もしかすると、詩篇85篇は、ユダヤ人たちがバビロンの追放から帰還した後に書かれたものかもしれません。エズラ記やネヘミヤ記によれば、ユダヤ人たちはイスラエルに戻ったものの、なお多くの困難に直面していました。
そういうわけで、詩人は、ユダヤ人への神様のあわれみを認めたうえで(1〜3節)、神様に向かって叫びました。
帰って来てください。私たちのところに。私たちの救いの神。
私たちへの御怒りをやめてください。あなたは、とこしえに私たちに対して怒られるのですか。代々に至るまで御怒りを引き延ばされるのですか。
あなたは、帰って来て、私たちを生かしてくださらないのですか。あなたの民があなたにあって喜ぶために。
主よ、私たちにお示しください。あなたの恵みを。私たちにお与えください。あなたの救いを。(詩篇85:4〜7)
詩人の痛みから、多くの疑問が生まれたことでしょう。しかし、その疑問には最終的にイエス様によって答えが与えられました。
イエス様が十字架で天の父の御怒りを背負われたゆえに、神様は私たちに永遠に怒るわけではありません。私たちが神様にあって喜ぶために、神様は私たちを生かしてくださいます。
イエス様のゆえに、神様は私たちに恵みと救いを与えてくださいます。
イエス様のゆえに、神様は私たちに平和を告げられます。(ルカ2:14;エペソ2:17)
イエス様にあって、神様の恵みとまことは共に会います。(ヨハネ1:14、17)
イエス様にあって、平和と義は口づけします。(ヘブル6:20〜7:3)
神様が私たちから遠く離れていると感じるとき、また神様の愛を疑うとき——それらのときこそが、私たちの希望を思い出す機会です。
イエス様こそ私たちの希望です。だから、私たちが疑いや叫び声に満ちた困難な時にあるときでも、魂の錨であるイエス様にしがみつきましょう。(ヘブル6:18〜20)
