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ガラテヤ人への手紙

アブラハムの真の子孫

パウロがこの箇所を書いたとき、ヨハネの福音書第8章におけるイエス様とユダヤ人たちの議論を思い浮かべていたでしょうか。私には分かりませんが、パウロは同じテーマについて語っています。つまり、アブラハムの真の子孫とは誰かということです。

ユダヤ人たちは自分たちこそアブラハムの真の子孫であると考えていました。なぜなら、アブラハムは実際に彼らの先祖であり、彼らは神様がモーセに与えてくださった律法を持ち、それに従おうとしていたからです。

そこでイエス様は彼らにこう言われました。「もしあなたが私の教えを信じ、それに従うなら、あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にする。」すると、彼らは驚いて答えました。

彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、「あなたがたは自由になる」と言われるのですか。」(ヨハネの福音書8:33)

そして、イエス様とユダヤ人たちは、アブラハムの真の子孫について長い間議論しました。

イエス様は彼らに言われました。「あなたがたはまだ罪を犯しています。アブラハムの子供であるからすでに自由だと主張していますが、実際にはまだ罪の奴隷です。

私は、あなたがたを罪から解放する者です。私があなたがたを自由にしたなら、あなたがたは本当に神様の子どもとなるのです。」(ヨハネ8:34-36)

ところが、ユダヤ人たちはそれを聞いてもなお、自分たちこそアブラハムの子孫であると主張し続けました。そこでイエス様は彼らにこう言われました。

あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。

ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。(ヨハネ8:39-40)

要するに、アブラハムは神様の言葉を聞いたとき、すぐにその言葉を信じました。信仰によってその言葉を受け入れたため、彼は救われました。その結果、彼は神様の子供と呼ばれるようになりました。

その一方、ユダヤ人たちはイエス様を拒絶し、その言葉を信じなかったため、自分たちこそアブラハムの真の子孫ではないことを証明してしまいました。

今日の箇所で、パウロはこのことを教えています。彼はこう言いました。

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。

聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。

ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。(ガラテヤ人への手紙3:6-9)

パウロによれば、アブラハムが神様に義と認められたのは、律法に従ったからではありません。なぜなら、その当時、律法はまだ存在していなかったからです。それに、アブラハム自身も罪を犯したことがありました。

それでも、最終的にアブラハムは神様とその約束を信じたため、神様に義と認められました。

アブラハムの真の子孫は、彼と同じように生きます。私たちは失敗するときもありますし、罪を犯すこともあります。

私たちは、神様の律法を完全に守ることで義と認められるのではありません。むしろ、イエス様を信じることによって、神様に義と認められるのです。

実際のところ、もし私たちが自分の正しい行いによって義と認められようと努めるなら、パウロによれば、私たちはかえって呪われてしまいます。

律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。

「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。(10)

しかし、良い知らせは、イエス様が私たちの代わりに呪われたということです。パウロはこのことを説明します。

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。(13)

十字架で死なれたとき、イエス様は律法の呪いをすべて受け、私たちに対する神様の怒りを担われました。そして、パウロによれば、イエス様は私たちを贖い出してくださいました。言い換えると、イエス様は罪の奴隷である私たちをサタンの国から買い取って、解放してくださいました。

だから、私たちもアブラハムが受けた救いの祝福を受けることができます。私たちがしなければならないのは、ただ神様の約束を信じることです。

パウロは自らの議論をこのようにまとめています。

律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(11)

あなたはどうでしょうか。あなたはアブラハムの真の子孫でしょうか。イエス様を信じていますか。それとも、自分の良い行いによって神様に義と認められようと努力しているでしょうか。

神様を信じず、自分の資格によって義と認められようとする者は、誰も救われません。

あなたの救いは何に基づいているでしょうか。自分の努力に頼っていますか。それとも、神様に頼っていますか。

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ガラテヤ人への手紙

自力による救いを説く福音の問題点

この箇所では、パウロは福音をユダヤ人クリスチャンたちの攻撃から守ろうとしていました。彼らが主張するのは、パウロが宣べ伝える恵みの福音は罪に導くものだということです。

しかし、パウロは自分が伝えた福音を擁護するだけでなく、相手の福音の問題点を指摘しました。彼はこう言いました。

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(ガラテヤ人への手紙2:21)

簡単に言えば、もし私たちが神様に義と認められるために律法を守らなければならないとしたら、イエス様はなぜ死なれなければならなかったのでしょうか。神様は古い体制を続けて、イエス様が死ぬ必要はなかったはずです。

けれども、その必要がなかったとしたら、なぜ神様はイエス様が殴られ、鞭で打たれ、十字架につけられることを許されたのでしょうか。イエス様がその苦しみを受けられたにもかかわらず、なぜ神様はもう一度私たちを律法の下に置かれるのでしょうか。それは理にかなわない話です。

それでも、今もなお多くの人々がそのように考えています。特に、カルトの人々はこう言います。「もちろん、イエス様はあなたの罪のために死なれたが、彼はあなたの罪の代価を完全に支払うことができませんでした。だから、あなたは自分の救いのためにまだ働かなければなりません。」

しかし、パウロはその考え方に反論します。「その考え方は愚かです。自分の努力によって救いを得ることはできません。もしあなたがそうできるのなら、神様はイエス様を十字架に送られることはなかったでしょう。」

この議論を通して、パウロは「イエス様が神様への多くの道の一つである」という考え方に反論します。

もし仏教やヒンズー教、その他の宗教によって人が神様に義と認められるのなら、神様はその道を用いられたはずなのです。

もし他の道があったのなら、なぜ神様はイエス様が十字架で苦しまれることを許されたのでしょうか。それは意味をなさないのです。

だから、天国への別の道があるという考え方を捨てましょう。また、私たちが自分の努力によって救いを得られるという考え方も捨てましょう。

他に道がなかったからこそ、イエス様は十字架で死なれました。他の道があると主張し、イエス様の十字架を軽んじることがないようにしましょう。

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詩篇

私たちの努力の限界

ソロモンは詩篇127篇を書いたのですが、私はこの詩篇を読むと、ネヘミヤの話を思い浮かべます。

ソロモンはこう書きました。

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。

主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。(詩篇127:1)

もちろん、ネヘミヤは自分の計画を立てました。ユダヤ人の敵がエルサレムを脅した時、彼は対策を練りました。とはいえ、神様がユダヤ人と共におられなかったら、その計画は虚しかったでしょう。

私たちが自分の役割を果たすことと、神様に信頼して委ねることのバランスがあります。

もし、私たちが座っているだけで何もしないなら、神様の祝福は期待できません。けれども、神様が私たちの計画の中心でなければ、私たちの努力は虚しくなるでしょう。

多くの場合、私たちはこう祈ります。「神様、私たちはこうすることにしました。私たちの計画を祝福してください。」

しかし、私は最初からこう祈るべきです。「神様、あなたの御心を教えてください。私たちはどうすれば良いでしょうか。」

ネヘミヤの話を見ると、彼が何をしても、いつも祈っていたことが分かります。私たちもそうするべきです。

ソロモンはこう書きました。

あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。

主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。(2)

多くの人々の問題は、その人生を仕事中心にすることです。けれども、彼らは自分の健康と家族を放置してしまいます。

もちろん、仕事は大切なのですが、私たちの優先順位が正しいかどうか確認しなくてはなりません。私たちはちゃんと寝るべきだし、ちゃんと食べるべきだし、家族と一緒に時間を過ごすべきです。

ソロモンはそれを理解していました。特に家族の大切さが分かっていました。だから彼はこう書きました。

見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。(3)

もし、あなたの仕事が大変すぎて、ちゃんと寝られず、しっかり食事をとれず、家族と時間を過ごせないなら、新しい仕事のために祈った方が良いと思います。

とにかく、心に留めてください。あなたの人生を神様中心にしてください。そうすれば、あなたの努力は決して虚しくなりません。しかし、そうしないなら、あなたの努力は最終的に虚しくなります。