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詩篇のデボーション

主に仕える人を励ます

さあ、主をほめたたえよ。 主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。

聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。(詩篇134:1ー2)

エルサレムにたどり着くと、巡礼者たちは神殿で仕える人たちに上の言葉を歌いました。

それを聞いて、その神殿で仕える人たちは巡礼者たちを祝福しました。(3)

神殿で仕える人たちに、手を上げて主をほめたたえるように促すことは、ちょっと不思議だと思わないでしょうか。それは彼らの仕事ではないでしょうか。

でも、主に仕える人たちには、危険があります。それは、彼らが心を主に向かって礼拝することを忘れるほど、奉仕に集中してしまうことです。

だから、あなたが教会のリーダーなら、もちろん心を尽くして主に仕えてください。でも、それと同時に、主に向かって礼拝することを忘れないように注意してください。

そして、あなたが主に仕える人からよく祝福を受けるなら、その人を励ましてください。

もちろん、彼らに「ありがとうございます!」というべきです。でも、それよりも、彼らに主に向かって礼拝するように促しましょう。

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コリント人への手紙第一

教会に持ち寄る、与える心

教会を離れるとき、多くの人々はこう言います。「私はその教会から何の益も得られませんでした。」

つまり、彼らはエンターテインメントを期待し、教会のメンバーが常に世話をしてくれることを望んでいました。けれども、その期待が満たされなかったため、教会へ行くことに興味を失ってしまったのです。

それは自己中心的な考え方です。クリスチャンとして、そのように考えてはいけません。

パウロはこう語りました。

それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。

そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。(コリント人への手紙第一14:26)

パウロによれば、教会に来るとき、私たちはいつも「頂戴、頂戴、頂戴」という態度を持っていてはいけません。

むしろ、「私は何を人々に与えることができるだろうか。どのようにして人々を励まし、強めることができるだろうか」と考えるべきです。

パウロは、牧師たちだけがそのように考えるべきだとは言いません。むしろ、すべての人が何かを教会に持ち寄り、周りの兄弟姉妹に与えるべきだと言いました。

最も成熟したクリスチャンでも、洗礼を受けたばかりのクリスチャンでも、「私はどのように人々を祝福することができるだろうか」と考えるべきです。

若いクリスチャンでも、自分の心に響いた聖書の箇所を分かち合うことができます。子供でも、イエス様についての歌を歌うことができます。

ある日曜日、教会から帰る途中、私の娘は日曜学校で学んだ歌を歌いました。 「神様はどこですか。神様はここにおられます。あなたがどこへ行っても、神様はあなたと共におられます。」

だから、「今日、教会で何の益を得るのだろうか」と考え、自己中心的な態度で教会に行くのはやめましょう。

むしろ、どのように人を励まし、強めることができるかを考えましょう。

また、愛と善行を促すために互いに注意を払おうではありませんか。

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ、励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。(へブル10:24-25)

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箴言

真の友だち

一生を通じて、私は親友ができて、本当に良かったと思います。良い時でも、悪い時でも、彼らは私を応援し、支えてくれました。

数年前、親友の大切さを改めて感じました。その時、私はスモールグループに参加し、5人の友だちと一ヶ月に二回ほど集まり、自分の人生について話し、聖書を読み、祈り合いました。

その時、私たちの人生は非常に大変でした。私が勤めていた会社が倒産し、私は失業中でした。他の人には、彼女とのトラブルがあったり、婚約者と別れたり、奥さんががんにかかったりしました。

そのため、私たちは皆、友人を必要としていました。そして、その友人関係と神様の助けのおかげで、私たちはその問題を乗り越えました。

ソロモンは、そんな友だちについて書きました。

友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(箴言17:17)

また、

滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。(箴言18:24)

私が高校生の時に、父はこう言いました。「お前は内気なのはよく知ってるけれど、親友が必要だよ。親友はたくさんいなくてもいいけれど、少なくとも一人は持っていた方がいい。」

その時期、私には友だちがいたけれど、親友がいなかった。私は本当に心を誰にもシェアできなかった。だから、父の言葉は私の心を打ちました。

そして、神様の恵みによって、親友ができました。特に、高校生時代、また、大学生の時代、その親友関係が私の人生を形作りました。

おそらく、私たちは自分自身に二つの質問を問うべきです。私たちにはそんな関係があるでしょうか。

そして、私たちはどのような友達でしょうか。私たちの友だちが困る時、彼らを助けるでしょうか。

それとも、私たちはすぐに逃げるでしょうか。19章では、ソロモンはそんな「友だち」についてこう書きます。

財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される。(箴言19:4)

また、

貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。(箴言19:7)

あなたはどうですか。あなたの友だちが苦しんでいるときに、あなたは消えてしまうでしょうか。それとも、彼らを支えて、励ましてあげるでしょうか。

もちろん、彼らが経済的な問題を抱えている場合、私たちは常にお金をあげるわけではありません。しかし、私たちはできる限り、彼らが自分の問題を乗り越えるために助けてあげるべきです。

あなたは本当の友だちでしょうか。