3年ほど前、茨木市に電車で通勤した時、私はワーシップの歌を聞き、歌いました。もちろん声を出さなかったけれど、聞きながら私の口は動いていました。その時、隣の人から変な顔をされました。
(日本人はそういうことはあまりしないのでしょうか。)
とにかく、気にせずに私は歌い続けました。
その前の日曜日、私の牧師は大胆に叫ぶや歌うことについて話しました。
彼は尋ねました。「もしあなたが、阪神タイガースの試合を見る時、『ファイト、ファイト』と囁くでしょうか。違いますよね?あなたは『ファイト!ファイト!』と叫ぶでしょう。」
とにかく、詩篇47篇を読んだ時、そのことについて考えました。この詩篇は囁くことができないと思います。こんな詩篇は叫び、大きな声で歌わなければならないと思います。
すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。(詩篇47:1)
また、
神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。(6)
詩人の熱心さがよく見えます。一節で、彼は「神様にほめ歌を歌え」と4回も言っています。
どうして彼はそんなに盛り上がっているのでしょうか。どうしてそんなに喜んでいるのでしょうか。それは、神様が大いなる神だからです。
まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。(2)
また、神様は素晴らしいことをしてくださったからです。
国々の民を私たちのもとに、国民を私たちの足もとに従わせる。
主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。(3-4)
この詩篇では、詩人は神様がイスラエル人を約束の地に導いてくださったことについて話しています。
しかし、神様は私たちクリスチャンにも勝利を与えてくださいました。サタンに対する勝利を与えてくださいました。罪に対する勝利を与えてくださいました。また、死に対する勝利を与えてくださいます。
神様の愛によって、私たちには天国にある遺産があります。それに、この世でも、あなたの人生が生きがいのあるものになります。
だから、パウロはこう書きました。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。(第一コリント2:9-10)
だから、叫び、大きな声で歌うのは、当たり前のことですよね。
