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士師記のデボーション

主があなたに先立って出て行かれるではありませんか

デボラはバラクに言った。「立ち上がりなさい。今日、主があなたの手にシセラを渡される。主があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」(士師記4:14)

今日、この言葉を思い巡らしていました。「主があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」

神様が先に導いてくださらない所に、私が行くように命じられることはありません。私が生きれば生きるほど、その真理を実感してきます。

時には、信仰のステップを進み出るのは怖いです。バラクにも怖かったし、私にも怖いのです。

でも、デボラの言葉を思い巡らして、私はこのように祈ります。

天のお父さん、あなたが良い神であることを私に何度も証明してくださいました。あなたがいつも私の先に行かれ、導いてくださることを証明してくださいました。

だから、私が前を向いて、信仰によって進み続け、あなたに従うことができるように助けてください。どうか私を導いてください。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

私たちが必要な祈り

今日、私はパウロの祈りに深く感動しました。なぜなら、彼がテサロニケ人たちのために祈ったことは、まさに私自身に必要な祈りだからです。実際、それはすべてのクリスチャンにとって必要な祈りです。

パウロはこう言いました。

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(第二テサロニケ2:11ー12)

私たちがよく考えるのは、自分自身を良い人にしなければならないということです。自分の力と自制心によって、自分自身を変えなくてはならないと考えがちです。

しかし、パウロが祈っているのは、神様が私たちを召しにふさわしい者としてくださり、神様の力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から生まれる働きを実現してくださるということです。

それによって、イエス様が私たちの間であがめられ、私たちにも主にあって栄光が与えられます。

けれども、その栄光は私たち自身の素晴らしさによるものではなく、私たちの人生に働いている天の父の恵みと御子の恵みによるものです。

そして、パウロはこう祈ります。

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。(第二テサロニケ2:16ー17)

また、

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(第二テサロニケに3:5)

私たちの信仰の根底には、一つの根本的な真理があります。それは、神様が私たちを深く愛してくださるということです。

パウロが祈ったのは、イエス様が日々私たちを天の父の愛へと導き、私たちが必要な励ましと希望を受けることができるようにということです。そして、その励ましと希望によって、私たちはあらゆる良いわざとことばのために、神様によって強められます。

さらに、テサロニケ人たちのように、私たちが試練や苦しみに直面するとき、パウロは、私たちがイエス様を仰ぎ見ることによって、勇気を得るように祈りました。十字架で私たちの罪の代価を支払ってくださったイエス様の忍耐に目を向けることによってです。

私は前にも言いましたが、私たちはよく、自分の力と自制によってクリスチャン生活を送ろうとしてしまいます。

でも、イエス様が私たちを天の父の愛へと導いてくださるように、イエス様の十字架を覚えていましょう。神様の愛とイエス様の十字架に、心を向けて思いを巡らしましょう。

そして、あなたのあらゆる良いわざと言葉が、神様の愛とイエス様の十字架への感謝から生まれるものでありますように。

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列王記第一のデボーション

真の男らしさ

あなたは強く、男らしくありなさい。

あなたの神、主への務めを守り、モーセの律法の書に書かれているとおりに、主の掟と命令と定めとさとしを守って主の道に歩みなさい。(列王記第一2:2-3)

ダビデの言葉は、男の人にも女の人にも当てはめられますが、この話では、ある男性(ダビデ)がもう一人の男性(ソロモン)に「男らしくありなさい」と命じたことを考慮して、特に男性たちに語りかけたいと思います。

現代の社会では、「男らしさ」というイメージは次第にぼんやりしたものになってきましたが、以前は「男らしさ」と聞くと、人々は「強い」、また「勇敢」というイメージを持っていました。

ダビデの時代でも、人々はそのように考えていたことでしょう。

しかし、真の男とは、単に強くて勇気のある人のことではありません。

真の男とは、神の口から出る一つひとつのことばによって生きる人のことです。

そして、そのことばに従うためには、時に真の心の強さと勇気が求められるのです。

最近、マルコ10章を読んで、私が気づいたのは、イエス様が真の男とは何であるかという模範を示してくださったということです。

天の父は、イエス様をエルサレムに十字架で死ぬために送りました。

イエス様が恐れを抱き、死を望まれなかったとしても、また弟子たちが恐れていたとしても、イエス様は思い切ってエルサレムへ向かわれました。(マルコ10:32)

イエス様は、十字架で死ぬほどに、天の父の口から出る一つ一つのことばによって生きられました。

イエス様は、真の男です。

私はそのような男性になりたいと願っています。男性たち、あなたはどうでしょうか。

私たちは、何としても天の父の口から出る一つ一つのことばによって生きる者となるでしょうか。

良い知らせは、私たちが自分の力でそれを成し遂げる必要はないということです。

実際、自分の力だけでは、それを成し遂げることはできません。

だからこそ、イエス様のことばを心に留めておきましょう。

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。

枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:4-5)

男性たち、あなたはどうするでしょうか?

私たちの妻たち、息子たち、娘たち、そして周りの人々は、私たちを見つめ、私たちの反応を待っています。

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使徒の働き

私たちのそばに立ってくださる神

時々、聖書を読むと、私たちは使徒たちやほかの聖書の登場人物をスーパーヒーローのように見なします。例えば、彼らは勇気を持ち、恐れることなく死に直面します。

もちろん、そのような話もあります。シャデラク、メシャク、そしてアベデ・ネゴは、まさにそのような勇気を持っていたようです。(ダニエル書3章)

とはいえ、神様を信じた人々が常にそんな勇気を持っていたのかどうかは、私にはわかりません。結局、彼らもただの人間だからです。

そのため、今日の箇所を読むと、パウロの心の中に何があったのか、私は考えずにはいられません。

最高法院の人々の論争が激しくなり、千人隊長はパウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと恐れました。そこで、兵士たちはパウロを最高法院の人々の中から救い出し、兵営へと連れて行きました。

その夜、パウロは眠りにつくとき、何を考えていたでしょうか。彼は恐れていたでしょうか。彼は、神様からの使命を全うできるのか疑っていたでしょうか。

パウロが何を考えていたか、私にはわかりません。しかし、イエス様はパウロを励まされました。

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。
(使徒の働き23:11)

二つのことが、私の心を打ちました。

一つ目は、イエス様がパウロのそばに立たれたことです。

私たちが最も暗い時、試練の中にいる時、恐れや疑いにさいなまれる時、イエス様はいつも私たちのそばに立ってくださいます。

二つ目は、イエス様がパウロに「勇気を出しなさい。」と言われたことです。

もしパウロがすでに勇気を持っていたなら、なぜイエス様は 「勇気を出しなさい」と言われたのでしょうか。

もしかすると、パウロの境遇のために、彼の心は少し揺れていたのかもしれませんが、イエス様は彼を安心させ、「勇気を出しなさい」と励まされました。

時々、私たちの信仰も揺らぐことがあります。神様の道を歩んでいるとき、本当に正しい道を進んでいるのかどうかを疑うことがあります。

けれども、イエス様はパウロに言われたように、私たちにも語られます。「勇気を出しなさい。」

では、どうすれば私たちは勇気を持つことができるのでしょうか。それは、神様が私たちの人生においてご自身の計画を成し遂げられるからです。そして、サタンやこの世のどんな力も神様の計画を妨げることはできません。

イエス様はパウロにこう言われました。

あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。(11)

要するに、「あなたの敵について心配するな。あなたは私の目的を果たす。だから、しっかりして、私に信頼しなさい。」

あなたはどうですか。あなたの境遇のため、信仰をだんだん失いかけているでしょうか。相手があなたに反対しているので、恐れているでしょうか。

勇気を出しましょう。イエス様があなたのそばに立ってくださっていることを覚えておきましょう。そして、イエス様に信頼し続け、従い続けましょう。イエス様がご自身の計画を成し遂げられることを確信しましょう。

そして、パウロの言葉を心に刻みましょう。

主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4:5-7)

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使徒の働き

代価がどんなに高くても

この箇所の解釈は少し難しいかもしれません。

なぜ神様はその預言をパウロに示されたのでしょうか。神様は、パウロがエルサレムに行かないように警告されたかったのでしょうか。それとも、パウロが試練に備えることを望まれたのでしょうか。

私の考えですが、おそらく神様はパウロが試練に備えるために、あらかじめ警告されたのだと思います。

イエス様が初めてパウロに現れたときから、すでにパウロがユダヤ人や異邦人に福音を述べ伝える中で苦しむことを警告されていました。(使徒の働き9:15-16)

だからこそ、他のクリスチャンたちがパウロに「エルサレムへ行かないでほしい」と願ったとき、パウロはこう答えたのではないでしょうか。

あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。(使徒の働き21:13)

つまり、どれほど代価が高くても、パウロはイエス様に従おうと努めました。だからこそ、周囲の人々が何を言っても、彼の決意は揺るぎませんでした。

あなたはどうでしょうか。

神様は決して、私たちが順調な人生を送ることを約束されたわけではありません。また、神様に従うことですべての人々が私たちを愛してくれるとも約束されませんでした。

むしろ、神様はその正反対のことを約束されました。(ヨハネ16:33;第二テモテ3:12)

あなたはすでにそのことを知っているかもしれません。しかし、試練に直面したとき、あなたはどうするでしょうか。

その試練が訪れるとき、神様が恵みと勇気を与えてくださるように願います。

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エステル記

勇気

時々、私はモルデカイとエステルを批判しますが、彼らが持っていた尊敬すべき特徴は、その勇気だと思います。

あなたは、モルデカイがハマンにひざをかがめてひれ伏さないという決断に賛成できないかもしれませんが、その決断には大きな勇気が必要でした。なぜなら、彼は王の家来たちから多大なプレッシャーを受けていたからです。

さらに、モルデカイはエステルにも勇気を持つように励ましました。

エステルは、モルデカイが荒布をまとい、灰をかぶり、大声でひどくわめき叫んでいることを聞くと、自分のしもべを送って、モルデカイがなぜ泣いているのかを尋ねました。

モルデカイはその状況を説明し、エステルに王にあわれみを求めるように頼みました。

けれども、問題がありました。彼女は一ヶ月ほど王に全く会っていませんでした。その理由は分かりません。おそらく、彼は戦争の計画で忙しかったのかもしれません。

あるいは、彼は別のそばめと時間を過ごしていたのかもしれません。

とにかく、エステルは長い間王に会っていませんでしたし、王が自分と話したいのかどうかも分からなかったのです。

私の想像ですが、エステルの心に疑いが浮かんだかもしれません。「王は私の国籍を知っただろうか。私を殺すためにハマンの計画に同意したのだろうか。」と思い始めたかもしれません。

ペルシャの律法によれば、招待されずに王に会うことは禁止されていました。もし王が手に持っている金の笏をその人に差し伸べなければ、その人はすぐに殺されました。

ペルシャの歴史によれば、手紙を送り、王に会うことを頼む人もいました。けれども、エステルにはそのような自信はありませんでした。

そのため、エステルは王と話すことをためらいました。しかし、モルデカイはこう答えました。

あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。

あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。(エステル記4:13-14)

それは本当に厳しい言葉でした。それでも、いつものようにエステルはモルデカイの言葉を受け入れ、その指示に従いました。

彼女はこのメッセージを送りました。

行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。

たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。(6)

以前言ったように、エステル記を批判する人もいます。なぜなら、エステル記には「神様」や「主」という言葉が全く出ていないからです。

それはそうかもしれませんが、エステルと他のユダヤ人たちが断食する際には、きっと彼らは神様の恵みを求めていたのだと思います。

そして、神様はその祈りに応えられました。

エステルが王に近づいた時、彼女はおそらくとても緊張していたと思います。けれども、王はエステルを見ると、その金の笏を彼女に差し伸べました。それがユダヤ人の救いの始まりでした。

私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

時々、私たちは辛い状況に直面し、勇気が求められることがあります。

時々、エステルのように、私たちは厳しい言葉を聞き、正しいことを行うようにチャレンジされます。

しかし、何もしない方が楽です。そのために、私たちはいろいろな言い訳をします。時には、その言い訳はもっともなものだと思うこともあります。

けれども、本当の勇気とは、辛くても神様の言葉に従うことです。エステルの場合、王に近づくことで殺される可能性がありました。

彼女は王が何をするか全く分かりませんでした。それでも、エステルは神様を信頼し、自分の人生を神様の手に委ねました。

私たちが神様に従う時、結果がどうなるか分かりません。時には、私たちの人生がさらに辛くなることもあります。

イエス様は完全に天の父の御心に従われたのに、からかわれ、鞭で打たれ、十字架で殺されました。また、多くのイエス様の弟子たちも神様の御心に従いましたが、彼らも命を奪われました。

しかし、モルデカイが言ったように、神様の計画を果たすために、神様は私たちを今の状況に置かれました。

だから、何が起こっても、エステルのように神様に従いましょう。

イエス様はこう言われました。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。(ルカ9:23-24)