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箴言

神様のみ言葉を正しく理解する

時として、人々は聖書をどのように読めばよいか分からず、聖書の内容を正しく理解できないことがあります。

たとえば、関係のない箇所を組み合わせてしまい、奇妙な解釈や誤った理解が生まれることがあります。箴言8章と第一コリント1章24節は、その一例です。

たとえば、エホバの証人は箴言8章を読んで、「この箇所はイエス様のことを語っている」と考えます。なぜそう思うのでしょうか。

それは、「知恵」が人間のように語っているからです。特に22ー31節では、知恵がこう語っています

主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。

大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。(箴言8:22-23)

また、

地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。(29-30)

だからエホバの証人はこう言います。

「第一コリント1:24によれば、キリストは神の知恵です。

ですから、箴言8章では、イエス様が語っているのです。この箇所によれば、神様は創造の働きを始める前から、イエス様を立てられました。つまり、神様がイエス様を造られたのです。

だからイエス様は神様ではなく、神様の被造物なのです。」

けれども、箴言7章から8章を丁寧に読むなら、その考え方が誤っていることに気づくはずです。

残念ながら、新改訳の表現ではその誤解が見えにくいかもしれません。それでも、7章と8章を通して、知恵が女性として描かれていることがわかります。

実際、新改訳でも7:4にその描写が見られます。

知恵に向かって、「あなたは私の姉妹だ」と言い、悟りを「身内の者」と呼べ。

そして、8章でも、ヘブル語で、こう書いてあります。

知恵は呼ばわらないだろうか。英知は彼女

これは丘の頂、道のかたわら、通り道の四つかどに彼女は立ち、門のかたわら、町の入口、正門の入口で彼女は

英語の翻訳を読むと、「彼女(she)」という表現が明確に使われていることがわかります。

それを見ると、おそらくエホバの証人の解釈に問題があることに気づくでしょう。彼らは「イエスは箴言8章の知恵である」と主張しますが、イエス様は女性ではありません。

それでも彼らは、箴言の箇所と第一コリントの箇所、さらにコロサイ1:15ー17節を組み合わせて、「イエス様は神ではなく、被造物である」と結論づけます。

しかし、そのようなまとめ方をすれば、聖書からどんな主張でも導き出せてしまうことになります。

「ユダは」外に出て行って、首をつった。(マタイ27:5)

するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)

さあ、自殺しようか。

それは極端で愚かな話です。けれども、文脈を無視して関連のない箇所を組み合わせると、そのような誤った解釈が生まれてしまいます。

ですから、聖書を読むときには、必ずその箇所の前後を丁寧に読みましょう。そうしないと、エホバの証人のように、私たちも誤った考えに導かれてしまうかもしれません。

箴言7章から8章にかけて、ソロモンは何を語ろうとしているのでしょうか。知恵は本当に女性なのでしょうか。そうではありません。彼は比喩を用いて、知恵を女性になぞらえているのです。

そして、ソロモンはこう語ります。 「知恵はあなたを呼びかけています。不貞な女があなたを誘惑するように(7章参照)、知恵もあなたに語りかけているのです。

しかし、不貞な女はあなたを死へと招いています。

知恵はあなたを真の命へと導きます。神様が天地を創造された時、知恵は神様とともにおられました。そして、知恵を通して、すべての被造物はどのように生きるべきかを知ることができるのです。」

知恵によって、王たちは治め、君主たちは正義を定めます。知恵によって、支配者たちは国を導きます。

今、知恵は分別のない者に呼びかけています。知恵を通して、あなたも分別を身につけることができます。思慮深さを得て、祝福にあずかることができるのです。

知恵を見出すなら、この世のどんな宝物にもまさる価値あるものを見つけることになります。

知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。(11)

実は、私は少し古い歌「More Precious Than Silver」(銀にまさる)がとても好きです。この歌は箴言8:11と3:15節に基づいています。

その歌の作詞者の意図は分かりませんが、おそらく彼はその箇所を正確に理解していなかったのでしょう。きっと「知恵はイエス様のことだ」と考えたのだと思います。

だから、彼はこう書きました。

「主よ、あなたは銀にまさります。あなたは金より価値があります。あなたはダイヤよりも美しいです。私が求めるものは、何もあなたに勝るものはありません。」

もちろん、イエス様はすべてにまさるお方です。とはいえ、箴言のこの箇所では、知恵は「男性」ではなく「女性」として描かれています。

とにかく、私たちは主を求めましょう。主の知恵を求めましょう。ただし、その言葉を正しく読み、正しく理解することが大切です。

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詩篇

神様はどのようにご自身を示されるのか

私は、詩篇19篇が大好きです。この詩篇で、神様がどのようにご自身を現されるかを教えてくださいます。

最初に、神様は被造物を通してご自身を現しておられます。ダビデはこう歌いました。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。

昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。

話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。

しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。(詩篇19:1-3)

多分、パウロはこの詩篇について考えたとき、この言葉を書いたでしょう。

それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1:19-20)

時々、人々はこう訊きます。「神様について聞いたことがない人はどうなるでしょうか。彼らはキリストの名前について聞いたことがないのに、裁かれるのでしょうか。」

その答えは、「はい、裁かれます。」

けれども、その理由は、彼らがキリストの名前を聞いたことがないから裁かれるわけではありません。彼らが知っていることによって裁かれます。

つまり、彼らは被造物を見た時、心の中で、この世が偶然の産物ではないと悟ることができます。

また、彼らの偶像がこの世を造ることができなかったと分かったと思います。なぜなら、彼らは自分の手でその偶像を造ったからです。それでも、彼らはその知識を拒絶しました。

人々が神様が与えてくださった知識を拒絶するなら、神様がもっと情報を与える義務はありません。もし、神様がもっと情報を与えるのであれば、それはただ恵みによって与えてくださるのです。私たちはその情報を持つ権利がありません。

実は、神様についての情報のすべては賜物なのです。

しかし、もし福音が届かない国の人が、空を仰いで、「私はこの世を造らなかった。私が知っている人々もこの世を造らなかった。私が作った偶像もこの世を造らなかった。だから、この世を造った方、自分自身を私に現してください。」と言うなら、神様はきっとその人の祈りに応えるでしょう。

どうして私はそう信じるのでしょうか。それは、パウロがこう書いたからです。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(第一テモテ2:4)

そのことを疑うなら、コルネリオの話を読んでください(使徒の働き10章)。

彼はイエス様を救い主として受け入れなくてはならないことを知りませんでした。けれども、彼は神様について聞いたことを信じたので、神様はもっと情報を与えました。

つまり、神様はペテロを送って、ペテロがコルネリオとその家族にイエス様のことを伝えたので、彼らは信じて救われました。

神様は被造物を通してご自身を現されますが、御言葉を通しても現されます。そして、被造物の知識のように、人々はその御言葉を信じるかどうか選ばなくてはなりません。

私たちは、その言葉が完全で確かなものであることを信じるかどうか選ばなくてはならないのです。(7)

神様の御言葉が正しいものであることを信じるかどうか選ばなくてはならない。(8)

神様の言葉が私たちに喜びと光を与えるものであることを信じるかどうか選ばなくてはならない。(8)

ダビデは信じることを選びました。けれども、多くの人はその選択をしません。

しかし、私たちが神様の御言葉をどのように考えるかは、私たちが神様をどのように考えるかに影響を与えます。もし神様の言葉を拒絶すると、私たちの神様についての考え方は間違ってしまいます。

けれども、私たちが神様をありのままに見ると、私たちは神様を愛し、喜ばせたいと望むようになります。ダビデもそうしました。だから、彼はこう祈りました。

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。(詩篇19:12-14)