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創世記のデボーション

この世の取るに足りない者や見下されている者のため

私にとって興味深いのは、神様がラケルではなく、レアを選ばれ、イエス様がレアの血筋であったことです。

ラケルはヤコブに愛されていた人でした。レアは愛されていませんでした。ラケルは美人でした。レアは不美人でした。

それでも、神様はレアを選ばれました。

その話を考えると、コリント人たちへのパウロの言葉を連想します。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。

有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。(第一コリント1:26ー28)

どうして、神様はそのような人を選ばれるのでしょうか。

肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。(第一コリント1:29)

神様の恵みとキリストの働きだけによって、私たちは義と認められ、清められ、贖われました。(第一コリント1:30)

だから、パウロはこう言います。

誇る者は主を誇れ。(第一コリント1:31)

最終的にレアはそうしました。

最初の三人の息子たちが生まれたとき、レアは自分の惨めな状態で思い詰めました。「私は悩んでいる。私は嫌われている。私は愛されていない。」

でもユダが生まれた時、レアは自分の惨めな状態から目を離して、主に向かって、こう言いました。

今度は、私は主をほめたたえます。(創世記29:35)

そういうわけで、イエス様がユダの血筋であったことがとてもふさわしいと思います。

あなたは、自分が取るに足りない人だと思うかもしれません。自分が見下されている人と思うかもしれません。

でも、神様は特にそのような人に恵みを注ぐことを喜びます。

さらに、イエス様はそのような人に共感します。預言者イザヤはイエス様に関してこう言いました。

彼には見るべき姿も輝きもなく、 私たちが慕うような見栄えもない。

彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で、病を知っていた。

人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書53:2ー3)

でも、イエス様は取るに足りない人や見下される人に共感するためだけにこの世に来たわけではありません。イエス様が彼らを贖ってくださいました。

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(イザヤ書53:5)

クリスマスはただ嬉しい人や愛されている人や力のある人のためではありません。

クリスマスはレアのような人のためです。クリスマスはあなたのためです。クリスマスは私のためです。

だからレアと一緒に主を誇り、歌いましょう。「主よ。あなたをほめたたえます。」