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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

上げられて、刈り込まれた

キリスト教をほかの宗教と比べると、一つの大きな違いは、私たちの義が自分の努力によるものではないことです。むしろ、神様が私たちの心を変えてくださるので、私たちのふるまいが変わり始めるのです。

旧約聖書において、神様はこの概念を初めて教えられました。神様はエレミヤを通して、こう言われました。

見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。。。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。

わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31:31,33)

また、神様はエゼキエルを通してこう言われました。

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。(エゼキエル36:26-27)

そして、今日のヨハネの箇所では、イエス様は神様の働きをさらに詳しく説明されています。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(ヨハネの福音書15:1-2)

イエス様によれば、天の父は実を結ばない枝を取り除き、実を結んでいる枝をさらに多く実を結ぶように刈り込まれます。

では、神様が実を結ばない枝を取り除くとはどういう意味なのでしょうか。

私は、それがクリスチャンが救いを失うということではないと思います。他の聖書の箇所がその考えを否定しているからです。

この意味について、二つの可能性があると思います。

第一に、イエス様はイスカリオテ・ユダのような人々について話しているのかもしれません。

ユダはイエス様のもとに来て、多くのことを学びました。彼は実際に弟子となりました。けれども、最終的に彼は実を結びませんでした。彼はイエス様を心から信じることはありませんでした。だからこそ、彼は取り除かれてしまったのです。

今日でも、多くの人々が教会に通い、聖書から学んでいます。ところが、彼らは本当にその言葉を信じることはありません。そのため、彼らもまた取り除かれるのです。

しかし、もう一つの可能性があります。

「取り除く」という言葉は、「上げる」とも訳すことができます。

もしかすると、イエス様が意味されたのは、天の父が実を結ばない枝を日差しにさらすように持ち上げることだったのかもしれません。

そうすることで、その枝はより多くの栄養を受け、健康になり、やがて実を結び始めるのです。

このように、神様は私たちを罪や失敗から引き上げ、私たちが実を結ぶように、私たちの心の中で働かれます。そして、私たちが実を結び始めると、神様はその実の成長を妨げるものを刈り込まれます。

神様はペテロのためにもそのようにしてくださいました。

ペテロはイエス様を裏切ったことで深く落ち込んでいました。けれども、イエス様は彼を引き上げ、励まされました。

イエス様はペテロが自分自身を変えるのを待たれませんでした。むしろ、イエス様はペテロのもとに行き、彼の心に働きかけ、憂鬱から引き上げて、前に進めるように促されたのです。

とはいえ、ペテロが実を結び始めると、イエス様は「では、私の働きは終わりだ」と言われることはありませんでした。

むしろ、イエス様はペテロの偏見を刈り込まれたことで、ペテロはかつて見下していた異邦人にも福音を伝え始めたのです。(使徒の働き10-11)

ところが、その過程はまだ終わっていなかったのです。

ペテロは再び失敗しましたが、イエス様はもう一度ペテロを引き上げ、さらに刈り込まれました。(ガラテヤ人への手紙2:11-14)

あなた自身はどうでしょうか。クリスチャン生活を振り返ると、失望することがありますか。

神様があなたを責めることはなく、決してあきらめることもない、ということを心に留めておきましょう。

むしろ、あなたが完全になるまで、神様はあなたの心の中で働き続けておられます。

だから、神様から逃げず、むしろ神様に近づき、とどまりましょう。そうすることで、あなたは実を結ぶのです。