カテゴリー
出エジプト記のデボーション

この世が知るように

あなたはわたしの命じることを、ことごとく告げなければならない。あなたの兄アロンはファラオに、イスラエルの子らをその地から去らせるようにと告げなければならない。。。

わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。(出エジプト記7:2,5)

モーセとアロンは、ファラオとエジプト人全員が神様が主であることを知るように、神様の言葉を告げなければなりませんでした。

同じように、私たちの周りの人々が神様が主であることを知るために、私たちも神様の言葉を告げなければなりません。

しかし、モーセとアロンの言葉がほとんど裁きの言葉であったのに対し、私たちの言葉は和解の言葉なのです。

パウロはこう言いました。

これらのことはすべて、神から出ています。

神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。

こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。

私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。

神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(第二コリント5:18ー21)

だからこそ、周りの人々が神様が主であることを知り、神様と和解することができるように、神様の言葉を告げましょう。

カテゴリー
ペテロの手紙第二

この世界は永遠に続くことはないから

今日の箇所で、ペテロがはっきりと言っているのは、この世界が永遠に続くものではない、ということです。彼は次のように言いました。

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。。。

その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。(ペテロの手紙第二3:10,12)

私たちは普段、このことについて考えることはないでしょう。むしろ、私たちは価値のないものに集中してしまいます。一時的なもの、快楽、仕事、お金などに執着し、人生を無駄にしてしまうことがあります。

しかし、最終的には、それらすべては燃えてしまうのです。その日、この地は消え去り、私たちの心は明らかにされ、神様の裁きに直面します。

だからこそ、ペテロは次のように言います。

このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。(11-12)

簡単に言えば、私たちは自分の優先順位を調整しなければなりません。この世のすべては滅びてしまうのですから、それらを追い求めるべきではありません。むしろ、神様とその御国を追い求めるべきです。

私たちは神様を喜ばせるように生きる必要があります。そして、毎日、神様の御国を広げるために働き、周りの人々に触れ、キリストの愛を分かち合わなければなりません。

では、「神の日の到来を早める」とはどういう意味でしょうか。どうやってその日を早めることができるのでしょうか。それは少し想像しづらいかもしれません。

それでも、私たちにはそれを行うことができます。なぜなら、神様が呼ばれる最後の人がイエス様を自分の主と救い主として受け入れると、教会の使命が完成されるからです。その日、神様はもう待つ必要がなくなり、イエス様を送ることができるのです。

けれども、神様と人間との和解をもたらす前に、私たちは自分自身が神様と和解されているかどうかを確認しなければなりません。そのために、ペテロは次のように言います。

ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。(14)

しかし、私たちは自分のために生きるなら、神様との平和を持つことはできません。また、神様の教えを曲げるなら、神様との平和を持つことはできません。

ある人々は、パウロの言葉やほかの聖句を曲げていたようです。けれども、それが彼らを滅びに導きました。(16)

多くの人々は、自分が気に入った聖句だけを受け入れます。けれども、神様の教えが気に入らなければ、その教えを無視したり、捨てたりしてしまいます。また、あえてその教えを完全に変えてしまう人もいます。

もし私たちがそのようなことをすれば、神様との平和を持つことはできません。私たちは、神様をありのままで受け入れなければなりません。神様を変えることはできないのです。

だから、ペテロは、神様のみ言葉を変える人々について、私たちに警告を与えています。

そして、ペテロはこの手紙の冒頭のように、その手紙を締め括ります。

私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。(18)

だから、イエス様とそのみ言葉を曲げるような教えを捨てましょう。むしろ、イエス様に近づき、イエス様から学ぶことを選びましょう。そうすれば、日々の中で、イエス様はますます大きく見えるようになるでしょう

そして、憐れみと平和が、あなたの人生に満ち溢れることでしょう。

イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。(18b)

カテゴリー
コリント人への手紙第二

和解のメッセージ

さまざまな試練や苦しみに直面するとき、クリスチャンは神様ができるだけ早く天国へと導いてくださるよう願うことがあります。神様はなぜすぐにそうされないときがあるのでしょうか。

いくつかの理由がありますが、最も大きな理由は、私たちがこの世でまだ果たすべき役割があるからです。

16節でパウロは、もはや人間的な基準で人々を見るのではなく、神様の基準で見るべきだと語っています。

では、神様はこの世の人々をどのように見ておられるでしょうか。彼らは神様の似姿として造られているため、神様の目には尊い存在です。

もちろん、私たちも神様の目には尊い存在ですが、それだけではなく、神様は私たちをキリストの使節として見ておられます。

ローマ帝国には2種類の属州がありました。一つはローマ帝国の支配を喜んで受け入れた属州で、これらは元老院の支配下に置かれていました。

一方で、ある属州はローマ帝国の支配に対して敵対的な態度を持っていました。これらの属州は直接カエサルの支配下にありました。そして、平和を保つために、カエサルはその属州に使節を送りました。

それがパウロの例えです。この世のすべての人々は神様の似姿として造られました。しかし、多くの人々は神様に対して敵対的な態度を持ち、反抗します。

では、神様の使節として、私たちはどのようなメッセージを伝えるべきでしょうか。それは敵対的なメッセージでしょうか。いいえ、そうではありません。むしろ、私たちは和解のメッセージを伝えます。

私たちはキリストに代わって願います。

神と和解させていただきなさい。神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(コリント人への手紙第二5:20-21)

それが福音のメッセージの中心です。

神の御子イエス様はこの世に来られ、完全な人生を歩まれました。決して悪を行わず、悪しき思いを抱かず、神様の命令に逆らうこともありませんでした。天の父が「その良いことをしなさい」と言われると、イエス様はいつも従われました。

それでも、罪をまったく犯されなかったにもかかわらず、イエス様は十字架につけられました。その時、神様は私たちのすべての罪をイエス様に負わせ、イエス様は私たちの罰を身代わりとして受けられました。

イエス様の十字架の御業によって、私たちがイエス様を信じるならば、神様はもはや私たちを罪人と見なされません。むしろ、イエス様の義が私たちを完全に覆い、神様が私たちをご覧になるとき、その義だけを見られます。

パウロの言葉を借りるなら、私たちは義と認められます。神様は私たちに対して、「無罪の者である」と宣言されます。

さらに、神様はイエス様の義の御業を、私たちの義のわざとして認めてくださいます。

では、その和解の賜物を受けるために、私たちはどうすればよいでしょうか。ただ、そのメッセージを信じ、受け入れることです。

これこそが和解のメッセージです。しかし、もう一つ重要な要素があります。それは、そのメッセージの緊急性を理解することです。

パウロによれば、私たちは彼らに懇願するべきです。「今、機会を見逃さないでください。待たないでください。」(コリント人への手紙第二6:1)

神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(6:2)

人々は、自分がいつ亡くなるのかを知ることはできません。悲しいことですが、心を頑なにし、待てば待つほど、そのメッセージを受け入れることが難しくなります。

ある歌は、私たちの願いをこのように伝えています。

Tomorrow.
明日ですか。
Forget about tomorrow.
この決断を明日まで先延ばしにしないで。
Won’t you choose the Lord today.
今日こそ、主を受け入れませんか。
For your tomorrow could very well begin today.
そうすれば、あなたの明日、つまり、あなたの将来は、今日始まるかもしれません。

カテゴリー
ローマ人への手紙

神様は私を罰しておられるでしょうか

前回の記事で、私は6-8節について話しましたが、その箇所を文脈に戻した方がよいと思います。そうすることで、私たちはパウロの主張をより明確に理解できるでしょう。

パウロが言ったのは、私たちは苦難さえも喜ぶということです。なぜなら、その苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、その品性は希望を生み出すからです。

しかし、多くのクリスチャンは苦難に直面すると、喜びません。むしろ、苦々しい思いを抱きます。忍耐を持たずにあきらめ、希望を持たずに絶望してしまいます。

なぜでしょうか。

多くの人々は、神様が彼らを罰していると思っているからです。彼らが失敗したために、神様が怒り、彼らを苦しませているのだと考えています。

さらに、時々彼らはそう感じますが、なぜ神様が彼らを罰しておられるのか分かりません。だから、その罰が不公平だと感じるのです。

では、パウロは何と言っているのでしょうか。

「神様があなたを罰しておられるという考え方を捨てなさい。」

パウロはこう説明します。

「少し考えてみてください。あなたがクリスチャンになる前、あなたは神様に背を向け、数多くの罪を犯しました。それでもイエス様はあなたのために死んでくださいました。

イエス様は、あなたの悔い改めを待っておられませんでした。あなたが自分自身を清めるのを待っておられませんでした。

あなたがイエス様を求める前に、イエス様はすでにあなたをお探しになり、手を伸ばしておられました。

ルールにこだわる人のために命を捨てる人はほとんどいないでしょう。優しい人のために命を捨てる人はいるかもしれません。

しかし、あなたが神様のルールに背き、神様や周りの人々を傷つけたにもかかわらず、神様はあなたを愛してくださいました。

神様はあなたのために御子を送り、イエス様があなたのために死なれました。

神様がこれほどのことをしてくださったのに、どうして神様があなたを罰しておられると思うのでしょうか。」

パウロはこう言いました。

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方(つまり、イエス様)によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。

敵であった私たちが、御子の死によって、神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが御子のいのちによって、救われるのは、なおいっそう確かなことです。(ローマ人への手紙5:10-11)

つまり、神様の目には、私たちはすでに義と認められています。では、どうして「神様は私を罰している」と思うのでしょうか。私たちはすでに神様の怒りから救われています。

そして、私たちが神様の敵であった時に神様が御手を伸ばしてくださったのなら、今私たちが神様の友である時に、なおさら御手を伸ばしてくださらないでしょうか。

だからこそ、苦難に直面しても、私たちは喜ぶことができます。神様は私たちを罰しておられません。神様は私たちの試練を無視しておられません。

むしろ、神様が私たちを罪から救われたように、試練からも救ってくださいます。

だから、パウロはこう言います。

それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。(11)

あなたは苦難に直面しているでしょうか。神様があなたを罰しておられるのか疑問に思っているでしょうか。

心に留めておきましょう。神様はあなたを罰しておられません。

もし神様に信頼するなら、火の中を歩いても、あなたは焼かれることはありません。むしろ、その火を通して、神様はあなたを清め、強めてくださいます。

だから、諦めないでください。絶望しないでください。むしろ、神様に信頼し続けましょう。

神様はこう言われました。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(5)

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ27章 マルコの福音書 マルコ15章 ヨハネの福音書 ヨハネ19章 ルカの福音書 ルカ23章

全額が支払われた

私が大嫌いなことの一つは、税金を払うことです。毎年、私は税務署に行き、確定申告を提出します。その後、一か月ほどして税務署が少しお金を返してくれます。しかし、その直後には市民税や県民税を支払わなくてはなりません。

私はいつも一括払いで税金を支払います。もちろん分割払いも選択できますが、一括払いの方が自分には合っていると思います。そうすれば、次の年まで税金のことを考えなくても済むからです。

十字架の上で、イエス様の最後の言葉は、まるでその税金を支払うイメージを描写しているようでした。

12時になると、暗闇が全地を覆いました。そして15時ごろまで、その暗闇は続きました。おそらくその間に、神様は私たちの罪をすべてイエス様に負わせたのではないでしょうか。

その暗闇は罪の象徴だったのでしょう。罪によって霊的な暗闇がこの世にもたらされましたが、天の父はその罪をイエス様に負わせられました。

そして、15時ごろ、イエス様は叫ばれました。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

その瞬間、おそらく天の父は、私たちの罪をイエス様に負わせ、イエス様に背を向けられたのではないでしょうか。それにより、天の父とイエス様との関係は初めて壊れてしまったのでしょう。

そしてイエス様は私たちが本来受けるべき罰を経験されました。つまり、イエス様は天の父から離れられたのです。

イエス様は完全な愛の源、喜びの源、そして命の源から離れられました。

そのような状態はまさに地獄そのものです。イエス様は実際に地獄に行かれたわけではありませんが、ある意味で地獄を経験されたのです。イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

そして、死を迎える直前、イエス様は天を仰ぎ、祈られました。

完了した。父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。(ルカ23:46;ヨハネ19:30)

「完了した。」

イエス様の時代、ユダヤ人たちが税金を支払うと、ローマ人はその言葉を請求書に捺印しました。その意味は、「全額が支払われた」ということです。

イエス様の死によって、私たちの罪のためのすべての負債が支払われました。

その結果はどうでしょうか。私たちは神様との新しい関係を持つことができるようになりました。神様は至聖所と聖所の間にかかっていた神殿の幕を、上から下まで真っ二つに裂かれました。(マルコ15:38)

その理由は何でしょうか。

その行為を通して、神様は私たちにこう語られたのです。「私たちの間にあった障害は破られた。イエス様を通して、あなたは私に近づくことができる。」

イスラエル人が経験したように(出エジプト記20:18-21)、私たちはもはや神様から遠くに立つ必要はありません。

むしろ、私たちは神様に近づくことが許されています。

だから、神様に近づきましょう。

へブル人への手紙の著者はこう述べています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル10:19-22)

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ12章

神様との和解

福音書に記されたイエス様の教えは、とても興味深いものです。なぜなら、以前述べたように、イエス様は同じたとえや教えを繰り返されることがあるものの、異なる適用を示されるからです。

山上の垂訓において、イエス様は私たちに、できるだけ早く相手と和解しなければならないと教えられました。そうしなければ、彼らがあなたを裁判官のもとへ連れて行き、あなたは裁かれることになります。そして、裁判官があなたを裁いた後では、もはや手遅れです。(マタイ5:26-27)

この個所では、イエス様は同じたとえを用いられますが、人々との和解について語っているのではありません。むしろ、神様との和解について語られています。

まず、イエス様は群衆を責められました。なぜなら、彼らは空の現象を通じて天気を予測できたにもかかわらず、神様からの明らかなしるしを見極めることができなかったからです。そのしるしとは、イエス様御自身です。

イエス様はすでに来られていたにもかかわらず、彼らはメシアとして認めようとしませんでした。それに加えて、彼らはイエス様の教えに反対し、結果として神様に反抗していたため、裁かれる危険がありました。

だから、イエス様は彼らに警告を与えられたのです。

あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。

裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。

あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。(ルカの福音書12:58-59)

要するに、神様との和解を求めなさい。そうしなければ、あなたは必ず裁かれることになります、ということです。

あなたはどうでしょうか。神様との平和を持っていますか。その答えは一つしかありません。それは、イエス様との関係です。

イエス様は十字架上で、私たちの罪の罰を身代わりとして受けてくださいました。もし、イエス様とその御業を信じるなら、私たちは神様と和解できるのです。

だからこそ、パウロはこう言いましました。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(第二コリント5:20-21)

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:和解

前の記事で、私たちはこの言葉を読みました。

平和をつくる者は幸いです。(マタイ5:9)

その言葉を読むと、多くの場合、私たちはケンカしている二人の友達を助けることを考えます。

けれども、私たち自身がケンカをしている時にも平和を作る者になるべきです。

イエス様はこう言われました。

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。

それから、来て、その供え物をささげなさい。(5:23-24)

注意事項が二つあります。

まずは、イエス様は「もしあなたの兄弟があなたに恨みをもつなら、あなたは彼のところに行って、仲直りしなさい。」と言われます。

多くの場合、私たちは自分が悪いことをしていないと思うのに、誰かが私たちに怒っています。だから、私たちは「それは彼の問題です。私には関係ない。」と言います。

しかし、そうするなら、実はあなたは彼のことを見下しています。

あなたは口では言わないかもしれませんが、あなたの行動によって、「この人は私の時間に価値しない。もし彼が問題を抱えているなら、彼がこちらに来るべきだ。」という態度を示します。

けれども、イエス様はそのような態度を許されません。もし誰かが私たちを恨んでいるなら、私たちは積極的に仲直りしようとしなくてはなりません。

時には、あなたが謝らなくてはならない場合もあります。

あなたはこう言うかもしれません。「でも、私は悪いことをしていないのに。」

そうかもしれません。相手が繊細過ぎるかもしれません。それでも、相手の感情を考えてください。もしあなたの行動や言葉で彼らを傷つけたのであれば、あなたは謝るべきです。

せめて、「思わずあなたを傷つけてしまい、ごめんなさい。許してくれませんか。」と言った方が良いです。

そして、彼らを傷つけた言葉や行動を二度としないように気を付けるべきです。これは、相手のためだけでなく、彼らのために十字架で死なれたイエス様のためでもあります。

二つ目は、私たちの壊れた人間関係が、私たちの神様との関係に影響を与えるということです。

もし私たちができる限り相手と仲直りしようとしないのなら、神様は私たちの供え物を受け入れてくださいません。ペテロも、夫が妻を思いやりを持って扱わないなら、神様があなたの祈りを受け入れてくださらないと言います。(第一ペテロ3:7)

さらに、もし私たちが本当に悪かった場合、イエス様は私たちがすぐに積極的に償いをしなくてはならないと言われました。

あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。

そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。

まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。(5:26-28)

でも、あなたが悪くなくても、できるだけ相手と仲直りをしようとするべきです。

もう一つのポイントがあります。時々、相手には私たちと仲直りする気がありません。それは私たちがコントロールできないことです。私たち自身の行動だけがコントロールできます。

だから、相手のために祈ってください。相手と仲直りするために何をした方がいいか、神様に尋ねてください。そして、神様があなたにアイデアを与えてくださるなら、それを実行すべきです。

そのあとのことは、相手の責任です。もし彼らが反応しないなら、その状況を神様の手にゆだねることしかできません。

パウロはこう書きました。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)

あなたの周りの人々とはどのような関係がありますか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:平和をつくる者

神様は、私たちを平和をつくる者として召されています。

なぜでしょうか。それは、イエス様ご自身が偉大な平和の仲介者だからです。

私たちの罪によって、神様との間に大きな隔たりがあったとき、イエス様はこの世に来て、十字架で私たちの罰を引き受けてくださいました。その御業によって、私たちは神様との平和を得ました。

だからこそ、私たちが人々を和解させるなら、私たちが本当に神の子どもたちであることを証明するのです。

神様は、ご自身の愛する子どもたちが争うことを悲しまれます。だからこそ、神様は私たちを和解のために召されるのです。

もちろん、私たちはすべての争いを止めるように召されているわけではありません。私たちがまったく関係のない争いなら、巻き込まないほうが良いでしょう。(箴言26:17)

しかし、あなたが愛する人々が争っているなら、できる限り平和をもたらすために努力すべきです。

もちろん、それには神様の知恵が必要であり、適切なタイミングを見極めることも大切です。また、愛と敬意のある関係がなければ、彼らはあなたの言葉を聞かず、かえってあなたを責めるかもしれません。

さらにもう一つの意味で、私たちは平和をつくる者として召されています。それは、神様と人々の間に平和をもたらすことです。

パウロはこう書きました。

これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。(第二コリント5:18-19)

それは大きな責任です。イエス様は十字架で和解の御業を成し遂げられました。しかし、神様は私たちにこう語られます。 「この和解の言葉をあなたに委ねます。あなたは私の使節となりなさい。」

では、その和解の言葉とは何でしょうか。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(5:20-21)

もちろん、私たちは人々の心を変えることはできません。それは御霊の働きです。

それでも、私たちは平和をつくる者として召されています。つまり、神様とその愛する者たちを和解させるために召されているのです。

イエス様はこう言われました。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)

あなたはどうでしょうか。あなたは平和をつくる者ですか。

カテゴリー
箴言

周りの人々との平和、心の中の平和

この箇所を読むと、次の三つの箴言が私の心に響きます。

罪過のためのいけにえは愚か者をあざけり、正しい者の間には恩恵がある。(箴言14:9)

時々、私のブログを日本語に翻訳するのは難しいです。なぜなら、時々新改訳と英語の翻訳は違うからです。一つの単語にはいろんな意味があり、ヘブル語の文法は英語と日本語の文法と違うからです。

この箇所は一つの例です。

多分、文法的に、日本語の方が正しいでしょう。とはいえ、その意味はちょっと分かりにくいです。

新改訳が正しいなら、多分その意味は、愚か者が自分の罪を思い出すと、彼らは罪悪感があって、苦しむということです。

けれども、多くの英語の聖書では、この箇所はこのように翻訳されています。

愚か者は過去のためのいけにえをあざけり、正しい者の間には恩恵がある。

つまり、愚か者には罪悪感がありません。誰かが彼らに「あなたは罪を犯しました。あなたは悔い改めて、神様にいけにえを捧げるべきです」と言っても、彼らは全然悔い改める気がありません。

けれども、悔い改める人は相手と和解することができます。

私たちはただの人間です。私たちは皆、意図せずに人を傷つけることがあります。多くの場合、あなたが謝ったら、その人と和解できます。しかし、時々謝罪するだけでは足りないこともあります。

例えば、自分の子供と遊ぶと約束したけれど、急用のためにできなかった場合、もちろん謝った方が良いですが、後で、予定を空けて、彼らと遊ぶべきです。正しい人はそのようなことをします。

その一方で、愚か者、つまり、道徳観念のない人は、謝らないし、償いをするのを拒絶します。むしろ、彼らは償いをする必要がないと言い張ります。「相手が気にしすぎだ」と言います。

けれども、周りの人々と平和を望むなら、償いをしなくてはならないのです。

22節では、ソロモンはこう書きます。

悪をたくらむ者は迷い出るではないか。善を計る者には恵みとまことがある。(22)

もちろん、悪をたくらむ人は人間関係を壊します。けれども、私たちが意識して周りの人々を祝福するなら、その関係から恵みと真が生まれます。私たちが相手に親切にするなら、彼らも私たちに親切にしてくれます。

どれくらい、あなたは意識して友達を祝福するでしょうか。どれくらい、あなたの妻や夫を祝福するでしょうか。

例えば、あなたはどれくらい外食に行く時に友達におごったり、あなたの妻にバラを買ってあげたり、そのようなことをするでしょうか。

もちろん、周りの人々との平和は大切なことです。しかし、自分の心の中で平和があることも大事なことです。それに関して、ソロモンはこう言います。

穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。(30)

この箇所も、翻訳は少し難しいです。新改訳では「激しい」と書いてありますが、別の意味として「嫉妬」があります。

だから、ある英語の聖書はこう書いてあります。

嫉妬は骨をむしばむ。

あなたは満足でしょうか。周りの人々のものを見る時、ねたむことはありますか。彼らの仕事や持ち物、妻や夫を見る時、ねたむことはありますか。

嫉妬すると、骨をむしばみます。決して幸せを得ることはできません。なぜなら、良いものを持っていても、それに感謝できないからです。常に相手のものを見ているからです。

しかし、あなたが満足していれば、平和があり、神様からの賜物を楽しむことができます。

あなたはどうですか。周りの人々と平和がありますか。心の中で平和がありますか。

カテゴリー
イザヤ書

和解

聖書では、神様はイスラエルを浮気性の妻にたとえることがよくあります。それでも、神様は忠実な夫として、いつもイスラエルを追い求め続けておられました。

それは本当に不思議なことだと思います。もし私の妻が浮気したら、私はどう対応するか自信がありません。もし彼女がいつも他の男性を追い求めていたら、私は何をすれば良いのか分からないでしょう。

それでも、イスラエルの民がいつも他の神々を追い求めたにもかかわらず、神様は彼らを見捨てることなく、追い求め続けておられました。

そして、この箇所で神様は、イスラエルに祝福を与えると約束されています。

つまり、イスラエルの民が追放され、捨てられた妻のような存在であり、さらに子どものいない妻であったにもかかわらず(当時のイスラエル文化では、それは大変な恥とされていました)、神様は彼らと和解されたのです。

神様は彼らにこう語られました。

あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。

主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあなたの神は仰せられる。

「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。

怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる。(イザヤ書54:5-8)

そして、神様はこう言われました。

たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。(10)

この世界では、愛はとても揺れやすいものです。愛はすぐに崩れることがあります。

夫が妻を捨てることもあれば、妻が夫を捨てることもあります。

しかし、神様が約束されるのは、神の愛が決して変わることはないということです。たとえ私たちが何をしても、どんなに失敗しても、神様の愛が私たちから離れることはありません。

それだけではなく、私たちが困難に直面しているとき、神様は私たちを守ってくださいます。

17節で、神様はこのように語られています。

あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。

これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。――主の御告げ――」(17)

神様があなたを捨てたと思いますか。罪や失敗が多すぎるから、神様があなたを諦めたと感じていますか。

いいえ、神様は今もあなたを追い求めています。神様の愛は決して絶えることがありません。永遠に変わらず、あなたを包み込んでいます。

だから、過去のものを忘れましょう。罪の廃墟から歩み出て、新しい道へ進みましょう。

そして、

「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。」(2)

つまり、私たちはイエス・キリストを通して、すでに神様と和解しました。そして、神様は私たちのために良いものを備えておられるのです。

そのため、毎日充実した人生を送りましょう。毎日、神様に信頼し、神様の変わることのない愛の中で安心しましょう。