを示されたとしても、彼らはそれでも信じなかったでしょう。だからこそ、イエス様は彼らの要求を拒まれました。

では、なぜ私は「彼らはしるしを見ても信じなかっただろう」と思うのでしょうか。それは、イエス様がすでにヨナのしるしを彼らに示されたからです。

つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいた後、その魚から出たように、イエス様も三日三晩、地の中にいた後、お墓から出られました。ところが、イエス様がよみがえられた時、パリサイ人たちはそれでもイエス様を信じませんでした。

そのため、イエス様はもう一度彼らの固い心を責められました。具体的には、イエス様は「ニネベの人々と南の女王(つまり、シェバの女王)が彼らを裁く」と言われました。

なぜなら、彼らはヨナやソロモン王のメッセージを聞いた時、悔い改めたからです。

一方で、イエス様がソロモンやヨナよりも優れた方であるにもかかわらず、パリサイ人たちは信じようとしませんでした。

そのため、イエス様は彼らに例えを示されました。その例えを通して、イエス様は「彼らがイエス様を信じないこと、また、聖霊を拒絶することの結果」について教えられました。

イエス様はこの世に来られた時、地獄の力を克服されました。例えば、その時、イエス様は多くの悪霊を人々から追い出されました。けれども、イエス様はイスラエルの民とパリサイ人たちに警告されました。

「私は悪霊を追い出し、地獄の力を克服し、私の賜物、つまり御霊を与える。ところが、もしあなたたちが御霊を拒絶するなら、地獄の力が戻り、あなたの状態は以前よりも悪くなる。」

なぜでしょうか。それは、あなたが神様の力を味わい、あなたを救うことのできる方に触れられたにもかかわらず、その方を拒絶したからです。

そして、イエス様は山上の垂訓の例えをもう一度語られました。それは、「体のあかりは、あなたの目である」ということです。もちろん、これは物理的な真理ですが、同時に霊的な真理でもあります。

イエス様は私たちに問いかけられます。「あなたは何を見ていますか。神様が語られるとき、その真理を見えますか。私を見るとき、私が誰であるか分かりますか。」

もし私たちが正しく見ることができるなら、私たちの人生は光に満ちるでしょう。しかし、正しく見えなければ、私たちの人生は暗闇に満ちてしまいます。そのため、イエス様は私たちに警告されます。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)

あなたはどうでしょうか。イエス様をあなたの主と救い主として受け入れていますか。御霊をあなたの人生に歓迎していますか。

もしあなたが心を神様に対して固くしてしまうなら、サタンの破壊的な働きを受けやすくなります。

しかし、もしあなたが心を御霊に開くなら、命を見いだすのです。

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マタイの福音書 マタイ6章 ルカの福音書 ルカ11章

山上の説教:私たちはどこに照準を合わせるのか?

前回の記事で私が述べたのは、私たちがいつも「この罪を避けなきゃ、この罪を避けなきゃ」と考えると、多くの場合、かえってその罪に落ちてしまうということです。それよりも、もっと良い方法は、神様に焦点を当てて従うことです。

ただし、この態度は誘惑に対する場合だけでなく、すべてのことに対して持つべきだと思います。この箇所では、イエス様が私たちが何に照準を合わせるべきかについて語られます。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:19-21)

そして、イエス様はこう言われました。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(24)

私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は何に照準を合わせているだろうか。」

多くの人々は、一時的なものに照準を合わせます。例えば、お金や持ち物などを得ることに焦点を当てています。

しかし、イエス様はこう言われます。「そんなものは結局なくなります。あなたは永遠のものに照準を合わせるべきです。」

では、永遠のものとは何でしょうか。

永遠のものは二つしかありません。神様との関係と、ほかのイエス様を信じる人々との関係です。

私たちは天国に、この地からほかのものを持っていくことはできません。だからこそ、この世に生きている間に、その二つのものに焦点を当てるべきです。

私たちは神様との関係をより深めるために努力するべきです。また、イエス様を知らない人々に福音を伝えるべきです。そして、クリスチャンの兄弟姉妹との関係を強めるために働くべきです。

そうするなら、私たちは天国に宝を蓄えることができます。神様との関係と、私たちが愛する人々との関係よりも、もっと素晴らしい宝があるでしょうか。

しかし、多くの人々、たとえクリスチャンであっても、お金を儲けることやこの世のものを獲得することに焦点を当てています。けれども、イエス様は「あなたはそれができない」と警告されます。

神様はあなたの心の半分だけを望まれるのではありません。もし神様があなたの心の半分しか持たないなら、あなたの奉仕は受け入れられません。私たちはお金に仕えることもできるかもしれませんし、神様に仕えることもできます。両方に仕えることはできません。

そこで、イエス様は私たちに問いかけられます。「あなたはどんな目を持っていますか?物の本当の価値が見えていますか?何が本当に大切かわかっていますか?

もしそうなら、あなたの全身も明るいでしょう。あなたは生きがいのある人生を送り、神様が意図された人生を知るでしょう。それは、神様との関係と人間関係を中心とした人生です。」

けれども、もしそれが見えないなら、あなたは暗闇に満ちた人生を送ります。あなたはいつも不満を感じますが、その理由を決して理解することはありません。お金や他のものを追い求めても、最終的にあなたの心は空っぽのままです。

そのため、イエス様はこう言われます。

もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。(マタイ6:23)

また、イエス様は私たちに警告されます。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11;35)

どうでしょうか。あなたは何に照準を合わせていますか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:正直さ

時には、信頼できる人を見つけるのは難しいことがあります。この壊れた世界では、人々がお互いを信頼できないため、契約や誓いを求めることがあります。

「私は約束します。」

「私は誓います。」

けれども、イエス様は、私たちが正直な人になるべきだと教えます。つまり、周りの人々があなたの言葉を信じるようになり、契約や誓いを必要としないようになるのです。

イエス様はこう言われました。

さらにまた、昔の人々に、「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。

エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。

あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

だから、あなたがたは、「はい」は「はい」、「いいえ」「いいえ」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。(マタイの福音書5:33-37)

イエス様の時代では、もしあなたが神様のみ名によって誓ったなら、その誓いを守らなくてはなりませんでした。けれども、パリサイ人たちや律法学者たちは、天や地や自分の頭を指して誓った場合、その誓いを守らなくても良いと教えていました。

しかし、イエス様は私たちにすべての誓いを守らなくてはならないと教えました。なぜなら、エルサレムや天や地は神様に属しており、それらは神様の栄光を反映しているからです。したがって、これらの物を指して誓うことは、実際には神様を指して誓うことと同じです。

さらに、あなたの頭も神様に属しています。白髪がいつ出るかをあなたはコントロールすることはできません。

とはいえ、イエス様の要点は「すべての誓いを守らなくてはならない」ということではありません。

むしろ、イエス様の要点はこうです。「誓わない方が良いのです。相手があなたに誓いを要求する理由はただ一つです。それは、相手があなたの言葉を信頼できるかどうか分からないからです。」

では、どうして彼らはあなたの言葉を信じられるかどうかわからないのでしょうか。

1.彼らは、あなたのことを知らないからです。そのため、裁判所では、人々が「真実を言うことを誓います」と言わなくてはなりません。裁判官たちは、あなたのことを知らないからです。

2.彼らは、あなたのことを知っているけれど、あなたを信頼できないため、あなたの言葉を疑います。その場合、相手は、あなたに誓いを要求するかもしれません。

一つ目の場合は、仕方がありません。私たちは、罪によって壊れた世界に生きているからです。人間不信は普通のことです。だから、裁判所で私たちは誓わなくてはなりません。

イエス様は、すべての誓いを禁じるわけではありません。実際、イエス様もそうされたからです。(マタイ26:63-64)

けれども、二つ目の場合、ある程度まで、あなたはコントロールすることができます。もし、あなたがいつも正直に話すなら、周りの人々はあなたの言葉を信じるようになります。

そうすれば、彼らはあなたからの誓いや約束を要求しません。むしろ、あなたが話すと、彼らはあなたの言葉を疑わずに信じます。

周りの人々は、あなたの言葉を信頼できるでしょうか。小さいことでも(パーティーにちゃんと間に合うこと)、また大きいことでも(仕事やミニストリーへの忠実さ)、彼らはあなたを信頼できるでしょうか。

イエス様は、私たちが世の光として生きるように招いておられます。人々が他人を信頼できないことが多いこの世界で、あなたは光となっているでしょうか。周りの人々は、あなたのことを信頼できるでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:塩と光

この箇所は本当に有名ですが、どれだけ私たちはその前後に気づいているでしょうか。その前後とは何でしょうか。

イエス様は迫害について話しておられました。つまり、私たちがイエス様のために迫害された時、私たちは祝福されるのです。(5:10-12)

その言葉を言った直後、イエス様はこう言われます。

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(5:13)

私たちは、どのように塩気をなくしてしまうでしょうか。私たちが家族や友達からのプレッシャーに負け、イエス様に従わずに彼らのようになってしまう時、私たちは塩気をなくします。

なぜなら、私たちは彼らを恐れ、彼らを喜ばせようとするあまり、神様を私たちの人生で第一にすることを忘れてしまうからです。

私たちは地の塩であるべきです。塩は食べ物を保存します。例えば、肉が腐らないように塩を使うことができます。

そのように、私たちの文化が腐らないように、私たちは人々に神様の道を教えます。それだけではなく、私たちの行動を通して神様の道を示します。そして、私たちを通して彼らは健全な人生と壊れた人生の違いを見出すでしょう。

さらに、塩は食べ物に味を付けます。そのように、私たちはこの世にイエス様の愛で味を付けるべきです。

しかし、私たちがこの世の民のように振る舞う時、この世を保存することも、この世に味を付けることもできません。

それに、神様はこの世の光となるために私たちをこの世に置かれました。私たちは隠れることのできない町であるべきです。それはどうしてでしょうか。道に迷った人々や傷ついて死にかけている人々に神様の栄光を示すためです。

それなら、どうして私たちは相手からのプレッシャーのためにその光を隠すのでしょうか。

あなたはどうですか。あなたはこの世の民のようになったために塩気をなくしたでしょうか。あなたの光は周りの人々に見えなくなってしまいましたか。

誰を喜ばせたいですか。神様でしょうか、それとも周りの人々でしょうか。私たちはイエス様の言葉に従いましょう。つまり、

あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

光に入る?

昨日の記事で、私は「人々が神様を拒絶した場合、将来裁かれるのではなく、すでに裁かれている」とお伝えしました。この箇所では、私たちは神様の宣告を見ることになります。

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネの福音書3:19)

キリストによって、光がこの世に来ました。イエス様は神様がどのようなお方であるかを教え、神様の私たちへの計画を明らかにされました。

けれども、世の人々は悪を愛していました。彼らは自分たちの行動が悪く、恥ずかしいものであると知っていたにもかかわらず、その悪を愛し続けたのです。

また、彼らは光を受け入れず、暗闇に留まりました。要するに、彼らはイエス様を拒絶したために裁かれることとなりました。

では、あなたはどうでしょうか。キリストの光の中に入りますか。自分の悪く、恥ずかしい行動を捨て、イエス様と共に光の中を歩みますか。イエス様が教えられた真理に従いますか。

そうすれば、あなたはもう神様を恐れる必要はありません。むしろ、神様の前に大胆に立つことができるのです。

ヨハネはこう言っています。

しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(21節)

私は神様とそのような関係を持ちたいと願っています。恥じることのない関係。罪悪感に囚われない関係。そして、神様の愛と恵みを受けて、大胆に神様と共に歩む関係です。

神様の光の中に入ることを恐れる人もいます。その理由は、彼らが自分の罪が明らかにされることを恐れているからです。また、彼らが愛しているものを失うことへの恐れがあるからです。

そのため、彼らは教会を避け、聖書を遠ざけます。一部の人は聖書を読むものの、自分の罪を指摘する箇所を避けます。

それでも、神様はあなたを愛しておられます。そして、神様はあなたの最善を望んでおられます。たとえ、神様に従うことで、あなたが愛しているものを失うと感じることがあったとしても、神様はあなたにそれ以上の素晴らしいものを与えてくださいます。

ですから、最も重要な質問はこれです。神様を信頼しますか。神様があなたの最善を望んでおられることを信じますか。もしそれを信じないなら、あなたは決して光の中に入ることはできません。

しかし、神様はイエス様を通してあなたに対する愛を示してくださっています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)

神様はあなたのためにそのようにしてくださいました。ですから、あなたの人生のすべてにおいて、神様を信頼することができませんか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

暗い世にある光

数年前、私は非常に賢いアメリカ人の女の子についての記事を読みました。

彼女の高校の成績は完璧だった上に、SAT(一般のアメリカの大学入学試験)の点数も満点であり、さらにカリフォルニア大学の受験点数も満点でした。そして、ある記者が彼女にこう尋ねました。「人生の意味をご存じですか。」

彼女の答えはどうだったのでしょうか。

「私は全く知りません。私も知りたいと思っています。」

私たちはそのような世界に住んでいます。この世の人々は、神様から離れているため、暗闇に迷っています。

彼らは人生の意味を探しているものの、暗闇の中でずっと躓いているのです。そして、自分の罪に目がくらみ、その罪がどこへ導くのかを理解していません。

そのような世界にイエス様は2000年前、赤ちゃんとして来られました。ヨハネはイエス様についてこう言いました。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネの福音書1:1:4)

イエス様がこの世に来られた時、イエス様はこの暗い世のための光となられました。では、どのようにして光となられたのでしょうか。

1.イエス様は神様がどのような方であるかを教えられました。

昨日の記事でも述べたように、イエス様は私たちに神様を説明されました。神様は目に見えない方ですが、イエス様が現れたことで、神様は見える存在となったのです。

私たちはもはや神様を想像する必要はありません。私たちがイエス様を見る時、神様を見るのです。

2.イエス様は人生の意味を教えてくださいました。その意味とは何でしょうか。それは、神様との関係を持つことです。

3節で、ヨハネはイエス様がすべてのものを造られたと述べています。イエス様は私たちも造られました。

ところが、イエス様が来られた時、その被造物はイエス様を自分の創造主として認めませんでした。さらに、彼らはイエス様を拒絶しました。(10-11)

けれども、ヨハネはこう記しました。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(12-13)

つまり、私たちがイエス様を私たちの主と救い主として受け入れるなら、私たちは神様の家族に養子として迎えられます。

私たちは自然に神様の家族として生まれるわけではありません。たとえあなたの両親がクリスチャンであっても、あなたがクリスチャンであるとは限りません。

あなたは神によって新たに生まれる必要があります。言い換えれば、あなたは神様の召しに応えて「はい」と言わなければなりません。

つまり、「はい、イエス様。私の王になってください。私の主になってください。」と言うことです。

そうするなら、あなたは神様の家族に迎え入れられます。そして、あなたの人生の目的を見つけるでしょう。それは、天の父との関係を持つことです。

3.イエス様は命の道を教えてくださいました。イエス様がすべての生き物に命と息を与えられるように、イエス様はご自身を信じる人々に永遠の命を与えてくださいます。

ヨハネはこう言っています。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(5)

「打ち勝たなかった」と翻訳されていますが、もう一つの意味として「分からなかった」という解釈もあります。

イエス様がこの世に来られた時、罪深い人々はイエス様を理解しませんでした。宗教的な人々ですら、イエス様を理解しなかったのです。だからこそ、彼らはイエス様を殺しました。

けれども、彼らがイエス様を殺したとしても、イエス様に打ち勝つことはできませんでした。むしろ、イエス様が死なれた時、イエス様は私たちの罰を引き受けてくださいました。そして、イエス様は死に打ち勝ち、三日目によみがえられました。

そのため、今ではイエス様は、ご自身のもとに来る人々に命を与えてくださいます。

だからこそ、ヨハネはこう言っています。

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(16-17)

律法を通して、モーセは私たちに神様の要求を示しました。けれども、その律法は私たちを救うことはできませんでした。律法は、私たちの罪を明らかにしただけでなく、私たちが死に値することも示したのです。

しかし、イエス様を通して、私たちは恵みと誠を見出します。 イエス様によって、私たちは二つの真理を見ることができます。 一つは、私たちの罪です。 けれども、十字架を通して、私たちは神様の愛を見ることもできるのです。

さらに、私たちがイエス様を受け入れる時、恵みの上にさらに恵みを受け取ります。その恵みは決して尽きることはなく、私たちの罪を覆います。そして、その恵みは私たちに命を与えてくださいます。

キリストの光があなたの心に輝きますように。

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箴言

邪な世界に住んでいるのに

以前は、アメリカはクリスチャンの国と呼ぶことができました。今でも、多くのアメリカ人は「私はクリスチャンだ」とか、「神様を信じる」とか言います。

けれども、アメリカがクリスチャンの国だとはもう言えないと思います。実は、アメリカの歴史の中では、多分今は一番暗い時期でしょう。

ソロモンの時代はましだったけど、彼が周りの国々を見ると、いろんな悪を見ました。

彼は無政府状態を見たし(箴言28:2)、自分の民を気にしない独裁者や、正義を気にしない支配者や、酷い罪を犯す王を見ました。(箴言28:3、12、15-16;29:2、4、12)

アメリカや日本はまだそこまで悪くないと思いますが、私たちは、人に仕えるよりも、自分の立場を守りたがる政治家をよく見ます。

特に、アメリカでは、与党議員や裁判官は私たちの社会の道徳的価値観を変えて、罪を良いことだと呼びます。

ソロモンは社会の中の邪についても話します。多くの人々は神様の律法を拒絶し、その律法を拒絶する人を誉めます。(28:5)

彼らはその律法を拒絶するので、道徳的に堕落してしまいます。(28:5)

それに、彼らは正しい人を迫害し始めます。(箴言29:10)

それでは、どうやって、私たちはそんな社会に住むべきでしょうか。ソロモンはこう言います。「神様の道を行き続けなさい。その道を捨てるな。」

彼はこう書きました。

幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。

しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。(28:14)

私たちの周りの悪を見ると、自分の心が堅くなるのは簡単なことです。私たちの愛が冷たくなるのは簡単なことです。(マタイ24:12)

つまり、私たちの神様に対する愛、周りの人々に対する愛が冷たくなってしまいます。

そのような態度に注意しましょう。神様に対する柔らかい心を保ち、主を恐れ続けましょう。

ソロモンは私たちに警告します。

耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。(28:9)

また、

潔白な生活をする者は救われ、曲がった生活をする者は墓穴に陥る。(28:18)

だから、悪と戦い続け(28:4)、頑張って働き(28:19)、忠実に生き(28:20)、周りの人々に対して気前がいい態度を持ってください。(28:27)

あなたが罪を犯してしまうなら、すぐに悔い改めてください(28:13)。そして、自分の子供にそのように生きるように訓練するべきです(29:15,17)。

周りの人々は神様の律法を捨てるかもしれませんが、神様の道に従い続けるべきです(29:18)。

一番大事なポイントは、神様を信頼し続けるべきだということです。

ソロモンはこう書きました。

自分の心にたよる者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。(28:26)

また、

人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:25)

神様がエレミヤに命じられたように、私たちにもこう命じられます。

彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。

わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。

彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。――主の御告げ(エレミヤ15:19-20)

あなたはどうですか。周りの人々のようになっているでしょうか。それとも、この暗闇の中で、光となっているでしょうか。

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箴言

足元に注意する

「足元にご注意ください。」

私たちが危険な状態に入っているとき、人々は私たちにいつも警告してくれます。そして、この世には、いろんな落とし穴があります。

だから、ダビデはソロモンにその落とし穴について警告して、ソロモンも自分の息子に警告しました。

彼はこう言いました。

わが子よ。聞け。私の言うことを受け入れよ。そうすれば、あなたのいのちの年は多くなる。

私は知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。

あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走るときにも、つまずくことはない。

訓戒を堅く握って、手放すな。それを見守れ。それはあなたのいのちだから。(箴言4:10-13)

ダビデとソロモンが自分の息子たちに警告したように、神様も私たちに神様の息子と娘として警告してくださいます。

神様が私たちを正しい道に導いておられるので、私たちが神様に従うと、周りの人々が躓くかもしれませんが、私たちは決して躓きません。もし、神様のみ言葉を見守るなら、私たちは命の道を見つけます。

どれぐらい、クリスチャンのリーダーたちはその教えを見守らなかったので、躓いたでしょうか。

彼らを批判するのは簡単なことですが、私たちが気を付けないと、私たちも躓くでしょう。私たちも同じ罪に落ちるでしょう。

だから、ソロモンは「足元に注意しなさい」と警告します。

また彼は、「罪人の道を避けなさい。むしろ、日に照らされる道を歩みなさい。その道は命に導くから。」と言います。

ソロモンはこう言いました。

義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。

悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない。(18-19)

要するに、私たちがイエス様に従えば従うほど、イエス様は真理をもっと表してくださるし、私たちの道はもっとはっきりします。

しかし、聖書の光を拒絶すると、私たちは目が見えなくなって、躓き、落とし穴に落ちてしまいます。

ソロモンはこの個所をこの言葉でまとめます。

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(23)

要するに、あなたの心に何が入らせるか気を付けましょう。また、あなたの心がどこに行かせるか気を付けましょう。あなたの心を危ない所に行かせないようにしましょう。

むしろ、

あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。

あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。

右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。(25-27)

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詩篇

聖所となるように救われた、神の国民になるように救われた

詩篇114篇では、詩人はどうやって神様がイスラエル人をエジプトから救い出し、砂漠を通して、約束の地に導いてくださったかを話します。

神様はイスラエル人のためにいろんな奇跡を行って、自分の力を表されました。(詩篇114:3ー8)

けれども、2節は私の心を打ちます。

詩人はこう歌います。

ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった。(詩篇114:2)

どうして、神様はイスラエル人のためにたくさんの奇跡を行われたでしょうか。

神様の目的は、神様が彼らの間に住み、イスラエル人が神様の聖い国民になることです。

そのように、神様は、ただ私たちが天国に行くために私たちを救ったのではありませんでした。むしろ、神様は私たちの間に住むように私たを救われました。

また、私たちが神様の宮となり、神様は私たちの中に住まわれます。そして、神様の民として、私たちは神様が設立する国に参加します。

だからペテロはこう書きました。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)

その最後の部分に注意してください。どうして、神様は私たちを聖所とされるのでしょうか。どうして、神様は私たちを自分の国民とされるのでしょうか。

私たちが神様の素晴らしい御業を宣べ伝え、私たちの周りの人々を闇の中から神様の驚くべき光の中に導くためです。

主よ。私の中に住んで、私があなたの使節になるようにしてください。あなたが私を闇の中から光の中に招いてくださり、ありがとうございます。

私たちの周りの人々があなたの光に来るように私たちを用いてください。アーメン。

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ゼカリヤ書

勝利、命、光を与える方

ゼカリヤ書の最後では、私たちはイエス様がこの世に戻られる様子を見ることができます。また、イエス様がこの世を治める1000年の時代についても描かれています。

将来、周辺の国々がエルサレムを攻撃し、エルサレムの民の半分が追放されることが起こります。けれども、その時、イエス様はすぐに戻られるのです。

その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。

オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。(ゼカリヤ書14:4)

その時、世の光は無くなりますが、神様はご自身の栄光でこの世を照らされます。夜になっても、光があります。(6-7)

ヨハネはこう書きました。

都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(黙示録21:23)

それだけではなく、エルサレムから湧き水が流れ出ます。おそらく、エゼキエル47:3-11も同じことについて言及しています。

神様はイスラエルのために戦い、その敵に災害を送られます。12節を読むと、神様が国々の核兵器を彼ら自身に向けて使われるのではないかと考えます。そうかもしれませんが、はっきりとは分かりません。

それでも、その患難の後、世のすべての人々は神様を王として認め、神様の正義と恵みを喜びます。

かつて、ユダヤ人たちは仮庵の祭りを祝いました。その時、彼らは神様に感謝を捧げました。なぜなら、神様は彼らをエジプトの奴隷生活から救い出し、砂漠を越える間、守ってくださったからです。

同じように、私たちも神様を賛美します。なぜなら、神様は私たちをサタンの国の奴隷生活から救い出し、私たちの試練を通して導き、守ってくださったからです。

しかし、悔い改めない人々には裁きが待っています。

ここから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

1. 神様は勝利を与えてくださるお方です。

サタンは神様に逆らい、私たちを攻撃しますが、最終的に勝利を収めるのは神様です。実際、神様はすでに勝利しておられます。イエス様が十字架で死なれた時、神様は勝利されました。

とはいえ、サタンはその勝利を認めたくありません。それでも、どんな試練に遭っても、私たちは勝利を得ることを確信できます。それだけではなく、私たちは罪と死に対しても勝利を得るのです。

パウロはこう書きました。

しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(第一コリント15:57)

2.神様は命を与えてくださるお方です。

エルサレムから水が流れて、死海を魚が生きる場所に変えるように、聖霊様は私たちの人生に流れ込み、命を与えてくださいます。

しかし、神様から離れている人は命を離れ、惨めな人生を送ることになります。

3.神様は光を与えてくださるお方です。

私たちの人生が暗く、希望が見えない時、神様は私たちに光を照らし、希望を与えてくださいます。また、私たちが迷い、どの道を進むべきか分からない時、神様は正しい道に光を当ててくださいます。

主よ。あなたが私たちに勝利と命と光を与えてくださり、感謝します。どうか毎日、私たちがあなたにすがりつき、聖なる人として歩めるよう助けてください。

そして、毎日、私たちがあなたの目的のために生きることができますように。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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エゼキエル書

私たちの国の希望はどこから来るか

私たちの国の希望はどこから来るのでしょうか。

イスラエルの人々は自分たちのリーダーたちに信頼を置きました。彼らは、そのリーダーたちの力と知恵によってイスラエルが栄えることを願い、希望しました。

そして、アッシリヤやバビロンの軍隊が攻撃してきたとき、イスラエルの人々は救いをリーダーたちに求めました。

けれども、彼らの希望は虚しいものでした。この箇所は、そのことについて語っています。

雌獅子はイスラエルを象徴していました。その最初の子獅子はエホアハズでした。彼はユダの王となりましたが、三か月後にはエジプトへ追放され、そこで死にました。

次に王となったのはエホヤキムでした。けれども、彼もまたユダを救うことはできませんでした。それどころか、彼はエジプトのしもべとなりました。

その後、バビロンがエジプトを打ち破ると、エホヤキムはバビロンのしもべとなり、最終的にはバビロンへ追放されることになりました。

だから、

雌獅子は、待ちくたびれ、自分の望みが消えうせたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子とした。(エゼキエル書19:5)

その若い獅子はエホヤキンでした。しかし、彼もまたバビロンへ追放されてしまいました。

そのため、エゼキエルはイスラエルのために深く悲しみました。かつてイスラエルは実を結ぶ良い枝のようであり、国々の中で力強い存在でした。

ところが、自分たちの罪のゆえに、ユダは、

憤りのうちに引き抜かれ、地に投げ捨てられ、東風はその実を枯らし、その強い枝も折られて枯れ、火に焼き尽くされた。(12)

そして、ユダは、

荒野と砂漠と、潤いのない地に移し植えられ「た」。(13)

つまり、彼らはバビロンに追放されました。(10-14)

その結果、結局イスラエルの人々が信頼して委ねた王たちは皆、いなくなってしまいました。

多くの国々の希望は、そのリーダーたちにかかっています。そのリーダーたちの知恵と力によって、その国が栄えることを望んでいます。

しかし、その国民が神様に背を向けて自分の道を進むなら、どれだけリーダーが優れていても、命の源から離れてしまえば国は枯れ始めます。

もしそのリーダーが悪い者であれば、その国はさらに早く滅びます。

国の救いは政治家にはありません。国の救いは人々の心から始まります。一人一人が神様に向かい、自分の心を捧げるなら、国は変わり始めるのです。

私は政治が重要ではないと言っているのでしょうか。そうではありません。とはいえ、私たちの国が神様に向かわなければ、希望はまったくありません。

ですから、あなたはどのように行動していますか。周りの人々に神様の愛をもって接していますか。

神様は私たちに暗闇の中の光となるように呼びかけています。私たちはその光となりましょう。

神様こそが、この国の希望です。神様こそが、この世界の希望です。

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神様の愛を反映する

イザヤ書60:1ー3が大好きです。

起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。

見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。

しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。(イザヤ書60:1~3)

「国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」

「あなたの光」、「あなたの輝き」というのはどういう意味でしょうか。

一節には、「あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いている」と書かれています。

そのため、「あなたの光」とは神様を指しているのでしょうか。つまり、国々は直接主のもとへ来るということなのでしょうか。

それとも、私たちが主を反映する存在であるために、国々は私たちのところに来るのでしょうか。

おそらく、そのどちらも真実なのではないでしょうか。

イエス様の栄光が私たちの上に輝いているため、周りの人々はそれに気づき、私たちに興味を持つようになります。そして、私たちを通して彼らもイエス様を知りたいと思うようになります。

この世には、悪と罪が満ちています。そのため、多くの人々は暗闇に迷い込み、「この世にあって望みもなく、神もない人たちでした」(エペソ2:12)とあるような状態にあります。

けれども、イエス様がこの世に来られた時、その暗闇の中でイエス様は光となりました。イエス様は希望の光でした。

そして今、イエス様はその希望の光を私たちの心に照らしてくださいました。ですから、私たちはそのいただいた光をこの世に反映するように召されています。

私たちの贖いと救いを喜ぶことは、確かに良いことです。しかし、神様は私たちが神様の光をこの世に照らすように召されています。なぜなら、神様はこの全世界の人々が、私たちが与えられた喜びを知ることを望んでおられるからです。

イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイの福音書5:14-16)

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神様の光に歩む。自分の光に歩む。

「私が何をしているか自分でよく分かっている。あなたの教えなんて必要ない。」

私たちはよくそのような態度を取りますが、結局行き詰まってしまいます。そしてその時、私たちはしばしば神様を責めます。

「なぜ、あなたは私を見捨てたのですか。」

イスラエルの民も同じようにしました。自分たちの罪の結果として困難に陥ったにもかかわらず、彼らは神様を責めたのです。

あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか。わたしが彼女を追い出したというのなら。あるいは、その債権者はだれなのか。わたしがあなたがたを売ったというのなら。

見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。

なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。(イザヤ書50:1-2)

イスラエルの民はこう文句を言いました。「あなたは私たちの母であるエルサレムを離婚し、私たちというその子供たちを見捨てた。」

しかし、神様は答えられました。

「離婚状はどこにあるのでしょうか。私は誰にあなたたちを売ったでしょうか。私は何もしていません。

あなたたちの罪のせいで、あなたたちは自分自身を奴隷として売り渡したのです。

私はあなたたちを見捨ててはいません。私は家に帰って来たが、去ったのはあなたたちです。不実であったのは私ではなく、あなたたちです。」

そして、神様は不実なイスラエルと来るべきメシアを対比されます。天の父はイエス様に「弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教えられた」のです。

さらに、イエス様は毎日天の父の言葉に耳を傾けておられました。イエス様は天の父に決して反抗せず、その御心に従うために苦しみを耐え忍ばれました。

そのため、天の父は常にイエス様を助け、いつもイエス様と共におられました。(4-7)

そして、神様はこう言われました。

あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。

暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。

見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。

このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。(10-11)

神様は何を言われているでしょうか。

もし、あなたが暗闇に迷い、つまずいているのなら、神様に信頼を置いてください。そして、神様とその知恵に頼り続けてください。

そうすることで、暗闇を抜け出し、光の中に入ることができます。神様の赦しを知り、そしてイエス様のように、あなたもこう言うでしょう。

私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。

どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。(8-9)

パウロは同じような言葉を書きました。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:33-34)

しかし、もしあなたが自分自身の「光」に頼り続けて歩むなら、最終的に苦しみを味わうことになるでしょう。

どれほど私たちは自分の知恵に頼って生き、自分の人生を自ら台無しにしているのでしょうか。私たちが神様に耳を傾けないことで、結婚生活や経済が混乱し、破綻してしまいます。

そして、それにもかかわらず、私たちは神様を責めるのです。

もし私たちが神様に従い、その道を歩むなら、私たちの人生はどれほど豊かで平安に満ちたものになるでしょうか。

あなた自身はどうでしょうか。神様の光に導かれて歩んでいますか。それとも、自分自身の光に頼って歩んでいるのでしょうか。