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ヨシュア記のデボーション

自分の冠をイエス様の前に投げ出す

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」

彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」

ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」(ヨシュア記5:13ー14)

ヨシュア記5章には、さまざまな素晴らしい真理が記されています。

神様が恥辱を私たちから取り除かれるという概念が、私は大好きです(9節)。

また、神様を信頼し、従わなければ、私たちは霊的な荒野をさまよい、神様が用意してくださった良い計画を知らずに終わってしまう、という真理についても考えさせられます。(6節)

でも、この章を読むたびに、私はなぜか13〜14節に目が引かれます。このブログでも、その節について5度も書いたことがあるのです。

ヨシュアは神の民の指導者でした。しかし、主の軍の将(多くの聖書学者は、彼こそイエス様であると信じています)が現れると、ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、こう尋ねました。 「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」

今日、この場面を読んだとき、私は黙示録4章を思い出しました。

また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。

また、自分たちの冠を御座の前に投げ出し(ました)。。。(黙示録4:9ー10)

二十四人の長老たちが神の御座の前にひれ伏し、自分たちの冠を御座の前に投げ出したように、ヨシュアもまた、自分の冠を主の軍の将の前に投げ出し、神のご支配に従いました。

今日、私もそのように応答しました。

イエス様、私の冠をあなたの前に投げ出します。あなたは私の王です。私はあなたのご支配に従います。何をこのしもべに告げられるのですか。

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コリント人への手紙第一

失格の危機にある?

9章では、パウロはコリントの人々に「冠を失うことのないよう注意すべきだ」と警告しました。

彼の要点は、自己中心的な態度を持ってはならないということです。なぜなら、彼らが自分の権利ばかりを主張し、自己中心に行動したことで、良心の弱い人々が罪に陥ってしまったからです。

そのため、パウロは、コリントの人々が報いを失う危機にあることを警告しました。

パウロ自身も、自らの報いを失わないために、自分の権利を犠牲にしました。

10章では、パウロはさらに自身の考えを説明します。

彼は、神様がエジプトから救い出されたイスラエルの民について語ります。そして、彼らが荒野で経験した出来事をクリスチャンの歩みに例えます。

イスラエルの民が紅海を渡ったことは、バプテスマの経験に似ています。彼らは古い人生、つまり奴隷の生活に対して死に、神様の民となりました。

彼らは天からのパンを食べました。(イエス様はヨハネ6:33-35で、ご自身を「天からのパン」と呼ばれました。)

そして、彼らは岩から生ける水を飲みました。(ヨハネ7:37-39によれば、その水は聖霊様の象徴でした。パウロによれば、その岩もキリストの象徴でした。)

けれども、イスラエルの民は約束の地という報いを受けたでしょうか。残念ながら、彼らはその土地に入る権利を失い、荒野で命を落としました。

なぜでしょうか。

一部のイスラエルの民が偶像礼拝を行ったからです。彼らは自ら造った偶像を拝む際に、酔っぱらったり、あるいは性的な罪を犯した可能性もあります。(出エジプト記32章)

正直なところ、その時彼らが性的な罪を犯したかどうかは定かではありません。とはいえ、民数記25章では、彼らが確かにその罪を犯し、その結果として滅びてしまいました。

ほかのイスラエルの民は主に信頼せず、不平を言いました。彼らは食べ物や水がないことに不満を抱き(民数記21:4-9)、また約束の地にいる強大な敵を見て、カナンに入ることを拒みました(民数記14)。

だから、パウロはこう記しています。

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。(コリント人への手紙第一10:11)

要するに、イスラエルの経験は、私たちへの例えです。その例えは何を教えているでしょうか。

私たちは洗礼を受け、聖餐式に参加し、神様の御霊に満たされます。それでも報いを失う可能性があります。もし本当にクリスチャンであるなら、救いは失われませんが、冠を失うことがあります。(第一コリント3:15)

では、どのようにして冠を失うのでしょうか。それは、一時的なものに焦点を当てることによって失われます。つまり、この世の快楽に夢中になったり、試練に直面して不平を言ったりすることです。

この世の快楽に心を奪われると、私たちは最も大切なものを見失います。すなわち、神様とその御国です。試練に焦点を当てて不満を述べるなら、私たちは信仰を失い、走るべきレースを途中でやめてしまいます。

だから、パウロは私たちに警告を与えています。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(12)

一時的な快楽に夢中になり、報いを失わないように。

また、この世のものに執着し、神様や兄弟姉妹への愛を忘れないように。 そして、試練によって信仰を失わないように。

むしろ、

一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。(へブル人への手紙12:1)

あなたはどうでしょうか。報いを失う危機にあるでしょうか。

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コリント人への手紙第一

何としても

この箇所は非常に有名です。

25-27節で、パウロは私たちの人生をマラソンに例えています。神様が定められたこのマラソンの中で、私たちは走り続けています。

では、私たちはどのような報いを求めているのでしょうか。それは、イエス様が私たちに託された使命を成し遂げるための冠です。

私たちに託された使命とは何でしょうか。それは、御国を広げることです。

では、その冠とは何でしょうか。詳細はわかりません。けれども、イエス様の教えによれば、私たちはイエス様の称賛を受け、イエス様の喜びを共に味わうことができます。

さらに、この世での忠実さに応じて、御国においてより大きな責任を委ねられるようです。(マタイ25:21、23)

だからこそ、私たちは自らに問いかけるべきです。その冠を得るために何をするでしょうか。何としても、神様から託された使命を果たすでしょうか。

パウロはこう記しています。

競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。

ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。(コリント人への手紙第一9:25~27)

少し考えてみてください。もしマラソンに参加しようと思うなら、ただ今日どのように人生を楽しむかを考えるのではなく、むしろ目的を果たすために今日の楽しみを犠牲にするでしょう。

例えば、ポテトチップスやハンバーガーを食べずに、健康的な食事を選びます。テレビやインターネットを見る時間を減らし、毎日努力して何時間も走ります。そうすれば、賞を得る可能性が高まります。

同様に、神様の御国を本当に広げたいと願うなら、私たちは自分の人生を中心に据えてはいけません。この世の快楽を追い求めるのではなく、むしろ御国に仕えるために、自分の欲するものを犠牲にしなければならない時もあります。

だから、パウロは福音を伝える際に報酬を受けることを断りました。その結果、より多くの人々がクリスチャンとなりました。

また、パウロはユダヤ人と共に食事をする際、クリスチャンとしての自由を犠牲にし、モーセの律法に従って聖い食べ物だけを食べました。

さらに、傷つきやすい良心を持つ人々と共に食事をする際も、クリスチャンとしての自由を犠牲にし、偶像に捧げられた肉を避けました。

けれども、私たちの多くは自己中心的です。自分自身を喜ばせることだけに意識を向け、時に自分の権利ばかりを考えすぎて、他者の気持ちを踏みにじってしまうことがあります。

あるいは、私たちはケチで、必要としている人々を助けないかもしれません。また、自分の時間を大切にするあまり、困っている人のために時間を割くことを避けてしまうこともあります。

もしかすると、ミニストリーにおいて、私たちの動機が誤っていることがあるかもしれません。私たちは、何よりも相手からの尊敬や金銭的な報酬を求めてしまうことがあります。

しかし、そのような態度を持つなら、裁きの日に失格者となり、冠を受けることはできません。

では、その冠を受けるために、何としても成し遂げようとするでしょうか。冠を得るために、今日の快楽を犠牲にするでしょうか。冠を得るために、自らの権利や時間、財産、プライドなどを犠牲にするでしょうか。

それとも、この世のものを求め、失格者となるでしょうか。

あなたはどう歩みますか?