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申命記のデボーション

命を選びなさい

私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。

あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。

まことにこの方こそあなたのいのちで(す)(申命記30:19ー20)

最近、私は私たちの神様との関係について考えていました。その時、鉢植えの花と切り花の違いに思いを巡らしました。

両方とも美しいですが、切り花は実際にはすでに死んだものです。なぜなら、命の源から切り離されているからです。

根元から切り離されたことで、その花はある意味で呪われた存在ともいえます。

私たちの神様との関係も同じです。

神様から切り離されると、私たちは呪われた存在となります。私たちはすでに死んだ者です。

しかし、神様につながり、日々命をいただくならば、私たちは栄えるのです。

では、私たちはどのようにして神様につながることができるでしょうか。

パウロは申命記30章を引用しながら、イエス様を指して、私たちがイエス様を信じ、自分の主とするように促します。(ローマ10:6-13)

ですから、命を選びましょう。

イエス様を選び、毎日愛し、御声に聞き従い、そしてすがりましょう。

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創世記のデボーション

彼の血が私に叫んでいる

カインがアベルを殺した後、神様はカインにこう言われました。

あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。(創世記4:10)

アベルの血は正義を求めていました。

だから、神様はカインにこう言われました。

今や、あなたはのろわれている。(11)

そして、カインは主の御前から出て行きました。(創世記4:14、16)

でも、数千年後、もう一人の無実の人が殺されました。イエス様は罪を全く犯されなかったのに、十字架で殺されました。

しかし、へブル人への手紙の著者は、イエス様とその血についてこう言っています。

あなたが近づいているのは。。。新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。(へブル12:22ー24)

アベルの血は正義を求めましたが、イエス様の血は罪人への神の恵みを願いました。

だから今、神様は私たちをご覧になると、こう言われます。

「わたしのひとり子の血は、その大地からわたしに向かって叫んでいる。だから、今や、あなたは祝福されている。呪いは取り除かれている。そして、わたしのひとり子の血によって、あなたの罪は赦されている。」

そういうわけで、へブル人への手紙の著者は私たちにこう励ましています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル10:19ー22)

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創世記のデボーション

呪いが解かれる日

今日の箇所を読んだとき、罪の呪いを思い起こしました。

罪悪感。恥。苦しみ。死。

でも、最も恐ろしいのは、神様の御前から投げ捨てられることです。

それでも、神様の御言葉によって、アダムとエバはなお希望を持っていました。

神様はサタンにこう言われました。

わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。

彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。(創世記3:15)

神様はその約束を守ってくださいました。

十字架で、イエス様は死なれましたが、それと同時に、サタンに致命的な打撃を与えられました。

さらに、三日目にイエス様は蘇られました。

そういうわけで、私たちは呪いが取り除かれる日を心待ちにしています。

ヨハネは幻の中でその日を見て、こう言いました。

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。

「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」(黙示録21:1-5)

アーメン。主イエスよ。来てください。(黙示録22:20)

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詩篇

苦々しい心と許し、憐れみと正義

詩篇109篇は「呪いの詩篇」です。

時々、詩篇の中で、ダビデは自分の敵を呪ったり、その敵に対する神様の裁きを求めて祈ります。

多くの人々は(私も)こんな詩篇を読む時、気持ちがよくありません。なぜなら、イエス様は私たちに自分の敵を赦しなさいと命じられたからです。

以前、このブログでこのことについて説明したことがあるけど、繰り返した方が良いと思います。

王として、ダビデは正義の大切さをよく知っていました。彼は悪が続くことを許しませんでした。だから、ダビデはその悪者が自分が蒔いたものを刈り入れるように祈りました。

ダビデは無実なのに敵に責められたので、ダビデは彼らが裁かれるように祈ったのです。

「どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる者が彼の右に立つようにしてください。」という言葉は少し難しいです。

もしかしたら、ダビデは彼らも不公平に責められる経験を知ることを望んだのかもしれません。

そして、ダビデは祈ります。

その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。

彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。(詩篇109:9-10)

それは酷い祈りです。とはいえ、その悪者は他の家族をそのように苦しませたのです。

最近、私はニュースを見て、ある殺人者が刑務所で自殺したことを聞きました。彼は婚約者と娘を残しました。

私たちの罪は自分自身に影響を与えるだけでなく、私たちが愛する者にも影響を与えてしまいます。

そして、私たちが悔い改めないなら、神様の赦しを決して知ることがありません。

けれども、このことを覚えていてください。私たちは正義を望むかもしれないけど、苦々しい心を持ってはいけません。なぜなら、苦々しい心は相手を傷つけるよりも、自分自身を傷つけるからです。

興味深いのは、ペテロがこの詩篇をユダに当てはめたことです。ユダは理由もなくイエス様を裏切り、善にかえて悪を与え、愛にかえて憎しみを返しました。

そして、彼が決して悔い改めなかったため、神様は彼を赦されませんでした。その結果、彼の人生は短く終わり、彼の務めと立場は他の人に引き継がれました。

しかし、イエス様はユダに対して苦々しい心を持っておられませんでした。むしろ、最後の晩餐ではユダの足を洗い、彼にパンを与えられました。

そして、ユダが裏切るためにゲツセマネの園に来た時も、イエス様は苦々しさを示されませんでした。むしろ、イエス様はユダに対して情け深く接しておられました。

イエス様は騙されやすい方ではありませんでした。イエス様はユダの性格と動機をよく知っておられました。

それでも、イエス様はユダに憐れみと愛を示されました。その愛と憐れみによって、イエス様は彼の頭に燃える炭火を積まれたので(箴言25:21-22)、結局ユダは自分の罪悪感を感じて、自殺しました。

けれども、イエス様は苦々しさに汚れませんでした。

ダビデも苦々しさに汚れませんでした。一回だけ、ダビデは苦々しい心を持って、誰かを殺したいと思いました。

けれども、彼は本当の正義を思い出して、その苦々しい心を手放し、その人に憐れみを与えました。そして、彼が神様の正義を見たとき、この詩篇のように、彼は喜びました。

私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真ん中で、賛美します。

主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。(30-31)

だから、苦々しい心を手放しましょう。むしろ、憐れみ、赦し、そして正義を大事にしましょう。

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マラキ書

私たちが神様に聞かないと

神様はイスラエル人を責められた後で、彼らに警告されました。

つまり、裁きの日が来ることを警告されます。もし彼らが罪を犯し続けるなら、彼らは裁かれ、救いの希望はなくなります。根も枝も残らない木のように、彼らは滅び尽くされます。

けれども、主を恐れる人には、この世で受けた傷のすべてが癒されます。悪はすべて消え、決して戻りません。だから、彼らの喜びは決して取り去られることはありません。

だから、神様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。(マラキ書4:4)

つまり、「裁きの日が来るので、私が言ったことを覚えていなさい。私の命令に従いなさい。」

もちろん、私たちはもうモーセの律法の下にはおりません。しかし、神様は私たちに命令を与えてくださいました。それは何でしょうか。ヨハネが私たちに教えてくれます。

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。(第一ヨハネ3:23)

そして、マラキはエリヤの到来を預言します。以前言ったように、バプテスマのヨハネはその預言を成就しました。彼はイエス様の道を整えました。そして、神様はヨハネの到来に関して、こう警告されました。

彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。(6)

2章で、私たちはイスラエル人の結婚の決裂を見ました。イスラエルの主人たちは妻を離婚し、この箇所によれば、父子の関係も決裂していました。私たちの社会のように、その二つの問題は関係があると思います。

マラキ書2章で、神様が言われたように、結婚の一つの目的は神様の子孫が生まれることです。つまり、その子どもは神様に従うのです。

けれども、結婚と家族が壊れたので、父子の関係も壊れ、その子どもの神様との関係も壊れました。

だから、その世代では、親も子どもも神様に聞かず、神様に従わないので、神様の呪いが来ていました。

そのように、この社会が悔い改めないと、結局神様の呪いがこの地を打ち滅ぼします。

あなたはどうですか。どんな心を持っているでしょうか。神様の御言葉に向かっている心を持っているでしょうか。それとも、神様の御言葉を無視しているでしょうか。