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列王記第二のデボーション

全き心?

ただしエフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることから離れようとはしなかった。。。

しかしエフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけることをせず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。(列王記第二10:29,31)

今日、私は上の言葉を反芻しました。

神様は、アハブに属する者を殺すことによってアハブに対する神の裁きを実行するためにエフを褒められました。

なぜなら、アハブとその家族は罪を犯しただけでなく、イスラエルの民を罪に導いたからです。特に、彼らがイスラエルの民をバアル礼拝に導いたことが問題でした。

エフはバアル礼拝を止めたので、神様はそれを喜ばれました。

しかし、上の言葉によれば、神様はエフの心をすべて持っておられなかったようです。

エフはバアルを礼拝しなかったものの、ヤロブアムが偽りのヤハウェ礼拝のために立てた金の子牛を礼拝し続けました。(列王記第二12:26-33)

その罪、またおそらく他の罪に関しても、エフは主の律法に従おうと心がけることをしませんでした。(出エジプト記20:4-5;申命記12:5-14)

それを読んで、私は自分にこの二つの質問を投げかけました。

1.私がしがみついている罪があるのだろうか。私が離れようとしない罪があるのだろうか。小さくても、私の人生にそのような罪があるのだろうか。

2.私は心を尽くして神様の言葉に従おうと心がけているのだろうか。私は神の戒めの最も小さいものにも従っているのだろうか。(マタイ5:19)

私は、神が私の心の一部ではなく、すべてを持っておられることを望みます。あなたはどうでしょうか。