映画の中で、私が最も好きな作品のひとつは「ア・フュー・グッドメン」です。
特に印象的なシーンは、軍事裁判所で二人の被告が判決を聞く場面です。その直前、海兵隊の大佐は、自らが海兵隊員たちに別の隊員を「しつける」よう命じたことを認めました。
けれども、その命令によって、彼らはその隊員を誤って死に至らしめてしまいました。
当然、その大佐は逮捕されましたが、その後も陪審員たちは二人の海兵隊員についての判断を下さなければなりませんでした。
陪審員が評決を決めた後、裁判官がその結果を読み上げます。
「殺害の容疑に関して、陪審は被告人たちに無罪の判決を下します。」
「殺害を謀った容疑に関して、陪審は被告人たちに無罪の判決を下します。」
その言葉を聞いて、多くの人は二人がまったく罰を受けないと思ったかもしれません。
ところが、裁判官は続けました。
「米国海兵隊員としてふさわしくない行為の容疑に関して、陪審は被告人たちに有罪の判決を下します。」
そして、裁判官はその刑を宣告しました。
けれども、その裁判官とは違い、パウロは私たちについてまったく異なることを語ります。
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ人への手紙8:1)
ある聖書学者は、この箇所を次のように言い換えました。「神様は私たちを責める言葉を一つも言われません。」
映画の裁判官とは違い、神様は「この容疑について、あなたに無罪の判決を与える。この容疑についても、あなたに無罪の判決を与える。けれども、この容疑については、有罪の判決を下す」とは言われません。
むしろ、神様は私たちに「すべての容疑について、あなたに無罪の判決を与える。」と言われます。
どうしてでしょうか。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを開放したからです。(2)(「原理」は別訳です。聖書の脚注を見てください。)
罪と死の原理とは何でしょうか。それは、「罪を犯すと、あなたは死ぬ」という原理です。
もし神様の律法に違反すれば、あなたは裁かれることになります。そして、私たちは皆、罪を犯したので、すでに裁きを受けています。
けれども、御霊の原理は私たちを罪と死の原理から解放します。
では、御霊の原理とは何でしょうか。それは、神様の恵みによって、私たちが義と認められることです。御霊が私たちのうちに住んでおられるので、私たちは新しい命を受けました。
そして、パウロは続けてこう言います。
肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。
神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪の清めのために遣わし、肉において罪を処罰されました。
それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに律法の要求が満たされるためなのです。(3-4)
律法には、何ができないのでしょうか。律法は私たちを義とすることができませんでした。なぜでしょうか。
それは、律法が何が善で何が悪かを示すことしかできなかったからです。けれども、私たちは罪深い心を持ち、神様に逆らっていたため、その律法に従おうとはしませんでした。
神様はそれをご覧になり、何をされたでしょうか。神様は私たちの罪に対処するために、イエス様を遣わしてくださいました。
イエス様は罪を犯すことなく、完全に律法に従われました。そして、十字架において、天の父はイエス様に私たちの罪を置かれました。私たちの代わりに、イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。
律法によれば、すべての罪は罰せられなくてはなりません。イエス様が十字架で死なれたとき、私たちのすべての罪は罰されました。だからこそ、イエス様を通して、律法の要求が満たされたのです。
ところが、それだけではありません。私たちがクリスチャンになるとき、神様は聖霊様を遣わされ、聖霊様は私たちのうちに住まわれます。そして、聖霊様の導きによって、私たちは義人として歩み始めます。
私たちは、かつての罪深い心の影響を感じることがあるかもしれません。しかし、聖霊様が罪に対する勝利を与えてくださり、私たちは神様の御計画のとおりに生き始めるのです。
そして、私たちが裁かれているかのように感じるとき、また、神様の愛と恵みにふさわしくないと感じるとき、聖霊様は私たちの心にささやかれます。
「あなたは神様の子供です。あなたは神様に属する者です。あなたはもう裁かれていません。」
あなたはどうでしょうか。「神様は、私が安心したころを見計らって、突然私を罰する」と思っているでしょうか。
神様は決してそのようなことをされません。あなたが神様に属するなら、神様はあなたを責めることはありません。
だからこそ、パウロはこう言うのです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。
この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。(ローマ人への手紙8:15)
