この箇所では、私たちは神様に対する呪われた考え方を目にします。このような考え方を持つならば、人は確実に滅びへと向かうことでしょう。
正直に言えば、そのような考え方を持つ人がいることが信じられません。彼らはこう言いました。
「私が罪を犯すことで、むしろ神様は喜ぶべきではないでしょうか。なぜなら、私の悪によって、神様の善がより明らかになるからです。
神様はご自身の良さを示したいと思っているはずです。もしそうならば、なぜ神様は私を裁かれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙3:5-8)
このような考え方はあまりにも愚かであるため、パウロはすぐに反論しました。
「いったい何を言っているのですか。神様は決して罪を喜ばれることはありません。もし神様が罪を喜ばれるのであれば、どうしてこの罪深い世界を裁くことができるでしょうか。」(6)
また、別の人々はこう言いました。
「私が罪を犯すことで、善がもたらされるのではないでしょうか。私の罪によって神様の良さがさらに明らかになり、神様の栄光が現れるのです。ならば、私はもっと罪を犯したほうが良いでしょう。」
パウロの答えは極めて簡潔であり、率直でした。
そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。(8)
もちろん、そのように考える人は、もはや誰もいないと思います。けれども、今なお似たことを口にする人はいます。今日は一つの議論を取り上げ、明日はもう一つの議論を考察します。
ある人はこう言います。「神が御怒りを下すのは不義ではないでしょうか。」(5)
現代の人々は、パウロの時代の人々とは異なる方法でこの議論を用います。彼らはこう言います。
「もし誰かが福音を聞いたことがないなら、どうして神様はその人を罰するのでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」
しかし、パウロはこの手紙の第一章で、この議論に反論しました。つまり、福音を直接聞いていない人であっても、神様の存在を示す証拠を持っているということです。
その証拠とは、被造物、彼らの内なる律法、そして彼らの良心です。それでも、彼らはそれらの証拠を持っていても、神様を求めようとはしません。
彼らは、自分が知らないことによって裁かれるのではなく、自分が知っていることによって裁かれるのです。したがって、彼らへの裁きは公平なものなのです。
また、多くの人々はこう言います。「神様はご自身を拒む人々を地獄へと行かせることがあるのでしょうか。彼らは本当に永遠に苦しまなければならないのでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」
正直に言えば、私は地獄について語るのが好きではありません。すべての人々が最終的に天国へ行くと信じたい気持ちがあります。しかし、聖書はそのようには教えていません。イエス様ご自身もそう教えられませんでした。
地獄について、私は二つのことを述べたいと思います。
第一に、人々が地獄へ行く場合、実は神様は彼らの願いを叶えておられるのです。つまり、神様を拒絶する人は、なるべく神様から遠く離れ、自分の思うままに生きたいと願います。
けれども、彼らが最終的に気づくのは、神様こそが愛、喜び、命、そしてすべての良いものの源であるということです。
したがって、神様から完全に離れた存在とは、すべての良いものからも離れた存在となるのです。それが何を意味するでしょうか。それこそが地獄なのです。
二つ目は、人々が地獄へ行く必要がないように、神様がイエス様をこの世に送られたことです。イエス様は十字架で私たちの罪のために死なれました。そして、救いの働きを完全に成し遂げられました。
私たちに求められることは、その働きを信じ、永遠のいのちという賜物を受け取ることだけです。
では、どのようにしてその賜物を受け取ることができるでしょうか。神様にこう祈るなら、その賜物を受けることができます。
天のお父様、今まで私は自分の道を歩み、人生を混乱させてきました。どうか私を赦してください。
イエス様が私の罪のために死に、よみがえられたことを信じます。だからこそ、これから私はあなたに信頼します。私の心の中で働いてくださり、毎日私がイエス様のようになれるよう助けてください。
この選択をすれば、私たちは真のいのちを知ることができます。救いの道は決して難しいものではありません。難しいのは自分の道を捨てることなのです。
C.S.ルイスはこう述べています。
最終的に、人は神様に向かって「あなたの御心が行われるように」と言うか、それとも神様が彼らに向かって「あなたの心が行われるように」と言われるかのどちらかである。
あなたはどう選択するでしょうか。
