兄弟や姉妹が罪を犯したとき、その人に向き合うことは決して容易ではありません。もしそれを『楽しい』と感じる人がいるなら、その人は向き合わない方が良いでしょう。
しかし、時にはその必要が生じることもあります。そのような状況において、パウロの生き方や言葉から、私たちは大切な原則を学ぶことができます。
パウロはこう記しました。
私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。(コリント人への手紙第二1:24)
人と向き合うとき、その態度はとても重要です。相手と話す際、「あなたは私の言葉に従わなくてはならない」という姿勢を持つべきではありません。
むしろ、私たちはこのような姿勢を持つべきです。「あなたを愛しています。あなたがこの罪を乗り越えられるように助けたいのです。あなたが本当の喜びを知り、信仰に固く立つことを願っています。」
しかし、多くの場合、私たちは相手を責める態度をとってしまい、彼らは私たちの中にイエス様の愛を見ることができません。
けれども、パウロの姿勢は違いました。彼はこう語りました。
私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。
それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。(コリント人への手紙第二2:2-4)
この言葉には、プライドや傲慢は微塵もありません。むしろ、パウロはコリントの人々に対する深い愛を示しました。
さらに、彼らと向き合うとき、パウロは彼らが悔い改めることへの強い希望を持っていました。
しかし、私たちは時として、人々と向き合う際にその希望を持たず、ただ怒りをぶつけて相手を責めてしまいがちです。
けれども、パウロの姿勢は違いました。彼はこう語りました。
あの手紙を書いたのは、私が訪れるときに、私に喜びをもたらすはずの人たちから、悲しみを受けることがないようにするためでした。
私の喜びがあなたがたすべての喜びであると、私はあなたがたすべてについて確信しています。(3)
つまり、「前回の手紙の目的は、次に会うときに辛い訪問にならないようにすることでした。私はあなたたちを信じているので、そのように書きました。あなたたちが悔い改め、もう一度共に主の喜びを知ることを信じていました。」ということです。
私たちは人と向き合うとき、「あなたらしい」と言うのではなく、「あなたらしくないよ。正しい道に戻りましょう。」という姿勢を持つべきです。
最後に、相手と向き合うべきときもありますが、神様が相手の心の中で働かれるべきときもあります。
パウロが最初にコリントの人々と向き合ったとき、彼らはただ怒っただけでした。パウロはすぐにもう一度向き合おうと思いましたが、最終的に後回しにしました。なぜでしょうか。
私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。。。
そこで私は、あなたがたを悲しませる訪問は二度としない、と決心しました。
もし私があなたがたを悲しませるなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょう。(コリント人への手紙第二1:23、2:1-2)
だから、彼はコリントに行かず、代わりに手紙を送り、彼らが悔い改めるように願いました。(2:3)
時として、それが最良の方法です。愛を伝えながら、彼らを神様の御手に委ねることです。
だから、人と向き合うとき、そのような姿勢を持ちましょう。そして、神様の恵みによって、彼らの人生に良い実が結ばれるでしょう。
