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申命記のデボーション

心の包皮に割礼を施す

主はただあなたの父祖たちを慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫であるあなたがたを、あらゆる民の中から選ばれた。今日のとおりである。

あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者(脚注:すなわち、強情なもの)であってはならない。(申命記10:15ー16)

「心の包皮に割礼を施しなさい。」

それはいったいどういう意味でしょうか。

割礼とは、イスラエルの男性たちに行われた儀式です。それは、彼らが神様の民であることを証明したものでした。

しかし、割礼を受けても、多くのイスラエル人の心はまだ割礼されていないものでした。

つまり、彼らの心は神様のものではなかったということです。むしろ、彼らは古い考え方と古い生活にしがみつきました。それらは、神様との関係を妨げるものとなりました。

私は最近、教会のメッセージでアブラムについて話しました。アブラムもイスラエル人と同じ問題を抱えていました。

自分の心が完全に神様のものになるため、彼は古い考え方や古い生活を切り捨てなければなりませんでした。(創世記12章)

神様はアブラムを慕って愛されたように、私たちを慕って愛してくださいます。けれども、私たちはそれを本当に信じているでしょうか。

もしそう信じるのであれば、神様を完全に信じ、従うことを妨げるものを考えましょう。

神様の助けによって、また他のクリスチャンたちの助けによって、そのものを切り捨てましょう。

そうすれば、私たちは心を尽くし、命を尽くして、神様を愛し、神様を喜ばれる道を歩むことができます。(12節)

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ローマ人への手紙

神様の真実な性格

ユダヤ人たちが2章だけを読むと、パウロはユダヤ人であることや割礼を受けることに価値がないと教えているように思われるかもしれません。

しかし、3章では、パウロはユダヤ人であることや割礼を受けることに価値があるとはっきりと教えています。彼はこう語りました。

それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。

あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。(ローマ人への手紙3:1-2)

要するに、ユダヤ人であることの一つの利点は、神様が彼らに直接ご自身を現されたことです。そのため、彼らは神様の御名を知り、神様がどのような方であるかを理解しました。

他の国々の人々も、被造物を通して神様の存在を知ることができました。けれども、それ以上のことは分かりませんでした。

しかし、以前も述べたように、そのような知識を持つことにはマイナス面もあります。つまり、より多くの知識を持っている人は、神様からより厳しい裁きを受けることになるのです。

そして、残念なことに、ユダヤ人たちの歴史を振り返ると、彼らは神様を知っていながらも背を向け、異なる神々に従っていました。

では、神様はユダヤ人たちを見捨てられたのでしょうか。一部の聖書学者たちは、そのように考えています。彼らの主張によれば、クリスチャンこそが「新しいイスラエル」です。

ある意味では、それは正しいとも言えます。後の箇所で見るように、私たちは神様の家族の一員とされたのです。

とはいえ、「神様はユダヤ人たちを完全に見放された」と断言するのは行き過ぎた解釈かもしれません。パウロは、ユダヤ人について次のように語っています。

では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。決してそんなことはありません。

たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。

「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます」と書いてあるとおりです。(3-4)

あるユダヤ人たちは神様に背を向けたかもしれません。それでも、神様はユダヤ人たちを決して見捨てることはありませんでした。彼らの不真実は、ユダヤ人たちに対する神様の真実を無にすることはなかったのです。

人は自分の約束を破ることがあるかもしれませんが、神様は常にご自身の約束を守られます。だから、神様の裁きが不公平だと言える人は誰もいません。

このような理由から、いつかすべてのユダヤ人がイエス様こそメシアであると信じるようになるでしょう。

しかし、ユダヤ人ではない人も、この箇所から励ましを受けることができるでしょう。なぜなら、私たちもユダヤ人たちと同じように、しばしば不真実であるからです。

私たちは、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じず、時には神様が私たちの最善を知らないかのように思うことすらあります。そのため、私たちは神様とその言葉を捨てて、自分の道を歩もうとします。

それでも、神様は決して私たちをあきらめることはありません。神様は私たちを追い求め続けてくださいます。

だから、時に神様は私たちを懲らしめられます。けれども、その懲らしめの中にも、神様の愛と最善を望む御心があるのです。そして、たとえ何度失敗しても、神様が私たちを見放されたのではないかと心配する必要はありません。

パウロは別の手紙の中で、次のように語っています。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

だから、私たちが失敗するときも、つまずくときも、神様の真実な御性格を心に留めておきましょう。そして、神様の約束を心に刻み続けましょう。

わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(へブル13:5)

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ローマ人への手紙

本当の割礼

パウロの時代、ユダヤ人たちは神様に関して大きな誤解を抱えていました。彼らは、神様が人の外見よりも心を重視されることを忘れていたのです。

特に、割礼を受ければ神様に義と認められると考えていましたが、心の中にある罪には目を向けていませんでした。

神様は、旧約聖書の預言者たちを通して、この問題について警告されました。預言者エレミヤを通して、神様はこう語られました。

見よ、その時代が来るーー主のことばーー。

そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを切り上げているすべてのものを罰する。

すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。(エレミヤ9:25-26)

つまり、ユダヤ人たちが肉体的な割礼を受けることよりも、神様は彼らの心を求めておられました。もし彼らの心が神様に属していないなら、その割礼は神様にとって無意味なのです。

だから、パウロはこう語りました。

もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。

ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。

からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。

外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の体の割礼が無割礼ではないからです。

かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。(ローマ人への手紙2:25-29)

パウロは仮定的な状況について語っているようです。

もし誰かが律法を完全に守ることができたなら、その人は割礼を受けていなくても、神様に受け入れられるでしょう。その一方、誰かが律法に違反するなら、たとえ割礼を受けていても、神様はその人を律法の違反者として裁かれます。

さらに、律法に従う者は、割礼を受けている人を裁くことができるでしょう。

とはいえ、当然のことながら、割礼を受けている人も受けていない人も、律法を完全に守ることができる人は誰もいません。

だからこそ、パウロはユダヤ人たちに語ります。「割礼を受けても、あなたが本当のユダヤ人と呼ばれるとは限りません。割礼を受けても、あなたが神の民とされるとは限りません。割礼とは、単なる肉体的な儀式ではなく、心に関わることです。

御霊による心の割礼を受ける者こそが、神様の民であり、神様に受け入れられるのです。」

では、心の割礼とはどういう意味なのでしょうか。パウロはこう語りました。

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉の体を脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。(ローマ人への手紙2:11)

肉の体とは、「罪深い性質」を意味します。

言い換えれば、私たちは罪の鎖に縛られていました。しかし、キリストを信じて歩み始めると、イエス様はその罪の鎖を断ち切ってくださいました。それ以前の私たちは、罪深い性質に引き寄せられ、その欲望に従っていました。

けれども、聖霊がその性質を割礼されたことによって、私たちは神様に属する者となりました。さらに、罪の鎖が断ち切られたことで、神様に従う自由が与えられ、正しい人生を歩む力を授けてくださいました。

ただし、この心の割礼は、私たちの努力によるものではありません。むしろ、私たちは信仰をもってイエス様に心を捧げ、こう祈ります。

イエス様、あなたを必要とします。私は自分自身を救うことができません。どうか私を救ってください。私はあなたを信頼し、あなたの十字架の働きを信じます。だからこそ、私の罪を赦してください。私があなたのものとなるように。

このように祈るなら、あなたは神様の子供とされ、その瞬間、神様に義と認められるのです。

あなたはどうでしょうか。自分の心を神様に捧げていますか。心の割礼を受けた者となっていますか。

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使徒の働き

すべての人に、すべてのものとなる

この箇所では、私たちは少し不思議な出来事を目にします。パウロは各地を巡り、クリスチャンたちに異邦人に関する教会の決定を伝えました。つまり、異邦人は割礼を受ける必要がないということです。

それにもかかわらず、パウロはテモテに割礼を受けさせました。なぜでしょうか。

おそらく、テモテが純血のギリシャ人であれば、パウロは彼に割礼を受けさせなかったでしょう。

実際、テトスという人物は純血のギリシャ人であり、パウロは彼に割礼を受けさせませんでした(ガラテヤ2:3)。さらに、テトスの働きの対象は主に異邦人でした。

けれども、テモテの場合、彼の母がユダヤ人であり、彼自身もユダヤ人たちに福音を伝えたいと願っていました。そして、もしテモテが割礼を受けていなかったならば、ユダヤ人たちは彼の言葉に決して耳を傾けることはなかったでしょう。

そのため、テモテがユダヤ人に仕えたいと願うのであれば、割礼を受ける必要がありました。

パウロはその真理を次のように説明しました。

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。

律法の下にある人たちにはーー私自身は律法の下にはいませんがーー律法の下にあるもののようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。。。

すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。(第一コリント9:20,22)

では、パウロの模範から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

できる限り、あなたが仕える人々に共感するべきです。そうしなければ、彼らはあなたの言葉に耳を傾けてくれないでしょう。

日本の宣教師として、私は日本人の言語や文化、考え方を学ぶべきです。

とはいえ、あなたが自分の国に住んでいる場合でも、周りの人々の考え方や生活、楽しんでいることを知るべきです。そして、できる限り相手のことを理解し、共感するよう努めるべきです。

例えば、あなたは社交的な人かもしれませんが、相手は内気な人かもしれません。

その場合、最初から大きな教会に彼らを紹介するのではなく、一対一で時間を過ごす方がよいかもしれません。また、もう一人か二人のクリスチャンの友人を紹介するのもよいでしょう。

もしかしたら、あなたはスポーツがあまり好きではないかもしれません。それでも、相手から誘われたなら、一緒に行く方がよいでしょう。

簡単に言うと、できる限り相手のことを理解し、共感しましょう。テモテもパウロもそうしました。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたの人生にどのような人を置かれたでしょうか。彼らが救われるために、どのように彼らをもっと知り、共感できるでしょうか。