詩篇109篇は「呪いの詩篇」です。
時々、詩篇の中で、ダビデは自分の敵を呪ったり、その敵に対する神様の裁きを求めて祈ります。
多くの人々は(私も)こんな詩篇を読む時、気持ちがよくありません。なぜなら、イエス様は私たちに自分の敵を赦しなさいと命じられたからです。
以前、このブログでこのことについて説明したことがあるけど、繰り返した方が良いと思います。
王として、ダビデは正義の大切さをよく知っていました。彼は悪が続くことを許しませんでした。だから、ダビデはその悪者が自分が蒔いたものを刈り入れるように祈りました。
ダビデは無実なのに敵に責められたので、ダビデは彼らが裁かれるように祈ったのです。
「どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる者が彼の右に立つようにしてください。」という言葉は少し難しいです。
もしかしたら、ダビデは彼らも不公平に責められる経験を知ることを望んだのかもしれません。
そして、ダビデは祈ります。
その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。
彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。(詩篇109:9-10)
それは酷い祈りです。とはいえ、その悪者は他の家族をそのように苦しませたのです。
最近、私はニュースを見て、ある殺人者が刑務所で自殺したことを聞きました。彼は婚約者と娘を残しました。
私たちの罪は自分自身に影響を与えるだけでなく、私たちが愛する者にも影響を与えてしまいます。
そして、私たちが悔い改めないなら、神様の赦しを決して知ることがありません。
けれども、このことを覚えていてください。私たちは正義を望むかもしれないけど、苦々しい心を持ってはいけません。なぜなら、苦々しい心は相手を傷つけるよりも、自分自身を傷つけるからです。
興味深いのは、ペテロがこの詩篇をユダに当てはめたことです。ユダは理由もなくイエス様を裏切り、善にかえて悪を与え、愛にかえて憎しみを返しました。
そして、彼が決して悔い改めなかったため、神様は彼を赦されませんでした。その結果、彼の人生は短く終わり、彼の務めと立場は他の人に引き継がれました。
しかし、イエス様はユダに対して苦々しい心を持っておられませんでした。むしろ、最後の晩餐ではユダの足を洗い、彼にパンを与えられました。
そして、ユダが裏切るためにゲツセマネの園に来た時も、イエス様は苦々しさを示されませんでした。むしろ、イエス様はユダに対して情け深く接しておられました。
イエス様は騙されやすい方ではありませんでした。イエス様はユダの性格と動機をよく知っておられました。
それでも、イエス様はユダに憐れみと愛を示されました。その愛と憐れみによって、イエス様は彼の頭に燃える炭火を積まれたので(箴言25:21-22)、結局ユダは自分の罪悪感を感じて、自殺しました。
けれども、イエス様は苦々しさに汚れませんでした。
ダビデも苦々しさに汚れませんでした。一回だけ、ダビデは苦々しい心を持って、誰かを殺したいと思いました。
けれども、彼は本当の正義を思い出して、その苦々しい心を手放し、その人に憐れみを与えました。そして、彼が神様の正義を見たとき、この詩篇のように、彼は喜びました。
私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真ん中で、賛美します。
主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。(30-31)
だから、苦々しい心を手放しましょう。むしろ、憐れみ、赦し、そして正義を大事にしましょう。