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詩篇のデボーション

私たちの動機

あなたの恵みは私の目の前にあり
あなたの真理のうちを私は歩み続けました。(詩篇26:3)

今日、いくつかの英訳を読み比べました。最も大きな違いは、「真理」と訳されている語が「忠実」とも訳せるという点です。

そのため、ある英訳では次のように訳されています。

あなたの誠実な愛は私の目にあり、
あなたの忠実さによって、私は歩み続けます。

別の訳では、こう表現されています。

あなたの誠実な愛を心に留め、
あなたの忠実さに頼って歩みます。

しかし、この意訳が私の心に特に響きました。

あなたの誠実さを心に留め、
あなたの忠実さは私の心を動かします。

神様の目が私たちの心を探っておられることは、少し恐ろしく感じられるかもしれません。時には、私たちを精錬する過程は痛みを伴います。

けれども、私の動機は恐れではなく、神の誠実な愛と忠実さです。

だから、私は毎日、喜んで自分の心を神様にさらけ出すことを選びます。

あなたはどうでしょうか。

あなたは神の誠実な愛と忠実さを知っていますか。

あなたの動機は何でしょうか。

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出エジプト記のデボーション

私のすることすべてが。。。

心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。(出エジプト記35:21)

モーセはイスラエルの子らに言った。

「見よ。主は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、 彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。(出エジプト記35:30ー31)

天のお父さん、私のすることすべてが心から流れるようにしてください。

義務からではなく、回りの人々の期待からでもなく、あなたの恵みと愛に触れられ、感謝に満ちた心から私が仕えるようにしてください。

私の動機はよく複雑なものです。私が心のすべてをあなたに捧げるように助けてください。

私が弱くても、自分の物足りなさを感じても、あなたは私を名指して召してくださいました。

あなたの御霊で私を満たしてください。あなたの仕事を成し遂げるため、私に知恵と英知と知識を与えてください。

あなたを離れては、私は何もできません。でも、あなたにとどまっているなら、私は多くの実を結ぶことができます。

私はあなたのために多くの実を結びたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

私の動機は何だろうか

私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。

神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。(テサロニケ人への手紙1: 3ー4)

パウロの言葉を読んだとき、私はこう思いました。「私の動機は何だろうか。それは、私に対する神様の愛だろうか。つまり、神様が愛によって私を選び、養子にしてくださったことですか。」

どうして、私はクリスチャンの生活を送るのでしょうか。神様が良い方であると確信しているからでしょうか。

どうして、主に仕えているのでしょうか。神様に対する愛、また、周りの人々に対する愛のゆえに仕えているのでしょうか。

大変なとき、どうして私は我慢するのでしょうか。イエス様にある私の希望のゆえに、我慢できるのですか。

信仰。希望。愛。それらによって、クリスチャンの生活は重荷ではなく、喜びです。

主よ。私の信仰が毎日成長するように。私をあなたの愛に根差してください。そして、苦しむときに、あなたにある私の希望を思い出させてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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コリント人への手紙第一

忠実であると認められること

使徒ヤコブは次のように記しました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)

私は聖書を教える立場にあるため、それは私にとって少し恐れを感じる言葉です。神様は私にみ言葉を与え、そのみ言葉を教える賜物を委ねてくださいました。だから、パウロの言葉は私の心に深く響きます。

その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。(コリント人への手紙第一4:2)

しかし、私たちすべてが神様から託されたものを持っています。神様は私たちに多くの資源や賜物、才能を委ねてくださいました。そして、神様はそれらを忠実に用いることを私たちに期待されます。

もし私たちがそうしなければ、神様の前で責任を問われることになります。

神様は私たちの裁き主であるため、私たちは他の人以上に神様を喜ばせようとしなければなりません。最終的には、牧師や教会の人々、周囲の誰かではなく、ただ神様だけを喜ばせることが求められるのです。

だからこそ、私たちは常に自分の心を探るべきです。私たちの動機は何でしょうか。私たちは正しい動機を持って神様に仕えているでしょうか。

私自身も、自分の動機について疑問を抱くことがあります。裁きの日にキリストが私に何を語るかを思うと、少し恐れを感じます。イエス様は何を言われるでしょうか。

パウロにはやましいことは何ひとつありませんでしたが、それでも彼は自分の動機について慎重に考えていました。彼は次のように語りました。

しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。

主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(3-5)

おそらく、パウロの要点の一つは、私たちが自分の心をプライドから守る必要があるということです。自分の動機は正しいと思うかもしれませんが、その自己評価が正しいとは限りません。

預言者エレミヤは次のように記しました。

人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。(エレミヤ書17:9)

主は次のように応答されました。

わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。(エレミヤ書17:10)

だから、どのようなことをするにしても、自分の心を探りましょう。また、主があなたの心を探ってくださるように祈りましょう。さらに、主が私たちの動機を明らかにしてくださるように祈りましょう。

そうすれば、私たちは謙遜な態度を保ち、神様から託されたものを忠実に用いることができるのです。

あなたはどうでしょうか。神様から託されたものを忠実に用いていますか。

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マタイの福音書 マタイ6章

山上の説教:私たちの動機

山上の垂訓において、イエス様はしばしば私たちの心にあるものを指摘されます。

この箇所では、イエス様は、神様が私たちの行動だけでなく、私たちの動機も見ておられると教えます。

それゆえ、イエス様はこう教えます。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(1)

そして、イエス様は三つの例を挙げられます。

一つ目は、施しをすることです。その時代、施しをするときに人々に認められたがる人がいました。彼らは、皆の前で貧しい人々にお金を渡しました。

けれども、イエス様は次のように言われました。「そうすれば、神様から報いを受けることはできません。あなたは神様からの報いを求めずに、周りの人々からの誉れを求めたからです。あなたは、すでに周りの人々から報いを受けました。」

次に、イエス様は祈りについて話されました。その時代、周りの人々を感動させるために、大きな声で長い祈りをする人がいました。おそらく、あなたも誰かの祈りを聞いたとき、その人が誰に祈っているのか疑問に思ったことがあるかもしれません。

最後に、イエス様は断食について話されました。断食するとき、自分がかわいそうだという顔をする人がいました。そのため、周りの人々は「あの人は断食している。本当に霊的な人だ」と思ったのです。

しかし、イエス様によれば、神様はそのような断食に対して報いを与えられません。むしろ、神様は周りの人々に見えない行動を褒められます。なぜなら、その行動は神様への愛のために行われたものだからです。

相手を批判するのは簡単なことですが、あなた自身はどうでしょうか。周りの人々があなたについてどう思うかを気にしていないでしょうか。あなたは、自分の霊的な人生を見せたがっているでしょうか。

それとも、あなたは本当に神様と周りの人々を愛しているでしょうか。

周りの人々をだますことはできても、神様をだますことはできません。ただ正しいことをするだけでは十分ではありません。正しい動機が必要なのです。

では、正しい動機とは何でしょうか。それは、神様に対する愛、そして周りの人々に対する愛です。神様の目には、他の理由はまったく重要ではありません。

神様に対する愛も、周りの人々に対する愛も、外に向かうものです。

けれども、私たちの焦点が内に向き、つまり周りの人々が私たちをどう見ているかばかりを考えるようになると、私たちの良い行いは神様の目には価値を失ってしまいます。

実を言うと、私も自分の動機についてよく戦っています。いつも自分自身に問いかけます。

「私は誰を喜ばせようとしているのだろうか。教会でメッセージをする時、私は自分の霊的さで人々を感動させようとしているのだろうか。それとも、神様が本当に私を通して話しておられるのだろうか。私は誰の歓心を買おうとしているのだろうか。」

あなたはどうでしょうか。誰を喜ばせようとしているでしょうか。あなたの動機は何でしょうか。

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列王記第二

自分の動機を見極める

エフーはイスラエルの王としての評判はやや複雑でした。

彼は神様の命令に従い、アハブの家族を皆殺しました。そのため、神様は彼を誉め、約束を与えられました。

あなたはわたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、私が心に定めたことをことごとく行なったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に着こう。(列王記第二10:30)

けれども、ダビデやソロモンに対する約束とは異なり、神様はエフーに永遠の王国を約束されませんでした。

なぜでしょうか。おそらく、神様はエフーの心を見ておられたからでしょう。

9章を読むと、エフーが預言者にイスラエルの王として油を注がれたにもかかわらず、彼はそのことを真剣に受け止めていなかったように見えます。

しかし、人々が彼を王として認めると、突然、彼は預言者の言葉を信じるようになったようです。

それにもかかわらず、エフーの行動を見ると、彼は神様を恐れることなく、自分の力のために振る舞っていたことが分かります。

また、預言者が彼に油を注いだ出来事とその言葉を利用して、自分の行動を正当化したのです。

9章から10章にかけて、エフーはアハブの家族を殺害した後、ユダの王アハズヤとアハズヤの親族の数人を殺しました。

それだけでなく、エフーはアハブの身分の高い者や親しい者も殺害しました。けれども、神様はそのようなことを命令されたわけではありませんでした。

その行動のためか、預言者ホセアを通して、神様はエフーを裁かれました(ホセア書1:4)。

また、彼は他の罪も犯しました。

彼はイスラエルでバアルの礼拝を止めたものの、ヤロブアム王の二つの子牛の偶像を礼拝し続けました。

もしエフーが本当に神様を愛していたなら、そのようなことを決してしなかったでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたの動機は何でしょうか。

あなたは神様を愛しているために神様に仕えているのでしょうか。

それとも、自己中心的な動機のために生きているのでしょうか。

あなたは正しい行動をしているかもしれません。周りの人々はあなたを誉めているかもしれません。

しかし、神様はあなたの心をご覧になります。

もしあなたの動機が悪かったならば、神様からの報いは来ないでしょう。

自己中心的な態度で神様に仕えないようにしましょう。むしろ、神様をあなたの王として迎えましょう。

そして、神様の栄光のために生きましょう。

パウロが言ったように、

あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)