私の英語のブログでは、12月にヘブル人への手紙についての記事を書き始めました。それは、とても良いタイミングでした。なぜなら、この手紙を通して、私たちはクリスマスの意味を学ぶことができるからです。
イエス様とは、どのようなお方でしょうか。なぜ、これほどまでに大切なのでしょうか。
この手紙の著者は、それを私たちに教えてくれます。(ちなみに、この手紙は匿名です。)
神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。
神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。(へブル人への手紙1:1-2)
神様は何百年もの間、数多くの預言者たちを遣わされました。けれども、この終わりの時には、預言者たちよりもはるかに偉大なお方をお送りになりました。もちろん、それはイエス様です。
イエス様は、イザヤ、エレミヤ、ダニエルよりも偉大なお方です。これらの預言者たちは多くの奥義を語りましたが、その奥義はイエス様によって明らかにされました。
使徒ヨハネによれば、イエス様は人となった神様の御言葉です(ヨハネ1:1、14)。
そして、イエス様にあって、神の御言葉はすべて成就されました。
では、イエス様とはいったい誰なのでしょうか。
エホバの証人によれば、イエス様は御使いのかしらミカエルだとされています。しかし、この手紙の著者は、それを明確に否定します。
むしろ、彼はこう語っています。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。(3a)
著者は、印章付きの指輪に触れています。指輪の印がろうに押されるように、神様の本質は肉体に刻印されました。ですから、イエス様を見るとき、私たちは神様の本質を見るのです。
イエス様は、神様の本質を完全に現しておられます。さらに、イエス様ご自身こそ、神様の栄光の輝きです。
そして、著者はこう語ります。
御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。(3b)
この言葉によって、私たちは、なぜイエス様が来なくてはならなかったのかを知ることができます。
私たちの罪が赦されるために、イエス様は十字架で死ななければなりませんでした。
けれども、イエス様は死後、復活されました。そして今は、天の父の王座の右に座しておられます。
イエス様が復活された日に、天の父はイエス様にこう言われました。
あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ。(5節ですけど、使徒の働き13:32-34をも読んで管ださい。)
かつての時代、ある国の王が別の国の王に従うとき、両者の関係は「親と子」と呼ばれることがありました。そのような背景の中で、神様はソロモンを「わたしの子」と呼ばれました(第二サムエル記7:14)。
そして、この手紙の著者はこう語ります。「天の父は、天使のいずれにも『わたしの子』と呼びかけたことはありません。」
しかし、天の父はイエス様に対しては「わたしの子」と呼ばれたのです。なぜなら、父と御子の間には、比類なき関係があるからです(4〜5節)。
さらに、神様がイエス様をこの世に遣わされたとき、こう言われました。
神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。(6)
これは、極めて意義深いことばです。なぜなら、礼拝にふさわしいのは神様おひとりだからです。
もしイエス様が天の父と等しい存在でなければ、天の父が「わたしの子にひれ伏せ」と言われることはなかったはずです(ルカ4:8)。
さらに著者は、天使たちを造られた存在(すなわち、風や炎)として描きますが、イエス様ご自身は創造主であり、「永遠の神」と呼ばれています(2、8〜12節)。
そして最後に、イエス様のような権威を持つ天使は存在しません。むしろ、天使たちは、イエス様によって救われた者たちに仕えるのです(13〜14節)。
言い換えれば、天使たちは栄光に満ちた存在ではありますが、イエス様はその上にある栄光を持っておられる方です。
イエス様は、まさに人となられた神ご自身です。そして、イエス様が来られたとき、神様は私たちにご自身を現されました。
それだけではありません。イエス様を通してこそ、私たちは自分の罪から救われ、永遠のいのちにあずかるのです。
これこそが、クリスマスの意味です。
