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ヨハネの黙示録

打ち倒された敵、怒りに燃える敵

なぜ私たちは苦しまなくてはならないのでしょうか。なぜ迫害されなくてはならないのでしょうか。なぜ神様はそのような苦難を許されるのでしょうか。

もしあなたが私と一緒に黙示録を読んでいて、特にこのブログを読む前に反キリストと向き合うことはないと思っていたなら、なぜ私がそれを信じているのか不思議に思うかもしれません。

正直に言えば、反キリストが来る前に神様がクリスチャンを天に引き上げてくださったらいいのにと思います。でも、黙示録、特に今日の箇所を読むと、私たちが反キリストを避けられると信じることはできません。

今日の箇所では、私たちはマリアがイエス様を生んでからのキリスト教の歴史を大観します。ヨハネはこう語りました。

また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。(黙示録12:1-2)

私はさっきマリアの名前に触れたので、あなたは上記の女がマリアだと思うかもしれません。でも、たぶんマリアはその女ではありません。

ヨハネが太陽や月や十二の星について語るとき、彼は旧約聖書に出てくるヨセフの夢に言及している可能性があります。その夢では、太陽と月と星はヨセフの父ヤコブ(別名イスラエル)、母、そして十一人の兄弟を象徴していました。そして、その夢で彼らはヨセフを拝みました(創世記37:9ー10)。

そういうわけで、その妊婦はイスラエルという国を象徴していると思います。そこから、私たちのメシアであり王であるイエス様がお生まれになりました。

しかし、イエス様が人間としてこの世におられる間、サタンを象徴する竜はイエス様を滅ぼそうとしました。例えば、サタンの影響を受けたヘロデ王がベツレヘムの赤ちゃんたちを殺したという出来事があります(マタイ2:16ー18)。

そして、十字架でイエス様は殺されました。けれども、その後、イエス様は復活し、天に戻られました。

それを見た後、ヨハネは天にある戦いを目にします。その戦いで、サタンとその使いたちは天から追放されました。そこでサタンは地に降り、女(つまりイスラエル)を追い詰め、滅ぼそうとしました。

私ははっきりとは分かりませんが、これは西暦70年のエルサレム崩壊を指している可能性があります。そのときサタンはイスラエルを滅ぼそうとしましたが、すべてのユダヤ人が殺されたわけではありません。

特に、ユダヤ人のクリスチャンたちはイエス様の警告(マタイ24:15-21)を覚えていて、ローマ軍の攻撃前にエルサレムから避難しました。

サタンはイスラエルを完全に滅ぼし、ユダヤ人たちを皆殺しにすることができなかったため、女の子孫の残りの者たちを殺そうとしました。その「女の子孫の残りの者」とは誰を指すのでしょうか。

それは、アブラハムの肉体的な子孫ではありません。むしろ、彼らは「神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たち」です。(17)

言い換えると、その子孫とは教会のことです。ユダヤ人でも異邦人でも、イエス様を信じる私たちクリスチャンは、真のイスラエルの子孫とされました(ガラテヤ3:29)。

では、なぜサタンは私たちに激しい怒りを燃やしているのでしょうか。なぜそれほど私たちを滅ぼそうとしているのでしょうか。

ヨハネはその理由を説明します。

悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り(ます)。(12)

悪霊たちは天から追放され、天にいる者たちは歓喜します。けれども、ヨハネは地上の人々に警告を与えます。

しかし、地と海はわざわいだ。悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、おまえたちのところへ下ったからだ。(12)

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちはすでに打ち倒された敵に直面しているということです。サタンはそれを知っていて、自分の時が短く、やがて裁かれることも理解しています。

第二に、その時が来るまでは、サタンは怒りを持って私たちを襲ってくるということです。だから、これまで見てきたように、そして後の箇所でも見るように、あるクリスチャンたちはイエス様のために殺されます。

それでも、私たちは最終的な勝利を手にします。サタンは私たちのからだを殺すことがあっても、私たちの魂を滅ぼすことはできません。だからこそ、サタンが天から追放されたとき、大きな声がこう天で叫びました。

今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。(10)

つまり、イエス様の十字架の御業によって、サタンはもはや私たちを責める権利を失ったのです。だからサタンが私たちを責めようとしても、神様は彼を黙らせてくださいます。

さらにヨハネによれば、私たちは一時サタンに敗れることがあっても、結局、

兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。(11)

サタンは私たちを襲い、命を奪うかもしれません。それでも、私たちは最終的な勝利を手にします。

なぜなら、イエス様は十字架で私たちのためにすでに勝利を収められたからです。そして、私たちのいのちと死を通して、私たちは神様が私たちの心を新しくしてくださったことを証し、サタンが私たちを責める権利をもはや持っていないことを証明するのです。

それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。(12a)

私たちはすでに勝利を手にしているのです。

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コリント人への手紙第一

最終の勝利

私はこの箇所が大好きです。この言葉を覚えておくべきだと思いますが、まだ完全にはできていません。

これは、パウロの勝利の叫びです。

そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」(コリント人への手紙第一15:54)

もしかすると、パウロは預言者イザヤの言葉を引用したのかもしれません。

(主は)永久に死を吞み込まれる。(イザヤ書25:8)

そしてパウロはこう叫びました。

「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」(55)

パウロは興味深い箇所を引用しました。その言葉はホセア書13:14からのものです。この箇所を正確に翻訳するのはやや難しいですが、新改訳は、ある英語の聖書と同様に、次のように訳しています。

「私はよみの力から彼ら(つまり、イスラエル人たち)を贖い出し、死から贖う。」

けれども、別の英語の聖書では異なる翻訳と解釈が示されています。それは、

「わたしは、よみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖うだろうか?そうはしない。死よ、おまえのとげはどこにあるのか?私たちの民を殺せ。よみよ、おまえの針はどこにあるのか?私たちの民を刺せ。」

つまり、神様はイスラエル人たちを彼ら自身の罪のために裁いていたということです。彼らは神様に対して不忠実だったため、裁きを受けました。

ところが、パウロはこう語っています。「神様はこの言葉を通して、人々を罪のために裁かれましたが、神様はその同じ言葉を用いて、かつて人々を支配していた罪と死に対する勝利を宣言されます。」

そして、パウロは続けてこう言います。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。(56)

「とげ」とは、バラのとげのようなものではなく、蜂やサソリの針のようなものです。また、「突き棒」という意味も含まれています。

そのため、罪はサソリの毒を持つ針のように私たちを刺し、その結果、死をもたらしました。また、突き棒のように、罪は私たちを破滅へと追いやりました。

パウロによれば、罪の力は神様の律法です。なぜなら、私たちはその律法を完全に守ることができなかったからです。

私たちは律法を知っていましたが、罪深い心のゆえにそれを破り、罪を犯しました。したがって、私たちは神様の裁きを受けるべき存在でした。(ローマ書7章)

しかし、イエス様がこの世に来られたとき、私たちの代わりに律法を完全に守られました。それだけではなく、十字架にかかり、私たちの罪のために死んでくださいました。

その結果、私たちはもはや律法の管轄下にはありません。むしろ、私たちは恵みの管轄下にあります。したがって、律法はもはや私たちに力を持ちません。

そして、律法が私たちに対する力を持っていないのなら、罪もまた私たちを支配する力を持っていません。

簡単に言えば、罪のとげは取り除かれたのです。

だからこそ、パウロは喜びをもって宣言します。

しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(57)

では、私たちにとって、これにはどのような意味があるのでしょうか。

私たちはもはや神様の裁きを恐れる必要はありません。それゆえ、死をも恐れることはないのです。

神様は私たちを呪おうとされるのではなく、むしろ、ある日、新しい体を与えてくださいます。私たちは永遠に神様に栄光を帰し、受けた恵みを喜び続けることができるのです。

あなたはどうでしょうか。死を恐れますか?それとも、あなたはパウロとともに喜びの歌を歌うことができるでしょうか。

死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(55)

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詩篇

勝利を与えてくださる神

多分、戦いの前に、ダビデは詩篇144篇を書いたでしょう。けれども、興味深いことは、ダビデがこの詩篇を賛美の言葉で始めたことです。

大変な状況に直面するとき、私たちは普段最初に、「神様、助けてください」と祈ります。しかし、ダビデはこう歌いました。

ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。(詩篇144:1)

私はこの歌を読むと、ヨシャパテの話を思い出します。彼が戦うとき、兵士たちの前に歌手たちを送りました。そして、彼らはこう歌いました。

主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。(歴代誌第二20:21)

この詩篇にも、ダビデは戦うときに、神様に対する信仰を言い表しました。自分の軍隊や盾に頼らずに、神様に頼りました。彼はこう歌いました。

主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。(詩篇144:2)

そして、8篇のように、ダビデはどうして神様が彼を愛しているのかを思い、驚きました。

彼は神様の愛を確信し、神様が戦いの中で彼を助けてくださることを願いました。また、神様が彼を敵から救い、彼の民に平安と繁栄をもたらしてくださるように祈りました。

そして、彼はこう歌って、この詩篇を終えました。

幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。(15)

あなたはどんな戦いに直面しているでしょうか。職場や学校や家庭でも、戦いがあるかもしれません。

一日の始まりに心配事を考えず、まず神様を賛美しましょう。神様があなたを愛していることを覚え、その知識に安心しましょう。

もし、あなたの周りに争いがあれば、神様の平和があなたを通して流れるように祈りましょう。

そして、その戦いがあなたに対しても、周りの人々に対しても、さらに敵に対しても、祝福となるように祈りましょう。

なぜなら、私たちの敵は本当の敵ではないからです。イエス様は彼らのためにも死んでくださったのです。

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詩篇

私たちが迫害される時

詩篇129篇では、私たちは二つのことを見ることができます。

一つ目は、ユダヤ人の迫害される歴史です。彼らはエジプトで迫害されたし、士師の時代にも、王国の時代にも迫害され、そして最終的に追放されました。

その追放から戻った後にも、迫害は続きました。ギリシャ王国とローマの帝国の時代に彼らは本当に苦しみました。

現代でも、その迫害が続いています。ヒトラーはたくさんのユダヤ人を殺し、イスラエルは何回も周りの国々に攻撃されました。今でも、イスラエルが滅びたら、アラブ世界は喜ぶでしょう。

それでも、ユダヤ人はこう言えます。

彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。彼らは私に勝てなかった。(詩篇129:2)

つまり(これは二つ目のことなんですが)、試練の中で、神様の手はずっとイスラエル人の上にありました。

私たちもそう言えます。私たちはアブラハムの霊的な相続人です。私たちも迫害されるかもしれません。家族や友達や私たちの政府が私たちを襲うかもしれません。

しかし、神様は私たちが立つように助けてくださいます。また、神様は教会が立つように助けてくださいます。だから、私たちの敵は私たちに最終的に勝てません。

だから、イエス様の言葉を覚えていましょう。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。

あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイ5:10-12)

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詩篇

勝利を思い出す

ちょっと詩篇108篇に飛びます。なぜなら、詩篇108篇には詩篇57篇と詩篇60篇の部分が含まれているからです。

具体的には、詩篇108:1-5は詩篇57篇の最後の部分から来ており、詩篇108:6-13は詩篇60篇の最後の部分から来ています。

詩篇108篇がその二つの詩篇のメドレーかどうかは分かりません。もしかしたら、ダビデはその二つの詩篇から新しい詩篇を書いたのかもしれません。でも、どうしてダビデはその二つの詩篇を組み合わせたのでしょうか。

私は二つの推測をしています。

一つ目は、ダビデが詩篇60篇を書いたときに、同時に詩篇108篇も書いたということです。

詩篇60篇の背景には、イスラエルが敵に敗れたことで苦しんでいた時期があります。だから、ダビデは神様が洞穴でどのように彼をサウルから救い出してくださったかを思い出したのでしょう。

多分彼は自分にこう言ったのです。「この敗戦には失望してはならない。神様が過去に何をしてくださったかを思い出そう。もし、過去に神様が私を救い出したなら、将来も神様は私を救い出してくださるだろう。」

二つ目は、詩篇108篇はその二つの事件の後に書かれたものであるということです。つまり、ダビデは振り返り、神様が何をしてくださったかを思い出して、神様を賛美したのです。

そのように、私たちも過去の勝利を思い出したほうが良いです。特に、苦難の時に、過去の勝利を思い出したほうが良いです。

そして、神様が私たちを救い出してくださった後、私たちは神様に感謝するべきです。

どうしてそうするべきでしょうか。

希望のためです。

苦しい時、勝利を思い出すことは私たちに希望を与えます。希望がないなら、試練に直面することは難しいです。

でも希望を持てば、どんな試練に直面しても、私たちは乗り越えられます。なぜなら、神様が私たちの味方で、私たちを助けてくださることを知っているからです。

あなたはどんな勝利を経験したでしょうか。その勝利について書きましょう。神様があなたの祈りに応えてくださるとき、そのことについて書きましょう。それだけではなく、神様をほめたたえましょう。

そうすれば、試練が来るとき、あなたは立つことができます。

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詩篇

私たちが敗れる時

詩篇60篇はちょっと不思議です。なぜなら、そのタイトルを見ると、この詩篇は勝利の時に書かれたもののように思えます。けれども、この詩篇によれば、イスラエル人は戦いに敗れたらしいです。

だから、彼らは叫びます。

神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、怒って、私たちから顔をそむけられました。

あなたは地をゆるがせ、それを引き裂かれました。その裂け目を、いやしてください。地がぐらついているのです。(詩篇60:1-2)

どうしてイスラエル人は敗れたのでしょうか。私たちにはわかりません。聖書ではその理由が書かれていないからです。列王記にも歴代誌にも、その敗北に関しては何も書かれていません。

言えることは、霊的な力と戦うとき、時々私たちは敗れるということです。しかしその時、二つのことを思い出しましょう。

一つ目は、神様が私たちを見捨てておられないということです。時々、私たちはそう感じるかもしれませんが、神様は私たちを拒絶しておられません。

二つ目は、時々私たちは戦いに負けることがありますが、結局私たちは戦闘に勝つということです。

神様はイスラエル人の叫びを聞いて、こう答えられました。

「わたしは、喜び勇んで、シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう。

ギルアデはわたしのもの。マナセもわたしのもの。エフライムもまた、わたしの頭のかぶと。ユダはわたしの杖。

モアブはわたしの足を洗うたらい。エドムの上に、わたしのはきものを投げつけよう。ペリシテよ。わたしのゆえに大声で叫べ。」(6-8)

つまり、「勝利は私の手にあります。私はあなたを私のものとして選んだので、あなたの敵をあなたの手に渡します。」ということです。

だから、イスラエル人は拒絶されたと感じたのに、彼らはもう一度神様に叫びました。

どうか、敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。

神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。(11-12)

そして、信仰によって、彼らは自分の力ではなく、神様の力によって出て戦いました。その時、神様は彼らに勝利を与えてくださいました。

最近、あなたは何かに敗れたでしょうか。失望しないでください。立ち上がりましょう。自分の力ではなく、神様の力によって立ち上がりましょう。神様の助けを願いましょう。そうすれば、勝利を得ます。

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詩篇

勝利と祝福がどこから来るか思い出す

何かがうまく行かない時や思い通りにならない時、私たちはすぐに神様について考えます。

けれども、勝利の時、また、祝福の時はどうでしょうか。その時、私たちはすぐに神様をほめたたえるでしょうか。もしくは、私たちは誇って、自分の偉さについて考えるでしょうか。

ダビデにも、その罠で倒れる時もありました。(第二サムエル記11-12章;24章)

しかし、詩篇21篇で、ダビデは勝利と祝福がどこから来るかを思い出しました。だから、彼はこう歌いました。

主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。

あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。セラ

あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。

彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。

御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます。

あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。(詩篇21:1-6)

それに、ダビデは、どうして神様が彼を祝福してくださったか思い出しました。

まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。(7)

勝利の時、あなたの考えはどこに向くでしょうか。

自分の力と知恵について自慢するでしょうか。もしくは、神様をその御業のために賛美するでしょうか。

あなたは、おもに自分の力と能力に頼るでしょうか。もしくは、おもに神様とその力に頼るでしょうか。

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詩篇

勝利の鍵

多分、戦争の前にダビデはこの詩篇を書いたでしょう。だから、イスラエル人は神様がダビデとその軍隊を祝福してくださるように祈りました。

苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。

主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。

あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえを受け入れてくださいますように。セラ

主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。

私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。(詩篇20:1-5)

それは素晴らしい祈りです。けれども、そのあと、ダビデは彼らに勝利の鍵を思い出させます。

ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。(7-8)

多くの場合、私たちは神様に相談せずに計画を立てて、「神様、私たちの計画を祝福してください」と祈ります。そして、私たちの計画がうまくいかないと、「どうしてでしょうか?」と尋ねます。

けれども、ダビデは自分の民に、そして私たちに思い出させます。成功の鍵は自分の力や知恵ではありません。むしろ、成功の鍵は神様に信頼することです。

自分の力と知恵に頼ると、結局あなたは倒れます。しかし、神様に信頼すると、結局あなたは立ち上がり、まっすぐに立つのです。

あなたはどうでしょうか。自分の力と知恵に頼りながら、神様の祝福のために祈っているでしょうか。それとも神様に頼り、信頼しているでしょうか。

戦う時だけではなく、計画を立てる時にも神様を求めているでしょうか。

私たちの知恵と力ではなく、神様とその言葉が私たちの基礎となりますように。

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ゼカリヤ書

勝利、命、光を与える方

ゼカリヤ書の最後では、私たちはイエス様がこの世に戻られる様子を見ることができます。また、イエス様がこの世を治める1000年の時代についても描かれています。

将来、周辺の国々がエルサレムを攻撃し、エルサレムの民の半分が追放されることが起こります。けれども、その時、イエス様はすぐに戻られるのです。

その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。

オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。(ゼカリヤ書14:4)

その時、世の光は無くなりますが、神様はご自身の栄光でこの世を照らされます。夜になっても、光があります。(6-7)

ヨハネはこう書きました。

都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(黙示録21:23)

それだけではなく、エルサレムから湧き水が流れ出ます。おそらく、エゼキエル47:3-11も同じことについて言及しています。

神様はイスラエルのために戦い、その敵に災害を送られます。12節を読むと、神様が国々の核兵器を彼ら自身に向けて使われるのではないかと考えます。そうかもしれませんが、はっきりとは分かりません。

それでも、その患難の後、世のすべての人々は神様を王として認め、神様の正義と恵みを喜びます。

かつて、ユダヤ人たちは仮庵の祭りを祝いました。その時、彼らは神様に感謝を捧げました。なぜなら、神様は彼らをエジプトの奴隷生活から救い出し、砂漠を越える間、守ってくださったからです。

同じように、私たちも神様を賛美します。なぜなら、神様は私たちをサタンの国の奴隷生活から救い出し、私たちの試練を通して導き、守ってくださったからです。

しかし、悔い改めない人々には裁きが待っています。

ここから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

1. 神様は勝利を与えてくださるお方です。

サタンは神様に逆らい、私たちを攻撃しますが、最終的に勝利を収めるのは神様です。実際、神様はすでに勝利しておられます。イエス様が十字架で死なれた時、神様は勝利されました。

とはいえ、サタンはその勝利を認めたくありません。それでも、どんな試練に遭っても、私たちは勝利を得ることを確信できます。それだけではなく、私たちは罪と死に対しても勝利を得るのです。

パウロはこう書きました。

しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(第一コリント15:57)

2.神様は命を与えてくださるお方です。

エルサレムから水が流れて、死海を魚が生きる場所に変えるように、聖霊様は私たちの人生に流れ込み、命を与えてくださいます。

しかし、神様から離れている人は命を離れ、惨めな人生を送ることになります。

3.神様は光を与えてくださるお方です。

私たちの人生が暗く、希望が見えない時、神様は私たちに光を照らし、希望を与えてくださいます。また、私たちが迷い、どの道を進むべきか分からない時、神様は正しい道に光を当ててくださいます。

主よ。あなたが私たちに勝利と命と光を与えてくださり、感謝します。どうか毎日、私たちがあなたにすがりつき、聖なる人として歩めるよう助けてください。

そして、毎日、私たちがあなたの目的のために生きることができますように。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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ミカ書

私たちの敵が攻める時に

イスラエルの歴史を振り返ると、その周囲には多くの敵が存在していました。この箇所では、アッシリヤがイスラエルを攻める敵の典型として描かれています。しかし、ミカはイスラエルの勝利を預言しました。

アッシリヤが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対して七人の牧者と八人の指導者を立てる。

彼らはアッシリヤの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリヤが私たちの国に来、私たちの領土に踏み込んで来たとき、彼は、私たちをアッシリヤから救う。(ミカ書5:5-6)

つまり、ある日、神様に逆らう者たちがイスラエルを打倒するために攻めてきます。しかし、神様はリーダーを立ててイスラエルを救われます。ただし、イスラエルの力は軍隊から来るのではなく、神様から与えられるのです。

ミカは7節で、イスラエルの残りの者を「主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ」と描写しています。つまり、この救いと勝利は人間の働きではなく、主の働きです。

だから、イスラエルの残りの者は敵が止めることのできないライオンのようになるのです。(8節)

その日、以前イスラエル人が信頼していたもの、つまり、軍隊や呪術師、占い師、偶像を捨てて、永遠に敵を打倒する神様に信頼するのです。

私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちの魂の敵が攻めてきたとき、どのように反応するでしょうか。私たちの人生、仕事、人間関係、経済、ミニストリーなどが攻められたときに何が起こるでしょうか。

私たちの勝利が自分の力と知恵から来るのではないことを思い出しましょう。

攻められたとき、私たちはよくパニックに陥り、自分の知恵と力でその問題を解決しようとしてしまいます。けれども、私たちは助けることのできる神様を忘れがちです。

もし本当の勝利を望むなら、神様に信頼しなければなりません。そして、神様がどうするかを教えてくださったら、私たちは従わなければなりません。そうすれば、私たちは勝利を得ることができるのです。

もう一つ覚えておかなければならないのは、イエス様はすでに最後の勝利を得られたことです。イエス様の十字架の働きによって、私たちは赦され、救われました。

だから、この世では、私たちの敵が私たちを攻めても、彼らは天国の報いに触れることはできません。

ですから、頑張り続けましょう。がっかりせず、むしろ神様に信頼しましょう。神様を待ち望みましょう。なぜなら、私たちはすでに勝利を得たのです。